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小沢一郎が見たロッキード事件

(13)田中角栄のもとを次々と人が離れていく中、小沢はロッキード裁判に通い続けた

佐藤章 ジャーナリスト、慶應義塾大学非常勤講師、五月書房新社編集委員会委員長

拡大記者会見で質問に答える小沢一郎氏=1993年11月8日、国会内

田中角栄のもとを去らなかった小沢一郎

 司法試験を目指していた大学院生、小沢一郎が、日本の政治の頂点に上り詰めようとしていた自民党幹事長の田中角栄の門を叩いたのは、一郎26歳、角栄50歳の1968年12月だった。その3年7か月後の1972年7月、田中角栄は、自民党総裁選で佐藤栄作の支持した福田赳夫を破って党総裁、第64代の首相に就任した。

 しかし、2年5か月後の1974年12月には国会などで金脈問題の追及を受け首相を辞任。さらに首相退陣後、1976年7月にはロッキード事件の受託収賄罪容疑などで逮捕された。権力の頂点に駆け足で駆け上がり、戦前の高等小学校を卒業しただけで首相になったということで「今太閤」ともてはやされたが、その座から転がり落ちるのも早かった。

 小沢は、短い時間の中で描いてみせた人生と権力の急角度の放物線を至近距離で目撃し続けた。ロッキード事件の裁判も欠かさず傍聴した。

 しかし、小沢は事件や裁判の推移を冷静に見つめていただけではない。首相辞任後の田中から櫛の歯が抜けるように一人また一人と田中のもとから人が去っていく中で、寡黙な青年政治家、小沢だけは去らなかった。

 東京・平河町にある砂防会館の田中事務所に足繁く訪れ、田中を見舞った。長い話をするわけではない。何時間でも二人だけで将棋盤とにらみ合った。余計なことは喋らず、人生の苦しみと無為の時間を黙ってともに過ごしてくれる人物。田中がそこに無償の友情の姿を見いだしていたとしても不思議ではない。

 ロッキード事件そのものは、全日空への旅客機L1011トライスターの売り込みに関してロッキード社から田中に5億円の謝礼が支払われたという筋が人口に膾炙しているが、全体像はそんな単純なものではない。ロッキード社からは軍用の対潜哨戒機P3Cの売り込みの件もあり、事情は輻輳していた。

 事件の背景についても、独自の資源外交や急な対中国国交正常化を成し遂げた田中に対して米国が仕組んだとする見方や、政敵田中を追い落とすことを目論んだ三木武夫首相の執念を挙げる見方など、多分に政治的な要素の強い事件だと位置づける考え方が根強く存在する。

 その意味で、ロッキード事件はまだ解明されていない部分が非常に多い事件である。田中の栄光の頂点への急登攀と、容赦のない急転落を目の前で目撃し、苦しみの時間を傍でともに過ごした小沢一郎は、事件をどのように見ていたのか。

 ロッキード事件そのものについては、小沢も政治的色彩の強い事件だと考えていたが、その見る角度は非常にユニークなものだった。

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筆者

佐藤章

佐藤章(さとう・あきら) ジャーナリスト、慶應義塾大学非常勤講師、五月書房新社編集委員会委員長

ジャーナリスト学校主任研究員を最後に朝日新聞社を退職。朝日新聞社では、東京・大阪経済部、AERA編集部、週刊朝日編集部など。退職後、慶應義塾大学非常勤講師(ジャーナリズム専攻)、五月書房新社取締役・編集委員会委員長。著書に『ドキュメント金融破綻』(岩波書店)、『関西国際空港』(中公新書)、『ドストエフスキーの黙示録』(朝日新聞社)など多数。共著に『新聞と戦争』(朝日新聞社)、『圧倒的! リベラリズム宣言』(五月書房新社)など。

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