沖縄戦~父が親友に手渡した手榴弾
沖縄戦の最前線で戦い、生き残った父が、最期に私に伝えたかったこと
島袋夏子 琉球朝日放送記者

親友の遺影を見つめる父=2015年6月、那覇市、第一中学徒隊展示室(琉球朝日放送提供)
鉄血勤皇隊の生き残りとして逝った父
昨年89歳で亡くなった父が生きていたら、何を思っただろうか――。平成最後の夜、私はそんなことを考えていた。
昭和2年生まれの父は、17歳で「鉄血勤皇隊」と呼ばれる少年兵として、沖縄戦の最前線に送り込まれた。
天皇の兵として銃をとり、御国のために戦ったのだ。
そこは、人間が、人間でなくなる地獄だった。父は生涯、その体験から逃れることができなかった。
我がままで、癇癪持ちで、家族を容赦なく傷つける人だった。けれど、そんな父を嫌いにはなれなかった。
父がもう長くないという連絡を受け、当時東京に住んでいた私は、一睡もせずに、始発の電車に飛び乗り、羽田空港から沖縄に向かった。
慌てて那覇市内の病院に駆けつけると、父はベッドに横たわり、痩せ衰えてはいたが、相変わらずの口調で、心配する娘の気持ちなど無視して、誰か知り合いの新聞記者を呼ぶように言った。
最期にどうしても、沖縄戦のむごたらしさ、沖縄が受けてきた「差別」を伝えたいというのだ。
父は人生の最期に、ひとりの父親として、娘に「ありがとう」とか「お前はいい子だった」とか声をかけるのではなく、鉄血勤皇隊の生き残りとしての務めを終えてから、死ぬことを選んだ。