平成政治の興亡 私が見た権力者たち(18)
2019年06月08日
2011(平成23)年8月30日に発足した野田佳彦内閣は、民主党内の融和と野党の自民、公明両党との対話に動いた。野田首相自身も「私は鰻でも金魚でもない。ドジョウのようなもの。泥臭くとも粘り強く、国民のために汗をかく」と語り、庶民政治家をアピールした。
鳩山由紀夫、菅直人両政権下でぎくしゃくした霞が関の官僚組織との関係改善も進めた。野田首相は財務相、財務副大臣を経験したこともあり、財務省の信頼が厚かった。当時の事務次官は勝栄二郎氏。茫洋とした雰囲気だが、芯は強く、省内の人望も厚かった。勝次官は、財政再建を重視する野田首相の下でなら消費税率の引き上げができると思い定めていた。
民主党内では、党員資格が停止中の小沢一郎氏の影響力は依然として大きく、野田首相の足元を揺さぶっていた。その小沢氏にとって誤算となる判決が9月26日、東京地裁で出された。石川知裕衆院議員ら小沢事務所の元秘書3人が、政治資金規正法違反(虚偽記載)を問われていた裁判で、3人とも有罪となったのだ。判決は、東北地方の公共事業に小沢事務所が深く関与し、裏献金を受け取っていたことも指摘。小沢氏には痛手となった。
野田首相は、政策を進めることで政権の求心力を維持しようとした。
まず、自由貿易圏をめざすTPP(環太平洋経済連携協定)への参加だ。11月中旬にハワイで開かれるAPEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会議での参加表明に向けて、政府・民主党内の調整を進めた。民主党内では、小沢グループが「TPP参加で関税を引き下げれば、農業への影響は深刻だ」と反発した。それでも、野田首相は11月11日深夜、記者会見し、「TPP交渉参加に向けて関係国との協議に入る」と表明。中途半端な表現ではあったが、TPP参加に向けて前進した。野田首相は翌12日、ハワイに向けて羽田空港を飛び立った。
年が明けて12年1月13日、野田首相は内閣改造に踏み切り、「兄貴分」と頼る岡田克也氏を副総理・一体改革・行革担当に迎え入れた。民主党は3月14日から消費税と社会保障関連の合同会議を断続的に開催。前原誠司政調会長が仕切る形で実質8日間、計46時間のマラソン論議が続いた。そして3月30日、消費増税を中心とした一体改革の関連法案が閣議決定された。
民主党内では小沢グループが「増税は2009年総選挙時のマニフェスト(政権公約)に書いていないから公約違反だ」として反対。党内の意見が割れたまま、国会審議が始まった。そうしたなか、東京地裁は4月26日、政治資金規正法違反(虚偽記載)に問われていた小沢氏に対して無罪の判決を下した。民主党の輿石東幹事長は小沢氏の党員資格停止を解除。検察官役の弁護士は控訴したが、小沢氏の影響力は回復し始めた。
これに対し、野田首相は自民党の谷垣禎一総裁と接触。実は野田、谷垣両氏にはパイプがあった。野田氏が1993年衆院選に日本新党から立候補、初当選した直後、自民党の中堅議員だった谷垣氏が会食に誘っていた。野田氏にとって、谷垣氏は一緒に酒を飲んだ初めての自民党政治家だった。二人は財政再建だけでなく、「ポピュリズム(大衆迎合)の政治は良くない」といった話題で意気投合した。
それから20年近くが経ったが、信頼関係は続いていた。野田氏が谷垣氏の好きな赤ワインを贈り、谷垣氏は地元・京都の地酒を贈った。公明党の山口那津男代表も交えた会合を重ね、消費増税と社会保障充実の改革で一致。6月8日、民主、自民、公明の3党による正式な話し合いが始まり、同15日に最終的な合意が成立した。
財務相を経験した谷垣総裁には、財政再建のための消費増税が避けられないという持論があった。くわえて、この関連法案を成立させて衆院の解散・総選挙に持ち込めば、自民党の政権復帰への道が開けるという読みもあった。
