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小沢一郎が見たロッキード事件

(13)田中角栄のもとを次々と人が離れていく中、小沢はロッキード裁判に通い続けた

佐藤章 ジャーナリスト、元朝日新聞記者、五月書房新社編集委員会委員長

拡大1979年秋の総選挙をにらんだ自民党田中派が総会。中央で話を聞くのが田中角栄元首相。右奥は小沢一郎氏

「中国の次はソ連だ」

――小沢さんが田中角栄の門を叩いたのは1968年12月です。その後72年7月に田中角栄政権が誕生しますね。

小沢 昭和47年(1972年)だから、ぼくがまだ2期目の時ですね。

――そうですね。この時には、田中さんはまず日中国交正常化を非常に華々しく仕遂げて、秘書だった佐藤昭子さんの著書によると、「次はソ連だ」としばしばつぶやいていたということですね。非常に田中さんの野心を感じる文脈ですが、そのあたりはどうだったのでしょうか。

 佐藤昭子は田中後援会の「越山会の女王」と呼ばれた秘書。17歳で田中に出会い、秘書として田中を支え続けた。田中派の竹下登や小沢らからは慕われたが、田中が倒れて後は田中の長女、真紀子と合わず、田中とも会うことはできなくなった。その著書『決定版 私の田中角栄日記』(新潮文庫)には「田中の目はいつも先を睨んでいた。中国に行く前から、私にはこう言っていたのだ。『中国の次はソ連だ、ソ連だよ』」

小沢 中国と全然国交がないというのも不自然な話だからね。だから、日中国交を回復させたのは大英断だったと思う。自民党の中の意見は真っ二つだったけど、それでもやりましたから。最後は総務会を説得して説得して、反対派は欠席してもらったんだったかな。とにかく大変な騒ぎでしたね。しかし、その後、ソ連だということで、チュメニ油田のこともあるし、アメリカににらまれたという話になってくるんです。

 チュメニ油田はロシアの西シベリアにある油田地帯で、産油国ロシアの中でもエース的存在。田中角栄は中東産油国や米国の石油メジャーに一方的に頼らない独自の資源外交を目指して、チュメニ油田開発をめぐりブレジネフ・ソ連共産党書記長や西ドイツ首脳らと交渉を重ねていたが、これが米国の「虎の尾」を踏んでロッキード事件を仕掛けられたという見方が根強くある。

――もちろん田中さんは、ソ連のチュメニ油田開発だけではなくて、オーストラリアに行って独自のウラン資源外交を展開しました。これも含めて米国に睨まれる原因を作ったと言われていますね。

小沢 それはそうかもしれない。アメリカも、刑事免責を与えた上でのコーチャン(ロッキード社副社長=当時)やクラッター(同社東京代表=同)の嘱託尋問を許しているからね。まず、ロッキード裁判自体がものすごくねじ曲がった裁判だと思う。お金を出したロッキード社側のコーチャンとクラッターを刑事免責にしておいて証言を取ったわけだから、非常に問題でしょう。あれをやればみんな検察の言う通りに喋るでしょう。お前は免責にしてやるから何でも喋れということですから、

 でたらめでも何でも全部喋ってしまう。それでその喋ったことを証拠採用するというのでは、もう話にならないでしょう。

――小沢さんは、ロッキード裁判はほとんど傍聴したわけですよね。

小沢 はい。他に毎回傍聴している人がいなかったですからね。しかし、変な裁判だと思いました。まず、関係者の誰も5億円というお金も、お金が入っていたというダンボールも見ていないんだよ。

――裁判の内容はまた後ほどお聞きするとして、その間、田中さんの普段の様子はいかがでしたか。裁判の経過とともに田中さんのもとからだんだん人が去っていく中で、小沢さんだけは変わらずに足繁く田中さんの事務所を見舞っていたという関係者の回想もありますが。

小沢 うん、ぼくはしょっちゅう行っていたよ。

――しょっちゅう?

小沢 うん、親父の顔を見られるかどうかという感じがあって、しょっちゅう行っていた。ひょいっと出入りする時に、ひょいっと挨拶するだけだったけどね。ぼくは、それで満足だった。

――それは、小沢さんにとっても田中さんはそれだけ人間的な魅力があったということですか。

小沢 はい。それとやっぱり、それだけ心情的に近かったからね。しょっちゅう行っていたけど、あまり喋ったりはしない、親父は。ただ、「おう」って言うだけだよ。

――そうやって事務所に行かれて、それから田中さんの自宅にも行ったのですか。

小沢 目白の自宅に行くのはもっと後からかな。ほとんど事務所だったね。

――田中さんの政務秘書だった早坂茂三さんの回想によると、小沢さんは砂防会館の田中事務所によく顔を見せて、田中さんと小沢さんと二人で何時間でも将棋を指していたとありますね。

小沢 はい。

――さらに早坂さんの回想では、小沢さんは田中さんからいろいろな話を聞いたとありますね。田中さんが苦労した政治の話や、政治家の生き様などを小沢さんに話して、小沢さんは田中さんの良いところも悪いところもわかっていたと回想しています。やはりいろいろな話を聞きましたか。

小沢 そうそう。それはそうです。いろいろなことを話したり、ぼくの前で重要な電話をしたり、いろいろとありましたね。何でも喋ったし、自分の本心も喋っていた。

――ロッキード事件については何か話していたことはありますか。

小沢 まあ、それはぽっちんぽっちんとね。

――何か特別に印象に残っていることはありますか。

小沢 あれは意図的で政治的な問題だったからね。

――田中さんも、ふとあれは政治的だと言ったりするのですか。

小沢 いや、そんなことはわかりきっていることだから言わないけどね。非常に機微にわたる話は今でもなかなか言えないけどね。田中の親父の名誉にかかわることもあれば、相手方のこともあるからね。相手方はだんだんと亡くなっている人もいるから話してもいいことではあるけど、まあぼくがこの(政治の)世界でも辞めれば喋るかもしれない。

――そうですね。そこで、政治的だったという話ですが、ロッキード事件の場合、国内的にはやはり当時の三木武夫首相が非常に積極的で、田中さんを追及するために、まさに刑事免責の嘱託尋問、司法取引までやったということが指摘できますね。

小沢 その点は、まさに仲間うちで刺したとも言えるわけですね。田中の親父は三木武夫首相にやられたとも言える。うちの中の敵というのは一番危ないんです。それで、客観的事実を言えば、三木さんが田中の親父に敵対するようになった原因は、後藤田さんなんだよ。

――後藤田さん?

後藤田さんです。

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筆者

佐藤章

佐藤章(さとう・あきら) ジャーナリスト、元朝日新聞記者、五月書房新社編集委員会委員長

ジャーナリスト学校主任研究員を最後に朝日新聞社を退職。朝日新聞社では、東京・大阪経済部、AERA編集部、週刊朝日編集部など。退職後、慶應義塾大学非常勤講師(ジャーナリズム専攻)、五月書房新社取締役・編集委員会委員長。著書に『ドキュメント金融破綻』(岩波書店)、『関西国際空港』(中公新書)、『ドストエフスキーの黙示録』(朝日新聞社)など多数。共著に『新聞と戦争』(朝日新聞社)、『圧倒的! リベラリズム宣言』(五月書房新社)など。

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