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「日韓の亀裂の転機」を和田春樹さんと考える

日韓基本条約の解釈と中国  60~80年代、昭和の終焉

市川速水 朝日新聞編集委員

拡大日中国交正常化を目指して首脳会談に臨む田中角栄首相(左)と周恩来・中国首相=1972年9月

「朝鮮に対する態度」と「中国への姿勢」

 和田さんは、戦後日本の「朝鮮に対する態度」と「中国への姿勢」が微妙に異なっている点も指摘する。

 1972年、田中角栄・周恩来の両首脳が日中国交に道を開いた共同声明では、かつての侵略について「謝罪と反省」が前文で明文化された。

日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する

 一方、声明本文の第5項目で「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」とも記され、謝罪と賠償が切り離された。

 韓国について似たような表現で日本が謝罪を明確化したのは1995年の村山冨市首相談話で、それが1998年10月、小渕恵三首相と金大中(キム・デジュン)大統領が出した日韓共同宣言「21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ」に含められて確認されたのだった。「日韓パートナーシップ宣言」の第2項目目に「小渕総理大臣は、今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受け止め、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた」とある。

和田「同じような趣旨に見えますが、対中国の場合は戦後27年を経た国交スタート地点で反省が述べられているのに対し、韓国に対しては、植民地支配終了後20年の国交スタート地点ではいかなる反省も謝罪も述べられず、さらに30年が経過したあとにようやく植民地支配がもたらした損害と苦痛に対し反省謝罪が述べられたのです」

 戦後50年の侵略戦争反省と合わせて考えることになった文面であり、2002年サッカーW杯の日韓共催を成功させる必要があるという切迫感のなかでできた文面だったといえる。和田さんは20世紀前半の「戦争観」が影響しているとみる。

和田「(1931年に端を発する)満州事変以来の中国に対する明らかな侵略行為を『まずかった』という思いが、国民のある部分には共通の認識としてあったと思います。東久邇稔彦(ひがしくに・なるひこ)首相は、中国に謝罪の使者を送ることを考えていたと言われます。それに比べると、朝鮮人を日本臣民に繰り込んだ朝鮮植民地支配に対しては、戦後の反省が極めて薄かったのではないでしょうか」

 東久邇稔彦王は、旧皇族で陸軍軍人となり、日中戦争では第2軍司令官として華北に駐留、武漢攻略作戦に参加する一方で、対中戦争の拡大や長期化に反対したとされる。敗戦直後、憲政史上唯一の皇族内閣を組織し、天皇の敗戦後最初の帝国議会開会式勅語に「平和国家の確立」という言葉を入れるイニシアチブをとった人であったことが近年わかってきた。

 日本が共産党支配の中国に急接近した背景には、米中両国が対立緩和、国交樹立へと大きく舵を切ったことがあった。

和田「中国革命を完成して建国した共産中国は、朝鮮戦争に介入して実質上、米中戦争を戦い、引き分けに持ち込んだのです。中国としては、結果は勝利だったわけです。アメリカは韓国軍を引き連れてベトナム戦争を戦ったのですが、こんどは明らかに負けそうになった。そこでアメリカは必死になって、中国との戦争は引き分けで終わったという事実を強調して、中国との和解を演出することにしたのです。ニクソン米大統領の訪中、米中和解、日中国交正常化、沖縄返還がなされたあとに、米国はベトナムから逃げ出したのです。それが1975年のベトナム戦争終結です」

 ベトナムでの米国の敗北は、5万の兵をベトナムに送った韓国・朴正熙(パク・チョンヒ)政権の敗北でもあった。

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筆者

市川速水

市川速水(いちかわ・はやみ) 朝日新聞編集委員

1960年生まれ。一橋大学法学部卒。東京社会部、香港返還(1997年)時の香港特派員。ソウル支局長時代は北朝鮮の核疑惑をめぐる6者協議を取材。中国総局長(北京)時代には習近平国家主席(当時副主席)と会見。2016年9月から現職。著書に「皇室報道」、対談集「朝日vs.産経 ソウル発」(いずれも朝日新聞社)など。

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