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テロ特措法に反対。自党の男性議員から受けた罵声

元参院議員・円より子が見た面白すぎる政治の世界⑫重労働の国対幹部、9・11に衝撃

円より子 元参議院議員、女性のための政治スクール校長

細川さんの激励で受諾を決意

 私が政治生活をはじめた日本新党は、新しい政治スタイルを確立しようとしていたので、自民党政治の象徴ともいえる「料亭政治」を廃止したが、同時に「国対政治」も改めようとしていた。国対といえば、他党との折衝と称して、毎夜、麻雀や飲食を行うのが常。それこそ、社会党が激しく法案に反対する場合は、高級料亭で社会党の国対委員長などを自民党の国対委員長が接待したり、かけ麻雀でわざと自民党国対委員長が敗ける、なんてこともいわれていた。もちろん、ゴルフ接待も。

 料亭やゴルフの帰りには「お土産」が渡され、料亭が取り寄せた高級な菓子折りの中には分厚い札束が入っているという噂も、まことしやかにささやかれた。そうした「悪弊」を断つというのが、日本新党のスタンスだった。

 そんなわけで、国対にいいイメージを持っていなかった私は、国対委員長代理を引き受けてくれといわれたとき、逡巡した。だが、かつて日本新党の代表だった細川護熙さんに相談すると、細川さんも自民党の参院議員時代には国対をやったことがあるという。それも5年間も!

 「自民党の参議院で、まともに国対がやれたのは斎藤十朗議長と私だけですよ。円さんも頑張りなさい。必ずその経験はあなたを大きくしますよ」。そう励まされた私は、「ゴルフ、麻雀、飲み食いをしませんけど、それで務まるなら」と言って引き受けた。

国会議事堂一番乗りは青木幹雄・官房長官

 国対委員長代理の仕事は生易しいものではなかった。

 忘れもしない委員長代理になって3日目のこと。北澤俊美・国対委員長(後の防衛大臣)は地元の急用で留守だった。議運委員会の理事会が終わり、理事が国対の部屋に戻ってくる。国対が報告を聞いて、次の手を指示するのだが、空いている委員長の席に堂々と党職員である事務局長が坐り、私よりずっと年上の議運の理事に、「こうこうして下さい」と指示を出している。議運の理事も事務局長も、私などまったく無視である。

拡大青木幹雄・官房長官=1999年10月15日、首相官邸
 これではいけない。その日以降、私は委員会の質問資料などを国対の部屋に持ち込み、朝から晩まで詰めることにした。部屋には、あらゆる委員会の理事や他党の国対関係者、各省の国会担当がやってくる。そこにいると、国会で何が起きているか、どういう手を打たなければならないかが、会得できるからだ。

 朝一番に国対の部屋に入ろうと思い、頑張って早起きし、国会議事堂に行った。国会議員は議事堂内に入るとき、入館のボタンを押す。すると自分の名札にランプがつく。一番乗りを狙って入るのだが、いつも二番だった。一番は誰か? それは当時、官房長官だった青木幹雄さんだった。

 参院議員2期目になった私は、盗聴法阻止や外国人登録法、児童買春児童ポルノ禁止法の議員立法に関わる一方、国対委員長代理として国会に張り付くという、支持者には見えにくい仕事をせっせとこなしていたが、そこにふってわいたのが、テロ特措法審議という大事案であった。


筆者

円より子

円より子(まどか・よりこ) 元参議院議員、女性のための政治スクール校長

ジャパンタイムズ編集局勤務後、フリージャ―ナリスト、評論家として著書40冊、テレビ・講演で活躍後、1992年日本新党結党に参加。党則にクオータ制採用。「女性のための政治スクール」設立。現在までに100人近い議員を誕生させている。1993年から2010年まで参議院議員。民主党副代表、財政金融委員長等を歴任。盗聴法強行採決時には史上初3時間のフィリバスターを本会議場で行なった。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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