元参院議員・円より子が見た面白すぎる政治の世界⑭シベリア特措法の本当の目的とは
2019年06月16日
連載・女性政治家が見た! 聞いた! おもしろすぎる日本の政治
8月23日、千鳥ヶ淵戦没者墓苑では毎年、ある行事がおこなわれる。墓苑の周りの木々ではセミがしきりに鳴き、時たま風が吹き抜けるが、晩夏の日差しは容赦なく照りつけ、滴り落ちる汗で黒の礼服にしみが広がる。
零下60度というシベリアの酷寒の地に連行され、まともな食料も与えられず、強制労働につかされて凍死や餓死した人たちを悼んでの抑留者慰霊式典なのに、いつも酷暑の中で開催される。
もちろん、理由がある。1945年の8月23日が、ソ連のスターリンが「日本軍捕虜65万人をシベリアなどの収容所に連行しろ」という密命を出した日だからだ。このシベリアやモンゴルへの抑留で、6万人近い日本人が死んだといわれる。
1945年8月15日が敗戦の日だということは、いまの若い人も大抵、知っている。もう戦争は終わっていたのになぜ?と思っても不思議ではない。疑問を解くには、終戦期のソ連の動きを説明しなければならない。
8月9日、ソ連は日ソ中立条約を破棄し、日本に宣戦布告した。5日後の14日、日本は中立国を通して降伏声明を出したのだが、ソ連は日本領だった満州、南樺太、千島列島を攻撃を続け、それらを占領するまで戦闘をやめなかったのである。
シベリアに強制連行された人たちは、1947年に始まった帰国事業で、1956年までに47万3000人が帰国した。彼ら、元抑留者たちは、過酷な労働の対価が支払われなかったとして、日本政府に長年補償を求めてきた。だが、政府は「戦後処理は終わっている」として、まったく応じてこなかった。1956年の日ソ共同宣言で、日本政府は旧ソ連への賠償請求権を放棄したからだ。
シベリアに抑留された当事者の人たちでつくる「全国抑留者補償協議会」という団体の陳情や要望を受けて、私たちが強制労働に対する補償や真相究明、そして遺骨収集などの法律をつくろうと動きだしたのは2008年の8月頃だったろうか。2009年3月24日には、抑留された元日本兵らに特別給付金を支給する戦後強制抑留者特別措置法案(シベリア特措法案)の内容について記者会見をした。
中心になって動いていたのは民主党参院議員である谷博之さんと那谷屋正義さん、戦後補償問題の研究家で協議会の世話人でもある有光健さんだった。さらに、彼らはシベリア議連もつくった。ただ、自民党政権のもとでは法案提出は困難だった。
ところが、2009年の8月23日の抑留者慰霊式典は、それまでと空気が一変していた。民主党への政権交代は間違いないというムードが高まっていたからだ。まだ衆院選のさなかだったが、メディアの世論調査はみな、民主党の圧倒的優位を報じていた。衆院候補者の応援で全国を走り回っていた私も、人びとの熱い期待をひしひしと感じていた。
いつものように千鳥ヶ淵の式典に出席した私は、全国抑留者補償協議会の会長をつとめる平塚光雄さんらを前に、「みなさん、ようやくここまで来ました。念願の法律がもうすぐ成立します」と述べた。平均年齢87歳、「この法案は、我々が奴隷でなく人間であった証し」と訴えてきた平塚さんらと私たちは政権交代に期待をかけ、万感の思いで「異国の丘」を歌った。
時節到来である。私は谷、那谷屋の両参院議員らと、時をおかずにシベリア特措法案の提出に動いた。長年、この運動を引っ張ってきたシベリア立法推進会議世話人代表の有光さんも張り切っていた。法案はすでに完成していたし、200億円の財源の目途もつけていたからだ。
ところが、そこへ「待った」が入る。民主党の幹事長となった小沢一郎さんが「議員立法は原則禁止」の通知を出したのだ。これはいけないと、私が「野党の時代に何年も前から準備してきたもので、これからつくる議員立法とは違う。抑留経験者は高齢で時間がない」と訴えたところ、何とか委員長提案の形で出せることとなったが、国会運営で与野党が対立し、時間切れとなってしまった。
