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「日韓の亀裂の転機」を和田春樹さんと考える

日韓基本条約の解釈と中国  60~80年代、昭和の終焉

市川速水 朝日新聞編集委員

 前回の『「日韓の亀裂の源流」を和田春樹さんと考える』では、日本のベトナム反戦運動から韓国との連帯へと広がった「前史」を振り返った。

 今回は、日韓のボタンの掛け違いの源と日韓市民運動の力関係の変化を考える。

中曽根首相の訪韓に際し、植民地支配に対する反省や「金大中拉致事件」真相究明の姿勢がみられないとして抗議の記者会見を開く和田春樹さん(右端)ら=1983年1月、東京都内

「もはや無効」と「すでに無効」

 日本が1965年に韓国と国交を正常化させるまで、交渉は14年に及んだ。両国の国会や市民の反対を押し切って調印・批准にこぎつけた背景には、東西冷戦下で日韓の仲違いを危惧するアメリカの圧力があった。

 交渉がもめた理由は多岐にわたる。1910年の日韓併合条約の有効性、植民地統治下での人的、物的財産の清算方法、経済協力金の性格をめぐり中断と再開を繰り返した。

 日韓基本条約の第2条は、併合条約についてこう記されている。

1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される

 冒頭の8月22日は、大韓帝国の李完用総理と朝鮮総督府の寺内正毅統監が併合条約に調印した日にあたる。

 日本は合意された英文の正文「already null and void」を「もはや無効である」と訳し、併合条約は終始有効だった、1948年大韓民国の誕生をもって、いまは無効になったと解釈した。

 韓国はこの英文を「すでに無効である」と訳し、併合条約はもともと無効であったと解釈した。

 この解釈の分かれが維持され、今に至っている。併合についての歴史的評価が日韓間で対立したままになっている。

和田「この解釈の違いに決着をつけなかったことが、後々、両国の関係に響いてきます。日本から見れば、天皇の詔書で併合したので、法的な手続きは尽くしたと主張するでしょう。しかし条約の文面は、韓国皇帝が統治権を日本に譲与する、日本の天皇はこの譲与を受諾し、韓国を併合することを承諾するとなっています。韓国にとっては、1905年に外交権を奪われ保護国にされた末に(第2次日韓協約)、無理やり併合されたのです。日本は国交正常化の際、あの併合は強制されたものであり、合意に基づく併合であったという併合条約の文面は虚偽であったということをはっきりさせる必要があったのです。韓国側の第2条解釈を受け入れるべきなのです」

 この解釈の違いは、日本が併合の歴史を正当化しているとか、35年間の不法行為の責任をとり補償せよ、といった主張に発展することも多い。

和田「ただ、この問題と補償は別問題です。条約の解釈を韓国側の解釈で統一すれば、あの条約でなされた経済協力は、植民地支配に対する反省謝罪にもとづいてなされたものと解釈し直されるということになるのです」

 併合の歴史的意義づけをめぐってはその後、2010年、併合条約から100年というタイミングで、民主党政権が次のような首相談話を出している。

三・一独立運動などの激しい抵抗にも示されたとおり、政治的・軍事的背景の下、当時の韓国の人々は、その意に反して行われた植民地支配によって、国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷つけられました
和田「この時が遅ればせながら大きなチャンスでした。併合が不義・不当なものだったと日本側が韓国側の論理に合わせた瞬間でした。しかし、菅直人首相が談話を出すと、与党内にも消極論が出て、野党自民党は反対論一色となりました。リベラル勢力が政府を動かした末の談話でしたが、国民の総意として確立されるにいたりませんでした」

日中国交正常化を目指して首脳会談に臨む田中角栄首相(左)と周恩来・中国首相=1972年9月

「朝鮮に対する態度」と「中国への姿勢」

 和田さんは、戦後日本の「朝鮮に対する態度」と「中国への姿勢」が微妙に異なっている点も指摘する。

 1972年、田中角栄・周恩来の両首脳が日中国交に道を開いた共同声明では、かつての侵略について「謝罪と反省」が前文で明文化された。

日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する

 一方、声明本文の第5項目で「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」とも記され、謝罪と賠償が切り離された。

 韓国について似たような表現で日本が謝罪を明確化したのは1995年の村山冨市首相談話で、それが1998年10月、小渕恵三首相と金大中(キム・デジュン)大統領が出した日韓共同宣言「21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ」に含められて確認されたのだった。「日韓パートナーシップ宣言」の第2項目目に「小渕総理大臣は、今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受け止め、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた」とある。

和田「同じような趣旨に見えますが、対中国の場合は戦後27年を経た国交スタート地点で反省が述べられているのに対し、韓国に対しては、植民地支配終了後20年の国交スタート地点ではいかなる反省も謝罪も述べられず、さらに30年が経過したあとにようやく植民地支配がもたらした損害と苦痛に対し反省謝罪が述べられたのです」

 戦後50年の侵略戦争反省と合わせて考えることになった文面であり、2002年サッカーW杯の日韓共催を成功させる必要があるという切迫感のなかでできた文面だったといえる。和田さんは20世紀前半の「戦争観」が影響しているとみる。

和田「(1931年に端を発する)満州事変以来の中国に対する明らかな侵略行為を『まずかった』という思いが、国民のある部分には共通の認識としてあったと思います。東久邇稔彦(ひがしくに・なるひこ)首相は、中国に謝罪の使者を送ることを考えていたと言われます。それに比べると、朝鮮人を日本臣民に繰り込んだ朝鮮植民地支配に対しては、戦後の反省が極めて薄かったのではないでしょうか」

