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なぜ私は、国民民主党を離党したのか

小沢一郎、細野豪志を支え、決別した階猛。政治塾「新時代いわて」を旗揚げした思い

階猛 衆議院議員

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衆院予算委で質問する階猛氏=2019年2月5日

「希望の党」失敗の教訓がいかされていない

 国民民主党に自由党が合流した。私はこの合流に反対してきたが、党の決定と大きく食い違うことになり、離党を決意するに至った。

 私が合流に反対したのは、「希望の党」失敗の教訓がいかされていないという点にあった。理念を共有しないままの付け焼き刃的な離合集散は、もはや国民に受け入れられない。選挙前の打算による合併に、国民は積極的な意味を見出していない。むしろ完全にしらけている。いや、嫌悪感さえ抱いている。

 この同じ過ちを、短期間に繰り返してどうするのか? 

 結局のところ、国民民主党のスタンスが見えづらくなるだけで、国民の期待はより一層、離れてしまうのではないか? 

 そんな思いをどうしても払拭することができなかった。

 自由党は基本的に、国民民主党の政策を丸のみするという。すべて国民民主党の政策に合わせると言う。だとすれば、自由党に脱原発などの政策実行を期待し、支持をしていた人たちの民意はどうなるのか? そのような人たちは、逆に選択肢を失うことになるのではないか?

 私は、このような理念なき離合集散の繰り返しが、政治不信を引き起こしてきたのだと思う。そして、「希望の党」から「国民民主党」へのプロセスに支持が集まらず、野党への不信感を大きくした最大の要因ではないかと思う。

 もう同じことを繰り返してはならない。同じ失敗の反省がなければ、あきれ果てた国民は、自分たちに見向きもしてくれなくなる。

 そんな強い懸念を持ち、離党する決意を固めた。

 離党を決意するまでの間、玉木代表とは何度も話し合った。「自由党との合流に大義が見えない」という私に対し、玉木氏は「大きな固まりを作る第一歩だ」と繰り返した。

 しかし、「大きな固まり」からはむしろ遠ざかっているように思える。立憲民主党の枝野幸男代表は、安易な離合集散から距離をとっているからだ。国民が何にうんざりしているのか、よく理解しているように思う。そのような状況で、理念なき合流を行うと、立憲民主党との連帯の障害になってしまう。ますます国民民主党と立憲民主党との間に壁ができ、野党の連帯が難しくなる。

 そんな危惧を払拭することが、どうしてもできなかった。

国民民主党と自由党の合同会合で立ち上がり、自由の小沢一郎代表(右から2人目)らの目の前で統一会派結成を批判する階猛氏(左)=2019年1月28日、国会内

小沢一郎の政治スタイルへの疑問

 国民民主党と自由党の合流の背景には、「数こそ力」という小沢一郎氏の政治スタイルがあるのだろう。

 小沢氏は選挙に向けてわかりやすい構図を作り、単純化を進めることで、新たな政局を生み出してきた。そのまとまりが賞味期限を迎えたら、今度は政党の解体に動き、そしてまた新党を作る。目新しさに飛びつく心理を利用したポピュリズムを駆使し、瞬間的な熱狂を生み出す。

 私には、このような政治こそが政治不信を生んできたのではないかという思いがある。

 政治とは、異なる価値観を持った人たちの利害調整を行い、丁寧な合意形成を行うものである。極端なことを言うだけであれば、政治家でなくても誰でもできる。政治は国民の幸福のために、適切な政策を実現する存在である。

 政治家は特権を与えられた存在だ。立法府において法律を作り、与党になると行政のかじ取りを担う。そんな環境のなかで研鑽を積み重ね、責任を果たしていくことこそが、政治家の役割である。

 その仕事を全うするためには、自らの理念と信念が重要になる。情熱をもって相手を説得し、時に相手の言うことに「なるほど」と思う点があれば、その意見を取り入れながら調和点を見いだしていく。これが政治のダイナミズムに他ならない。

 理念なき政党の離合集散は、真の政治のダイナミズムではない。そんな政局に、もう国民はうんざりしている。

 「政治家は次の世代を考えるが、政治屋は次の選挙のことをばかり考える」という格言があるが、私は断固として「次世代を考える政治家」でありたい。政局よりも政策に力を注ぐ政治家でありたい。選挙に勝つためには手段を選ばないという手法に、もう国民は辟易としている。

小沢一郎と私

 私は2007年に初当選し、以降、5期12年、衆議院議員を務めてきた。

 2007年の選挙は、当時民主党の衆議院議員だった達増拓也氏が岩手県知事選挙に立候補したことによる補欠選挙だった。達増氏は小沢氏の側近で、新進党時代から「小沢チルドレン」と呼ばれていた。

 このとき私を政治の道へと導いてくれたのが小沢氏だった。小沢氏の後押しがあり、私は補欠選挙に出馬し、当選することができた。いまでも小沢氏、そして達増氏には感謝の念をもっている。

 私は小沢氏を政治の師として仰ぎ、政治行動を共にした。西松建設疑惑で公設秘書が逮捕され、民主党代表を辞任したときも、小沢氏を信じ、付いていった。

 2009年の衆議院選挙で民主党が勝利をおさめ、政権を担うと、小沢氏は幹事長として鳩山内閣で大きな力を握った。しかし、2010年1月、小沢氏の秘書を務めた石川知裕衆議院議員など側近の関係者が逮捕された。私は現職の総務大臣政務官だったが、「石川知裕代議士の逮捕を考える会」に参加し、「議員の不逮捕特権」を盾に戦った。

