小沢一郎「政権交代が『政治とカネ』を解決する」
(14)ロッキード事件の真相~日本の検察は米国の意向を汲んだのか
佐藤章 ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長

ハワイでのニクソン米大統領との首脳会談を終えて帰国、声明文を読む田中角栄首相(左)。右は大平正芳外相=1972年9月3日、羽田空港
ロッキード事件を巡る新証言
小学校卒業から日本政治の頂点に駆け上がり、急速度で転落していった男、田中角栄。その頂点となった現代史の舞台を自らの目で確かめるべく、私は自らの足でそこに立っていた。
前夜の宿泊地から、椰子の木立やいくつもの白い波頭を車窓に眺めながら車で1時間と少し。ハワイ・オアフ島の最北端にあるそのホテルは太平洋に小さく突き出した岬の上に立ち、開放されたロビーは四囲の海からの風を受け続けていた。
6階に上ると、エレベーターホールは大きな窓に囲まれ、岬の両側に広がる海からの光を浴びている。奥の部屋までまっすぐに伸びた廊下は、反対に自然光を一切遮断し、規則的に配置された明かりがクリーム色の壁を浮かび上がらせていた。
奥にある最上級のプレジデンシャル・ルームまでは、柔らかい絨毯の上を私の足で90歩ほどだった。1972年8月31日、暗い廊下を自分自身と向かい合いながら歩いていた男――田中角栄は、どんなことを考えていたのだろうか。
同日ハワイ時間午後1時過ぎ、首相の田中角栄は、米国大統領、リチャード・ニクソンが待つオアフ島最北端のクイリマ・ホテルに到着した。前夜の宿泊地は、盟友・小佐野賢治がワイキキビーチに所有するサーフライダー・ホテルだった。首相就任後、米国大統領との初めての首脳会談だった。大きな議題は二つ、田中新政権が取り組む日中国交正常化問題と、拡大しつつある日米貿易不均衡問題だった。二つとも田中政権の直面する宿命的な大問題だった。
そして、貿易不均衡問題のうち、一体何が話し合われ、何が合意対象となったのか。この時具体的には、農水産物や民間航空機、ヘリコプター、ウラン濃縮サービスなどの日本への輸入・購入問題が焦点となっていた。
このうち民間航空機は1972、73年度中に約3億2000万ドル相当の輸入が見込まれ、日本航空と全日空2社が、ボーイング社の747かマクダネル・ダグラス社のDC10、あるいはロッキード社のL1011トライスターの3機種のうち、いずれかを購入することになっていた。
このころ、米国内ではベトナム戦争による特需はピークを過ぎ、軍需産業は不況のただ中に落ち込みつつあった。国防総省(ペンタゴン)は財政を縮小させてロッキード社は最大の経営危機を迎えていた。ロッキード社の工場を抱え、雇用危機に襲われたカリフォルニア州を最大の地盤とするニクソンは、同社を救うために2億5000万ドルの銀行の緊急融資に政府保証までつけた。
しかし、ロッキード社を自力更生させる製品は限られていた。その中のひとつは民間航空機トライスター。そしてもうひとつは、軍事用の対潜哨戒機P3Cだった。
事件発覚から40年後の2016年7月、NHK報道局が驚くべき番組を放送した。ロッキード事件に関する新事実がいくつも紹介され、事件の構造が大きく変わってしまうようなインパクトの強い報道番組だった。
従来、外務省や米国側議事録によって、田中とニクソンのハワイ会談ではトライスターやP3Cのことは何も話されなかったとされていたが、ニクソン大統領の副補佐官だったリチャード・アレンはNHKに対して、「ニクソンとキッシンジャーは、日本に対し、P3CだけでなくE2Cも売るべきだ、と会議で言っていました」と証言した。
E2Cは米国グラマン社が開発した早期警戒機だ。日本政府はそれまでこの早期警戒機と対潜哨戒機を国産化する方針を堅持していたが、田中帰国後、国産化方針を取り下げて、P3CとE2Cの輸入を決めた。
さらにロッキード社のエージェントを務めた商社、丸紅の当時の担当課長はNHKに対し、田中角栄への5億円の趣旨はトライスターではなくP3Cだったと証言した。ただ、田中に対して5億円申し込みをした時はとてもその趣旨までは話せなかったのではないか、と推測していた。
これらの証言は、全日空のトライスター導入について田中の受託収賄罪を問うてきた検察、裁判所が断定した事件の構図を大きく変えるものだ。