反対した小沢氏は離党し、新党「国民の生活が第一」を結成。衆院議員37人、参院議員12人が参加し、小沢氏が党首に就いた。
i一方、自民党内では、谷垣総裁が野田首相から衆院の解散・総選挙を引き出せないまま増税が確定することに不満が募っていた。民主党などの与党が少数の参院で、自民、公明両党が反対すれば増税関連法案は否決される。政局が再び緊迫するなかで8月8日、野田首相と谷垣自民党総裁、山口公明党代表の3党首会談が開かれた。
会談の結果、①消費増税を中心とする税と社会保障の一体改革関連法案の早期成立を期す②成立した暁には近いうちに衆院解散・総選挙で民意を問う――などで合意。法案は10日の参院本会議で可決、成立した。野田首相は、直後の記者会見で「09年の総選挙で民主党は勝利させていただいたが、消費増税はマニフェストには明記していなかった。深くおわびしたい。増収分はすべて社会保障で還元されることを約束する」と語った。
この3党合意は、二つの点で画期的だった。
第一に政策的な意味。少子高齢化によって社会保障費が増加し、財政赤字は拡大し続けている。将来世代にツケを回すのは限界だ。消費税を社会保障に充てることで、年金、医療、介護のシステムを安定させることができる。
第二に、政局的な意味。小選挙区制は二大政党制をもたらすが、政権交代をめぐって与野党の激しい対立は避けられない。ただ、そうしたなかでも、与野党に共通する政策課題では合意点を見いだしていくことが必要だ。消費増税による財政再建で民主、自民、公明の3党が歩み寄ったことは「小選挙区制のもとでも、政治指導者の決断次第では、重要な政策で与野党が合意を形成できる」ことが証明されたわけだ。
野田首相の持論は「ネクスト・エレクション(次の選挙)よりネクスト・ジェネレーション(次の世代)」である。3党合意は、まさに次世代のために政治が決断した成果といえる。
しかし、現実の政治は野田氏や谷垣氏の思い通りには進まなかった。
谷垣総裁は自民党内の批判にさらされた。衆院解散・総選挙について「近いうちに」という曖昧(あいまい)な回答しか引き出せなかったことに、保守派が反発したのだ。9月の総裁選を控えて、保守派にはハト派の谷垣氏の続投を阻止したい思惑があった。そうした動きを抑える狙いもあって谷垣氏は8月28日、公明党の山口代表と会談、与党が少数の参院に野田首相の問責決議案を提出した。決議案は29日に自民、公明両党などの賛成多数で可決された。法的拘束力はないが、野田政権にとっては痛手となった。
ただ、これは谷垣総裁にとって最悪の一手でもあった。8月8日に消費増税で野田首相と合意したのに、28日には問責決議案を提出するという迷走ぶりを露呈したかたちになったからだ。自民党内では谷垣総裁の続投が有力視されていた総裁選(9月14日告示、26日投票)の行方が、この迷走を受けて混沌としてきた。
谷垣総裁の求心力は急速に低下。「総裁を支える」と明言していた石原伸晃幹事長も出馬を表明し、谷垣氏から離れた。谷垣氏は立候補に必要な推薦人20人の確保も難しい情勢となり、出馬断念に追い込まれた。立候補を表明したのは、石原氏のほか安倍晋三、石破茂、林芳正、町村信孝の各氏だ。
総裁選では、額賀派や石原派が推す石原氏が国会議員票で優位に立ち、地方党員票は石破氏がリードしているとみられた。9月26日の投票では、議員票で石原氏58票▽安倍氏54票▽石破氏34票▽町村氏27票▽林氏24票。地方票は石破氏165票▽安倍氏87票▽石原氏38票▽町村氏7票▽林氏3票だった。1回目の投票で過半数を得た候補がいなかったため、石破、安倍両氏による決選投票に。国会議員のみの投票は、安倍氏が108票、石破氏が89票となり、安倍氏が総裁に返り咲いた。安倍総裁は幹事長に石破氏を起用し、党内融和を進める一方で、野田首相に早期解散・総選挙を迫る姿勢を鮮明にした。