平塚さんらの落胆は尋常でなかった。「政権さえ取れればと思っていたのに」と肩を落とす。そのあまりの落胆ぶりに私も涙が出て、「ごめんなさい、みなさん。来年の通常国会では必ず成立させます。だから元気を出しましょう」というのが精いっぱいだった。
しかし、ここでへこたれるわけにはいかない。「この状況を突破し、2010年の通常国会でなんとしても法案の成立を実現するには、円さんの突破力が必要だ」と口説かれ、私はシベリア議連の会長に就くことになった。民主党議員を次々と口説いて議連に入ってもらい、先輩議員らや財務省、総務省の官僚らの説得を精力的に始めることになる。
明けて2010年、通常国会が始まった。予算案や内閣提出法案の審議が優先されるのはわかっていたが、特措法案を少しでも早く成立させたいと願っていた私たちに、今度は財務大臣の菅直人さんが冷や水を浴びせた。200億円の予算はまかりならぬと言う。
だが、菅さんは「国庫の財政が厳しいから、一般会計にまわす」という。谷さんらの説得で菅さんはしぶしぶ発言を撤回してくれたが、法案を提出する段になって、またまた障害が生じた。総務省がうんと言わないのだ。法案の13条にこだわっている。
13条は、政府に対して、強制抑留の実態調査等についての基本方針を策定し、強制抑留下での死亡確認や遺骨、遺品の収集を行い、またシベリア抑留問題に関する真実の究明、過酷な抑留体験の次世代への継承などの総合的な取り組みを、国が責任も持って実施するようにと規定した条文である。
私たちは、なにも強制労働への補償だけを求めているわけではなかった。真実の究明と次世代への継承こそが大事であり、二度とあのようなことが起きないように、いや起こさないようにするための教育や啓蒙活動が重要であると思っていた。13条にはそうした私たちの思いが盛り込まれている。
これを削除したいとは、いったい何事なのか。
法案は総務省の管轄なので、総務大臣の原口一博さんにも協力を頼んだが、なんとも煮え切らない。どうやら、官僚に首根っこを押さえつけられていて、13条を削除しないと法案を通せないと脅されていたらしい。菅大臣が財源の200億にこだわっているから、とても自分からは閣議で了承してくれなんて頼めないともいう。
総務官僚はなぜ、13条にひっかかるのか。真実の究明は都合が悪いのか。それとも、遺骨や遺品の収集にさらに予算がかかるのがいやなのか。
「私たちが求めてきたのはこういうことじゃないんだよ。あの酷寒の地で、ひどい生活環境の中で死んでいった戦友たちの遺骨も帰ってきていない。戻ってきたのも、誰のものともわからず、家族のもとにも帰っていない。あの戦争で踏みつけにされた私たちの思い、だまして連れていかれ強制労働にかり出された、そういうことに対して国に謝ってほしいんだよ。そして、二度とこういうことのない世界にしますと言ってほしいんだ。若い人にこういうことがあったと伝えたいんだ」
私や彼らは、13条の削除には絶対反対するということで結束したが、谷さんたちはこれまでの交渉の疲れも出たのか、もうここいらで手を打って、とにかく法案を成立させようと弱気になっていた。これに対し、共に運動してきた長谷緑也さん(俳人の故金子兜太さんの従弟)らは意気軒高で、「円さんの言う通り、13条削除はのめない。一歩も引けない。何だったら官邸前でハンストしてもいい」とまで言う。
「えっー、ハンスト?外、寒いわよ」という私に、「シベリアに比べればこの程度で寒いなんてちゃんちゃらおかしい。円さん、私らはシベリアで一度は捨てた命なんだ」
4月とはいえ、本当に氷雨の降るような冷たい日だった。私は本会議を抜け出して、官邸にいる平野博文・官房長官のケータイに電話を入れた。ハンストのことを伝え、「ハンストなんてやったらこの寒空ですからね。いくらシベリア帰りといったって、80代、90代ですから、何が起きるかわからない」というと、平野さんは「円さんの脅しには参るなあ」と笑いながら、「わかりました。早急に対処しましょう」と言ってくれた。
結局、シベリア特措法案は5月21日に参議院で、6月16日に衆議院で可決・成立した。