 小沢氏は、鳩山内閣の瓦解によって幹事長を辞任した。次の菅内閣では、党内で小沢氏に対する不信感が強くなり、いよいよ剛腕を発揮できる場面がなくなっていった。それでも私は小沢氏を支えようと、仲間達とがんばった。

民主党離党について記者会見に臨む小沢一郎氏=2012年7月2日、東京・永田町

決別の時

 しかし、小沢氏との間に心の距離ができる出来事が生じる。それは東日本大震災の際の行動についてだった。

 小沢氏と私は岩手を選挙区としている。ふるさと岩手が大打撃を受けたことで、私はその対応と復旧・復興に追われる日々を過ごすことになった。

 過酷な状況に直面したのは、同じ民主党選出の黄川田徹衆議院議員だった。黄川田氏の自宅は陸前高田市にあり、自宅・事務所が全壊して津波で流された。さらに、妻とその両親、長男、公設第2秘書が亡くなった。そんな状況にもかかわらず、黄川田氏は懸命に被災地のために奔走し、寝食を惜しんで活動した。

 しかし、小沢氏の動きは鈍かった。みんなが被災地に来てほしいと要望しても、動かなった。しびれを切らした黄川田氏が、小沢氏が被災地を訪問しないことについてメディアの取材に応じ、コメントを行うと、小沢氏は岩手県連で黄川田氏を処分しようとした。

 私はこれに異議を唱えた。あまりにも理不尽で、ひどいと思ったからだ。黄川田氏の心境を考えると、いたたまれなかった。小沢氏の被災地への冷淡な態度を、どうしても理解することができなかった。

 ここで距離ができた。小沢氏に対する心の絆が、途切れてしまった。

 次は、消費税増税をめぐる小沢グループの離党プロセスで、諍いになった。私は消費税増税には反対だったが、離党することにも反対だった。政権交代可能な政治体制を確立することを目指して私は民主党に入った。小沢氏をはじめ先輩方の大変な努力で政権交代を実現したのに、離党すれば民主党政権の危機を拡大させる。政権交代可能な政治体制は壊れ、国民の期待を裏切るだけだと思った。

 「離党だけはやめてほしい」と強く迫った。しかし、「文句は言うな」「だまってついてこい」という態度で、あとは厳しい言葉を浴びせられた。

 もう駄目だと思った。歩む道が違ってしまったと思った。

 「民主主義は数」「数は力」と言い続けてきた小沢氏が、その言葉とは全く逆の行動に出ることのおかしさ。自分の言い分が通らなくなると、せっかくまとまってきた党の仲間を裏切り、党を瓦解の方向に導こうとするご都合主義に、もうついていけないと思った。

 ここで私は小沢氏と決別することになった。

 結局、小沢グループの離脱という内部分裂が露わになったとき、民主党政権の崩壊は決定的になった。

刺客を送られる

 小沢氏は「国民の生活が第一」を結党し、解散総選挙が近づくと、嘉田由紀子滋賀県知事を代表に担いだ「日本未来の党」に合流した。そして、2012年の総選挙では私の選挙区に達増知事の妻を「日本未来の党」公認候補として送ってきた。明らかな刺客である。

 私だけではない。黄川田氏も刺客を送られた。さらに言えば、今回の参院選岩手選挙区の野党統一候補を決める協議の場で、国民民主党岩手県連は経験と実績に秀でる黄川田氏を推挙した。推挙の前に、私は小沢氏から了解を得ていた。にもかかわらず、小沢氏率いる自由党など他の野党は黄川田氏を一顧だにせず、他の候補で押し切った。この事実からも、小沢氏が黄川田氏をいかに目の敵にしてきたかが分かる。

 従わない人間に容赦はしない。政治の世界から消すために全力を挙げる。そんなかつての「師」の姿をみて、悲しかった。

 幸い選挙区での支持を得てこの選挙でも当選を果たしたものの、小沢氏の厳しい仕打ちと政権陥落後の民主党の低迷を見て、民主党岩手県連から離党する議員が続出し、支援者も減っていった。

 そんな中で、黄川田氏をはじめ岩手県連に残った仲間たちと歯を食いしばって頑張ってきた。民主党から民進党、希望の党、国民民主党と政党名が変わり、全国的には党への逆風は続いた。しかし、この間に岩手県連は所属議員や党員・サポーターを増やしてきた。

 小沢氏の師匠である田中角栄元総理は「政治は数、数は力、力はカネ」と言った。田中氏や小沢氏と違い、私には資金力がない。私に限らず、多くの野党議員にとって、「カネ」で「力」を持ち「数」を揃えることは至難の業だ。

 資金力がない政治家にとって「数」を集める原動力は「言葉」だと思う。私のような政治家は、政策を磨くと共に、理念を訴える言葉を磨く必要がある。それによって仲間を増やし、集団を牽引できるようにならなければならない。徐々にではあるが、そのようなやり方に手応えを感じつつある。

 これからも金権政治とは一線を画し、苦楽を共にしてきた岩手県連の仲間とは、今般設立した政治塾「新時代いわて」で政策と言葉を磨いていく。そして互いに切磋琢磨する中で、人徳を高め、人脈を広げ、人心をつかむ力を養っていきたい。

細野豪志氏(右)と街頭に立つ階猛氏=2012年12月7日、盛岡市

細野豪志との共闘、そして決別

 私は、これまでの12年間、リーダーを支える側にいた。

 小沢氏から離れた後、私は、次に細野豪志衆議院議員を支えた。2014年4月には細野氏を中核とした派閥として「自誓会」を立ち上げ、2015年1月の民主党代表選挙では細野氏を代表候補として後押しした。「首相になる」という強い意欲を持った細野豪志という政治家を支えることで、理念や政策を実現したいと思った。

 しかし、2017年の春、細野氏が突然、

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