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天安門事件から30年。「歴史の闇」に葬らせるな

世界中が注視した大事件。国際社会の信頼を得るためにも中国は今こそ真相を明らかに

田中秀征 元経企庁長官 福山大学客員教授

天安門事件から30年を迎えた4日夜、香港のビクトリア公園で開かれた追悼集会はろうそくを手にした市民で埋まった=2019年6月4日、香港島

重苦しい気持ちになる6月4日

 世界中が息をのんで見守った天安門事件から30年が過ぎた。何十万人もの学生が権力者に立ち向かった姿、それに対して容赦なく銃弾を浴びせた人民解放軍。その映像は、今も鮮やかに脳裏に浮かぶ。

 以来、6月4日という日が来るたびに重苦しい気持ちになる。いつか中国共産党が、中国人民解放軍が、あるいは中国政府が、あの歴史的事件の真相を明らかにし、心からの反省を示して再出発をしてほしいと願っている。

日本にも世界にも特別な1989年

 1989年の6月4日。この日は中国の近現代史の中でも、特筆すべき不幸な日となった。ごく常識的な主張を掲げて天安門広場に集まっていた幾万もの学生たちに、政府は問答無用とばかりに実弾を浴びせて追い払ったのである。

 この年は、日本の平成元年にあたる。日本にとっては特別な年だったが、同時に世界にとっても記念すべき年となった。

 すなわち、暮れの12月2日に、ブッシュ(父)米大統領とゴルバチョフソ連共産党書記長の首脳会談が地中海のマルタ島で開かれ、両首脳によって「冷戦の終結」と「新時代の到来」が宣言された。

 ちょうどその頃、ペレストロイカ(改革)を高く掲げて展開するゴルバチョフの言動が世界的な注目を浴び、硬直した世界秩序が大きく代わる気配を感じさせていた。天安門の件は、そんな世界の流れに冷や水を浴びせるような大きな事件となった。---- 改ページ タイトル[“大学生”として見ていた天安門事件] -------}

世界に“実況中継”された天安門事件

4月15日に急死した胡耀邦氏をめぐり、連日、学生らの追悼行動で騒然とする天安門広場=1989年4月
 この歴史的事件は、同年4月15日に胡耀邦前総書記が死去した日に始まる。彼は。中国の民主化に理解があり過ぎると共産党保守派から猛攻撃を受けて1月に失脚していた。最高実力者の鄧小平は後任代行として趙紫陽を任命していた。

 胡耀邦を慕う学生たちが追悼のために続々と天安門広場に集まりだし、22日には20万人の学生が広場を占拠して追悼大会を開いた。

 当時、私は昭和61年の総選挙に落選し、捲土重来を期しつつ、かつて中退した北海道大学に再入学して札幌にいることが多かった。世界各国に向かってさながら実況中継のようになっていた天安門事件は、札幌での生活を重なって、昨日のことのように強く記憶されている。

 ゴルバチョフのソ連だけでなく、不毛な文化大革命を乗り越えた中国もまた、新しく若い力によって大きく変わるだろう。これをきっかけに民主主義が根付き、法治国家として新しい段階に入ればよいと強く願っていた。

胡耀邦を評価していた宮沢首相

 しかし、追悼大会の勢いに驚いた政府は、その4日後の人民日報で、学生の動きを「計画的な陰謀、動乱である」と断定したのである。態度を硬化させた学生たちは5月に入ると広場でハンストを始める事態となった。人民日報はさらに「動乱は共産党の指導と社会主義制度を否定するもの」と追い打ち追い打ちをかけた。

 ところが、当時の学生たちの要望はそんなに激烈なものではなかった。総書記を解任されて死去した胡耀邦の名誉回復。そして、人民日報が使う“動乱”という言葉の撤回であった。

 胡耀邦と会談した宮沢喜一元首相は私に「彼は人格も思想もとても優れている」と評価していた。胡耀邦、趙紫陽ら開明的な指導者に任せたら、その後の中国はまったく違った道を辿(たど)っただろう。

歴史的な間違いを繰り返した中国共産党

1989年5月に劉建氏が撮った天安門広場の一コマ。標語を書いたTシャツを着た清華大の学生が座り込んでいる=劉建氏提供
 騒乱が拡大し、世界の耳目を集めるに至って、鄧小平は北京中心部に戒厳令を発令する。だが胡耀邦の後任となった趙紫陽も学生に同情的で、早期に広場の学生たちの中に入り、その声を聞こうとする姿も映し出された。趙紫陽の必死にもがく姿は目に焼き付いている。

 6月に入ると、軍の戒厳部隊が学生の占拠する天安門広場に向けて、容赦なく展開するに至る。自国軍が自国民を襲撃する。あってはならないことが、あるはずがないことが、世界の目が注がれる中で続けられたのである。

 文化大革命という悪魔的な所業の後で、またも歴史的な間違いを繰り返した中国共産党に、国際社会の目は30年経っても厳しい。

 学生たちを広場から武力で排除した後、6月中に、趙紫陽も解任され、鄧小平は江沢民を総書記とする人事を断行した。それまで周恩来と共に鄧小平にも敬意を抱いていた私の気持ちはこれで大きく変わった。こうして、日中関係を最も進化させるべき時代に、日本に最も冷たい総書記が登場したのである。

「歴史の闇」に葬りたい?中国

 さて、中国では今もこの天安門事件はタブーとなっているという。若い人の間では、こうした事件があったことさえ知らない人が大半であるという。「歴史の闇」に葬ろうということだろうか。

 しかし、中国共産党の意図がどうであれ、それはありえない。なぜなら、この事件は、それこそ30年前、私を含め世界の何億もの人々が、「ライブ中継」で見ていたからである。

 特に香港の人たちは、決して忘れないだろう。台湾の人も同じであろう。また、日本でもアメリカでも、多くの人が強烈な印象で記憶している。これからは、中国を出て世界に散らばる何十万という中国人留学生、各国にで出掛けている何百万という観光客も、生活したり訪問したりしている国で、30年前の大事件について、つぶさに知ることができる。

 天安門事件は、歴史から消えることはない。だから、隠し通すことはできないのである。むしろ、ようやく解明の出発点に立ったと言えるのではないか。

1989年6月4日、北京の天安門広場近くの長安街で1人の市民が捕まり、大勢の兵士の前でひざまずかされている。奥に見えるのは中国国旗

中国が尊敬される国になるためには

 30年経ってわれわれが反省することは、中国も経済が発展すれば民主化するだろうと甘く見ていたことだ。 

 30年という節目に、さまざまな数字が流布する犠牲者の数などを含め、天安門事件の真相を明らかにすることが、中国が国際社会の信頼を得る唯一の道だ。そうでなければ、いくら経済力、軍事力で突出していも、真の大国、強国になることはできない。

 中国が尊敬される国になる鍵は、天安門事件に対する対応いかんにかかっているのではないか。そうでなければ、中国に対する国際社会の警戒の目はなくならない。