6月16日は通常国会の最終日だった。文字どおり、ぎりぎりで成立したわけだが、本会議場には傍聴人も大勢詰めかけ、感極まって泣かんばかりの表情を浮かべる姿を、テレビがアップで流した。残念なことに、この法案にあれほど入れ込んでいた鳩山由紀夫総理はすでに6月2日に辞任、総理の席に座っていたのは、法案に難色を示した菅直人さんだった。
少々脱線するが、シベリア抑留については、書いておきたいことがある。細川護煕総理の伯父にあたる近衛文隆氏と、ロシアのエイツィン大統領についてだ。
近衛文隆氏は、近衛文麿総理の次男であり、プリンストン大学政治学部で外交官を目指していた人だ。細川さんは文隆氏を尊敬し、政治家を志したのも、文隆氏の影響だという。
文隆氏は1938年にアメリカから帰国すると、父である近衛総理の秘書官となるが、1940年2月召集されて満州に行き、1945年8月19日、ソ連の捕虜となった。シベリアに抑留され、56年10月29日、イヴァノヴォ州というところで死去する。1944年に結婚した正子夫人(貞明皇后の姪)の尽力で遺骨は帰国を果たした。
余談だが、正子夫人との間に子どもがいなかったため、細川護煕さんの弟の忠煕さんが養子となっている。日本赤十字社社長の近衛忠輝さんである。
その時のことを細川さんは日記(『内訟録』)に、「大統領の心遣いに、思わず落涙を禁じえず」と記している。さらに、「同様の境遇にある数多の日本人遺族のために、その遺品を可能な限り早く返還されること」をエリツィン大統領に要望したとも書いている。
実は前段がある。エリツィン大統領訪日にあたり、ソ連大使館の一等書記官らが日本新党に相談に来た。「細川総理とエリツィン大統領の話し合いを円滑にするにはどうすればいいか」と言うので、私たちはこう答えた。
――トルストイ、ツルゲーネフ、チェーホフ、ドストエフスキーなど、私たち日本人はロシア文学を愛好している。しかし、日ソの間に不可侵条約である中立条約があるにもかかわらず、日本に侵攻したこと、そして何十万人の人々をシベリアに強制連行したことを、今も許していない。
そして、こう続けた。
――細川総理は文隆氏を敬愛していて、その衣鉢を継ごうとの思いから政治を志した。その文隆さんはシベリアに抑留され、帰国が叶わぬまま死去したのです。
ソ連は、文隆氏の遺品を必死で探したのであろう。見つけ出した氏の軍人身分証を手渡し、エリツィン大統領はシベリア抑留について謝罪したのである。
このとき日ロ首脳会談では、北方領土について、エリツィン大統領が細川総理に北方四島の名を具体的に挙げ、これらの帰属問題を解決した後に平和条約を締結すると明言。「東京宣言」が書名された。
「どうしてあっちには入れないの。みんなの海じゃないの」と聞くと、「戦争に負けたからだ」と、学徒出陣を経験した父はムスッとして答えた。フランキー堺が演ずる「私は貝になりたい」を見た時は、赤紙一枚で召集され、平穏な暮らしを奪われただけでなく、BC級戦犯として死刑にされてしまう理不尽さに、幼な心ながら怒りを覚えた。
憲法の前文は次のように始まる。
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、我らと我らの子孫のために、諸国民との協和による成果と、我が国全土にわたって自由をもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」
私は、太字の部分がとても重要だと思っている。
シベリア特措法、なかでも13条を、私がどうしても実現したかったのは、そのためであった。
法律の可決・成立から1カ月後の7月、私は全国比例区の候補として参院選に立候補した。シベリア抑留を経験した80代、90代の人たちが私を応援するため、選挙カーの上で演説してくれた。しかし、この選挙で私は、組織の応援を得られず、落選した。
彼らは悔しがった。「どうしてこんなに熱心に仕事をする政治家をこの国の国民は落とすのだ」。さらに、「この国の宝のような円さんを民主党はなぜもっと組織をつけてでも応援しなかったのだ」と菅総理にまで食ってかかった。
その言葉が心に沁みたのを覚えている。(続く)
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