 東久邇稔彦王は、旧皇族で陸軍軍人となり、日中戦争では第2軍司令官として華北に駐留、武漢攻略作戦に参加する一方で、対中戦争の拡大や長期化に反対したとされる。敗戦直後、憲政史上唯一の皇族内閣を組織し、天皇の敗戦後最初の帝国議会開会式勅語に「平和国家の確立」という言葉を入れるイニシアチブをとった人であったことが近年わかってきた。

 日本が共産党支配の中国に急接近した背景には、米中両国が対立緩和、国交樹立へと大きく舵を切ったことがあった。

和田「中国革命を完成して建国した共産中国は、朝鮮戦争に介入して実質上、米中戦争を戦い、引き分けに持ち込んだのです。中国としては、結果は勝利だったわけです。アメリカは韓国軍を引き連れてベトナム戦争を戦ったのですが、こんどは明らかに負けそうになった。そこでアメリカは必死になって、中国との戦争は引き分けで終わったという事実を強調して、中国との和解を演出することにしたのです。ニクソン米大統領の訪中、米中和解、日中国交正常化、沖縄返還がなされたあとに、米国はベトナムから逃げ出したのです。それが1975年のベトナム戦争終結です」

 ベトナムでの米国の敗北は、5万の兵をベトナムに送った韓国・朴正熙(パク・チョンヒ)政権の敗北でもあった。

1988年2月、民主化を求める世論を追い風に大統領に就任した盧泰愚氏

韓国の劇的な変化

 ベトナム敗戦以後数年して、韓国内では劇的な変化が、すさまじい速さで起き始めた。

1979年10月 朴正熙大統領暗殺
          12月 全斗煥(チョン・ドゥファン)、盧泰愚(ノ・テウ)ら新軍部勢力が「粛軍クーデター」で実権掌握
1980年 5月 半島南部の光州で大規模デモ・武力鎮圧(光州事件)。全斗煥政権下で金大中氏が光州事件の首謀者とされ死刑判決
1981年 1月 金大中氏への死刑判決大法院で確定後、減刑
1987年 6月 反政府デモ拡大。学生、高校生、市民が合流し、最大100万人規模に。盧泰愚・次期大統領候補が「民主化宣言」。大統領選の直接選挙制導入を約束。韓国民主化運動の勝利

 韓国民主化をなしとげた1987年6月のデモは「6月民衆抗争」と呼ばれ、この時に参加した学生らは、2000年前後から社会の主流となる。「386世代」(90年代に30代、80年代に学生、60年代生まれ)と呼ばれた。今も政財界や官僚、言論界の主流となっていることから振り返れば、韓国の今の社会のムードを形づくった原点ともいえる。

 ちなみに、文在寅(ムン・ジェイン)現大統領は1953年生まれで少し上の世代だが、80年代は若手人権派弁護士として、市民の不当逮捕や人権抑圧を告発する側にいた。

 これだけダイナミックに変化した背景には、88年のソウル五輪開催が決まっていたのに政情の混乱を不安視する見方が国際的に広がりつつあったため、早く事態収拾を図りたかったという国民共通の思いがあったとの見方もある。

 日本のリベラル層にとって、韓国の民主化革命は大きな朗報だった。

 岩波書店の雑誌「世界」は、韓国の軍事独裁打倒を亡命韓国人と共に訴え、軍事独裁の闇を世界に発信した。池明観(チ・ミョングヮン)氏は、日本で教員をしつつ、韓国内のデモや内部情報を入手し、「T・K生」というペンネームで「韓国からの通信」を「世界」に長期連載した。このように日韓で連帯した活動が実を結んだ、ともいえた。

 金大中氏らの支援や民主化勢力を支援し続けた和田さんにとっても喜ぶべきことだった。

 しかし、韓国民主革命の勝利は、韓国の市民運動のあり方が変わることを意味した。日韓の市民運動の方向性が違ってくるという兆しでもあった。これが1990年代以降、溝が生まれるひとつの原因だった――。和田さんは、後に、こう思うようになってきた。

和田「非常に大きな変化でした。民主革命の勝利を機に、韓国の市民運動は、これまで抑えられていた日本の植民地支配の被害者たちの問題をとりあげ、日本の政府に謝罪と補償、賠償を求める運動を起こすようになりました。日本の市民運動は韓国の新しい運動に呼応して、日本の政府に謝罪と補償を求めるようになりますが、それで終わりとはならないのです。日本の国民を動かし、日本の政府に新しい態度を持たせ、新しい政策を実施させなければならなくなるのです。55年体制のもとで自民党政府の政策に反対したり、アメリカのベトナム戦争に反対したりするという国家社会の主流にブレーキをかけるという役でなく、自国政府に向かって『謝罪しろ』『補償しろ』というのは、ポジティブに結果を獲得することだからです」

 「暗黒時代の韓国を日本から側面支援する」という構図が崩壊したのだった。

和田「向こうは革命を果たした。闘って勝利した。こちらは、平和国家というぼんやりしたイメージを持ちながら、永久政権の自民党と、適当にアメリカとの関係を維持していた。政府と市民運動の関係にはなんの変化もないのです」

 韓国側が強くなった結果、攻守が逆になり、日本の運動も「ブレーキ運動」からノーマル(普通)というか、水平的な関係になった、と和田さんは意識し始めた。

日本の市民運動も変化

 もちろん、日本の運動も自ら変化しはじめていた。

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