元参院議員・円より子が見た面白すぎる政治の世界⑬政権交代へ高木剛連合会長とタッグ
2019年06月09日
連載・女性政治家が見た! 聞いた! おもしろすぎる日本の政治
2000年、小沢一郎さんが新進党を割ってつくった自由党が分裂した。
自民党、公明党といわゆる「自自公」連立を組んでいた自由党は、連立からの離脱を決定。その心労もあったのだろうか、小渕恵三総理が脳梗塞で倒れて、森喜朗内閣ができるのだが、その際、連立与党に残る選択をした小池百合子さんは小沢さんと決別し、二階俊博さん、扇千景さんらと保守党をつくった。
その後、彼女は保守党の解党とともに、自民党に入り、2003年には小泉純一郎内閣で環境大臣となる。温暖化対策の一環で「クールビズ」の旗をふって、大活躍したことはご記憶の方も少なくないだろう。
小沢さんの最側近といわれていた小池さんが、なぜ彼と袂を分かったのだろう。政権から離れてまで小沢さんについていく気はなかったということか。彼女にとって、権力がないところは用がないのだろう。
2009年衆院選の東京10区(豊島区)の候補者を決める時、民主党代表だった小沢さんが東京都連会長だった私にこう言ったことがある。
「小池は煮ても焼いてもくえない女だ。そんなところへ江端貴子さんのような純情な女性をあてて大丈夫かな」
小池さんは東京10区の自民党候補。煮ても焼いても食えない女という印象は、私にはない。そんなセリフを吐いた小沢さんには、煮え湯を飲まされるような体験があったのだろうか……。
先述の09年衆院選。政権交代につながるこの選挙の候補者選びで、私は連日のように小沢さんと打ち合わせをしていた。代表代行で、東京の民主党の実質“ドン”である菅直人さんは、私が小沢さんに「丸め込まれる」と心配し、都連の小川敏夫幹事長と加藤公一選対委員長にもついていくように行った。しかし二人は、小沢さんの前に出ると直立不動で何の意見も言えない。「円会長に来てもらえれば十分だ」と笑われる始末だった。小沢さんは男に強いのだ。
私を政治の世界に誘い、今も私の政治の師である細川護煕さんは54歳で総理となった。そのときの経緯(いきさつ)、1993年に非自民連立の細川政権ができたときのことは、この連載でも何度か触れた。細川総理の誕生は、小沢さんが野党をまとめて、第1党の自民党に対抗する布陣をつくりあげたうえで、細川さんを口説き落としたからというのは、紛れもない事実である。
細川さんに目を付けた小沢さんの炯眼(けいがん)は凄いと、いまもつくづく思う。細川さん自身に総理を引き受ける資質があったのは、もちろんだが。
あのとき連立した8党を見ると、社会党、民社党、公明党、社会民主連合、民主改革連合は既成政党で、新生党、新党さきがけは自民党を離党した議員たちでつくられた政党。日本新党だけが、その前年の1992年に、「自民党政治」とは違う新しい「国民のための政治」を目指して、細川さんがたった一人で旗を掲げて立ち上げた完全なる新党であった。
細川さんが日本新党を発足した当時、1955年以来続いていた自民党の長期政権のシステムが倒れるとは、誰も考えていなかった。そこで自民党政治を否定する政党を旗揚げすることは、まさしく命がけであった。それを小沢さんは痛いほど理解していたに違いない。だからこそ、8党連立の代表は細川さんしかいないと考えたのだ。
細川さんと赤坂プリンスホテルで密かに会い、8党連立政権の代表、つまり総理になってほしいと小沢さんが持ちかけたとき、細川さんはためらいもなく了解した。その会合から戻った小沢さんは周囲に、「大したものだよ、細川さんは。一瞬の逡巡もなく引き受けたよ」と感想をもらしたという。ただ、細川さんもまた、小沢さんに会って日本新党に戻ったときの表情は、いったい何があったのかといぶかしく思うほど尋常ではなかった。
それから10数年、今度は民主党政権を、小沢さんは渾身の力を振り絞ってつくりあげた。
小池さんらと袂を分かち、連立政権から離脱した後も自由党の党首をつとめた小沢さんだったが、2003年4月末、民主党と合併。前原さんがメール事件で代表を辞任したあとの2006年4月の代表選で、菅さんに勝って代表になった。代表選での小沢さんは19世紀のイタリア貴族の没落を描いた映画「山猫」のセリフを引いて、「変わらずに生き残るためには、変わらなければならない。そしてまず私自身が変わらなければなりません」と演説し、民主党議員たちの心を揺さぶった。
実はこの代表選で、私はどちらに投票するか、決めかねていた。細川さんは菅さんがいいと言い、私のブレーンたちは小沢さんでいけと言っていた。私はどちらの陣営にも顔を出さず中立でいた。もちろん両陣営から激しい誘いがあった。
当時、菅さんの陣営には勢いがなかった。江田五月さんが私の議員室に来て、「推薦人の数も集まらなくて困っている」と嘆いた。私は、菅さんも党にとって大事な人であり、負けるにしても大負けにならないようにしてあげたいと思った。小沢さんが勝つのは確実に見えたからだ。
党首選の前日、昼に人と会う約束があったが、少し時間があったので憲政記念館で開いているという菅さんのグループの会合に顔を出した。テレビクルーが待っていて車から降りた途端、カメラを回された。「菅さんを支持すると思っていいですか」と聞かれた私は答えた。「小沢さんも菅さんも党にとっては大事な方です。どちらが党首になられてもいい。そういう時、私は負けそうな側を応援したくなるんです」