同じ頃、民主党でも代表選が行われた。9月10日に告示され、野田首相(代表)のほか、原口一博、赤松広隆、鹿野道彦の各氏が立候補した。21日の投票には国会議員、党員・サポーターなどが参加、野田氏が816ポイントを獲得。原口氏(154ポイント)、赤松氏(123ポイント)、鹿野氏(113ポイント)を大きく引き離して再選された。
民主党が政権を担って3年が過ぎたが、稚拙な政権運営に世論の不満が募っていた。野田内閣のもと、内政では、円高による産業の空洞化も止まらず、景気の低迷が続く。また、外交でも手詰まりに陥っていた。
私はその情報をいち早く入手。朝日新聞政治部の同僚と取材を重ねた結果、朝日新聞は7月7日付の朝刊で「尖閣国有化」を報じた。野田首相がすぐに認め、中国の反発はいっそう強まった。
9月9日、ロシアのウラジオストクで開かれていたAPECで野田首相と胡錦濤・中国国家主席が会談したが、胡主席は「すべて不法で無効だ」と抗議した。それでも、野田首相は9月11日の閣議で国有化を決定。中国では大規模な反日デモが続き、政府間交流も停止された。
外交の混乱にくわえ、自民党の攻勢もあって、野田内閣の支持率は低迷した。10月1日には内閣改造に踏み切り、文部科学相に田中真紀子氏を起用したが、支持率が大きく回復することはなかった。さらに野田首相にとって気がかりだったのは、橋下徹・大阪市長が率いる日本維新の会が、総選挙に向けて準備を進めていることだった。野田氏には、早期解散であれば、日本維新の会の動きを押さえ込めるという思いが芽生えていた。
安倍氏はまず、野田首相が谷垣前自民党総裁とかわした「近いうち解散」を直ちに断行するよう求めた。これを受けて野田氏は、衆院の定数削減が必要だとしたうえで、「(自民党も)それを決断してもらえるなら解散する」と語り、「16日に解散してもいいと思っている」と言い放った。
首相にとって解散は、いわば「伝家の宝刀」だ。権謀術数を尽くして、自らに有利なタイミングで行使する。それゆえ、歴代の首相は解散権を政局の主導権を握るための手段ととらえていた。
だが、野田首相は違った。なによりも消費増税による財政再建が日本の将来にとって欠かせないという信念を持っていた。さらに、民主党について、「本物のステーツマン(政治家)150人ぐらいの集団が理想だ」と語り、仮に民主党が政権を失っても、理念・政策を共有する政治家が結集していれば、再び政権に復帰できるという展望を抱いていた。
しかし、現実は厳しかった。16日の衆院解散を受けて、総選挙は12月4日公示、16日投開票で争われることになった。民主党への逆風はすさまじかった。官僚とのあつれきによる政権の混乱、党の分裂騒動、そして消費増税。民主党政治への世論の不満はいよいよ強まっていた。そして、民主党批判の底流には、長く続いたデフレ、円高という経済政策への不信があった。
そこで、安倍氏は民主党の経済政策批判に重点を置く。解散直後の記者会見では、「デフレ脱却に挑む。金融政策では日銀法改正も視野に入れ、大胆な金融緩和を行う」と述べた。総選挙で次期首相になる公算が大きい安倍氏の金融緩和発言に、市場は敏感に反応し、円安・株高となった。
野田首相は開票日の深夜に退陣を表明。安倍氏の首相復帰が確定した。
特別国会は12月26日に召集され、安倍氏を首相に指名。第2次安倍内閣が発足した。副総理・財務相には麻生太郎氏、官房長官に菅義偉氏、法相に谷垣禎一氏、外相に岸田文雄氏が起用され、挙党一致での船出となった。
民主党は政権交代から3年3カ月で野党に転落。自民党に対抗する勢力として登場した民主党だが、稚拙な政権運営は支持者の期待を裏切ることになった。それは民主党の挫折にとどまらず、衆院への小選挙区制の導入で動き出した平成の「政権交代政治」を、後戻りさせることとなった。
次回は、第2次安倍政権が参院、衆院の国政選挙を乗り切り、安全保障法制を成立させた経緯を描きます。6月22日公開予定。
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