「今日の党首選で小沢さんが負けると殺されるぞ」
笑いながらではあったけれど……。
はたして午後の党首選は、菅さんの72票に対し、小沢さんが119票で新しい党首に。私は殺されずにすんだ。
第6代民主党代表になった小沢さんは3年後の2009年5月、政治資金問題で党代表は退くが、代表代行として2009年8月末の衆院選で党を圧勝させ、政権交代を実現した。
当時、小沢さんに対する労働組合内のアレルギーは大きかった。小沢さんは、事前にどの人が自分を嫌っているかを高木さんから聞き、必ずその人の席に行って坐りこんで酒を酌み交わした。すると、ほとんどは「嫌い」から「好き」に変わったという。メディアが流す小沢像と本人とのギャップもあるし、小沢さんも人の心理を読むのが上手いのだろう。
こうして選挙で大きな力を発揮する連合に、政権交代をなんとしても実現するという機運が高まっていった。もちろん当時、政権交代を望む世論が強まっていたのは間違いない。だからこそ、小沢さんと高木さんの熱情に連合も反応したのだろう。とはいえ、二人の努力があったからこそ、世論がさらに醸成されていったのも確かだと私は思う。
私は2度目の挑戦となった2006年の都連会長選で勝ち、会長になっていた。会長には東京に25ある小選挙区の公認選びの権限がある。10区(豊島区)の候補に選んだのが江端貴子さんだ。
もちろん、公認選びはすんなりとはいかない。江端さんをめぐっても、石井一さんが小林興起さんを強力に推すなど、人選は難航した。ただ、私も「民主党らしさからいけば江端が勝つ」と譲らず、ついに小沢さんに了解してもらった。小沢さんは石井さんに「円さんは頑固だから」と言い訳をしたらしいと、後で聞いた。
池袋を含む豊島区を選挙区とする10区は、2005年の郵政解散・総選挙の際、郵政民営化に反対した自民党の小林興起さんを落とすため、同じ自民党の小池百合子さんが「刺客」となって落下傘候補として乗り込み、大勝した選挙区だ。そこに私の「妹分」ともいえる江端さんを立てることになったのは、細川さんの思惑でもあった。
小池さんと私はかつては日本新党の同志であった。自民党と民主党に分かれているとはいえ、細川さんが小池さんを大事と思うなら、江端さんは別の選挙区にしようと考えてもいた。そこで江端さんを細川さんに会わせたところ、細川さんから10区でいいというサインが出たのである。
先ほど、江端さんを私の「妹分」と書いたが、それにわけがある。
実は、彼女は私の「女性のための政治スクール」の元生徒だった。民主党の公募に受かっていたが、遠方の地を選挙区として示されたため、それは断って次に備えるため、私が当時校長だった、政治スクールに入校していたのだ。マッキンゼーなどに勤め、東大で特任教授もした有能な人だ。
「東大の教授っていうと、すごい!と人に言われるけど、東大って学生として入るのは難しいけれど、社会人になってから先生になるのって一番やさしいんですよ」と笑わせる気さくで人柄の良い人だ。私はすぐに副校長に抜擢(ばってき)した。
2009年の衆院選。民主党による歴史的政権が秒読み段階に入った投開票日の前日、8月29日(土)の池袋は熱かった。
事務所から歩いてすぐの場所にもかかわらず、車まで人また人でたどりつけない。ようやく車上に乗り、見渡せば8千とも1万ともいわれた人々が集まっていた。これまで全国を選挙応援で歩いたが、これほどの人と熱気にむせるような思いをしたのは初めてだった。上空にはメディアのヘリコプターが何機も飛んでいる。人々は口々に「いよいよ政権交代だ」「鳩山頑張れ、江端頑張れ」と叫ぶ。
同じ時間、池袋東口には小池さんの集会が開かれていた。そちらには、麻生総理が応援に入っており、こちら以上の人が集まっているという情報。報道のヘリコプターは上空を東口から西口へ、西口から東口へと飛び回る。江端さんも鳩山さんも上気していた。午後8時、マイクをおいて車から降りた二人は握手攻めにあい、もみくちゃにされていた。一呼吸おいて手話通訳の加藤邦子さんと下へ降りた私まで握手攻め、取材攻めにあった。国内だけでなく各国のメディアが来ていた。政権交代が目の前に迫っているのをひしひしと感じた。
翌日30日は投開票日。その夜、江端さんの夫やその母上、彼女と私の事務所関係の人々が集まって江端さんの当確を待った。すぐにも出るかと期待していたのに、当確が出たのは夜11時過ぎだった。
さすがは小池さんである。江端優勢、小池落選と予想されていたが、小池さんの最後の追い込みはすごかった。小選挙区では江端さんに負けたが、惜敗率で生き残ったのである。ちなみに、小池さんは3年後の2012年衆院選では江端さんに大勝し、雪辱を果たしている。
この時の選挙では現在、国民民主党党首の玉木雄一郎さんも勝ち上がってきた。惜敗した前回2005年の衆院選でも、私は玉木さんの応援に入っている。香川1区の小川淳也さん共々、私の後輩(高松高校)でもある。今は党が違うが、二人ともこれからの日本を背負っていく人である。(続く)
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