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官房長官を“脅して”実現したシベリア抑留者支援

元参院議員・円より子が見た面白すぎる政治の世界⑭シベリア特措法の本当の目的とは

円より子 元参議院議員、女性のための政治スクール校長

拡大千鳥ヶ淵戦没者墓苑で献花する円より子=2010年8月23日(筆者提供)

8月23日という日

 8月23日、千鳥ヶ淵戦没者墓苑では毎年、ある行事がおこなわれる。墓苑の周りの木々ではセミがしきりに鳴き、時たま風が吹き抜けるが、晩夏の日差しは容赦なく照りつけ、滴り落ちる汗で黒の礼服にしみが広がる。

 零下60度というシベリアの酷寒の地に連行され、まともな食料も与えられず、強制労働につかされて凍死や餓死した人たちを悼んでの抑留者慰霊式典なのに、いつも酷暑の中で開催される。

 もちろん、理由がある。1945年の8月23日が、ソ連のスターリンが「日本軍捕虜65万人をシベリアなどの収容所に連行しろ」という密命を出した日だからだ。このシベリアやモンゴルへの抑留で、6万人近い日本人が死んだといわれる。

 1945年8月15日が敗戦の日だということは、いまの若い人も大抵、知っている。もう戦争は終わっていたのになぜ?と思っても不思議ではない。疑問を解くには、終戦期のソ連の動きを説明しなければならない。

 8月9日、ソ連は日ソ中立条約を破棄し、日本に宣戦布告した。5日後の14日、日本は中立国を通して降伏声明を出したのだが、ソ連は日本領だった満州、南樺太、千島列島を攻撃を続け、それらを占領するまで戦闘をやめなかったのである。

長年の懸案だったシベリア特措法案

 シベリアに強制連行された人たちは、1947年に始まった帰国事業で、1956年までに47万3000人が帰国した。彼ら、元抑留者たちは、過酷な労働の対価が支払われなかったとして、日本政府に長年補償を求めてきた。だが、政府は「戦後処理は終わっている」として、まったく応じてこなかった。1956年の日ソ共同宣言で、日本政府は旧ソ連への賠償請求権を放棄したからだ。

 シベリアに抑留された当事者の人たちでつくる「全国抑留者補償協議会」という団体の陳情や要望を受けて、私たちが強制労働に対する補償や真相究明、そして遺骨収集などの法律をつくろうと動きだしたのは2008年の8月頃だったろうか。2009年3月24日には、抑留された元日本兵らに特別給付金を支給する戦後強制抑留者特別措置法案(シベリア特措法案)の内容について記者会見をした。

 中心になって動いていたのは民主党参院議員である谷博之さんと那谷屋正義さん、戦後補償問題の研究家で協議会の世話人でもある有光健さんだった。さらに、彼らはシベリア議連もつくった。ただ、自民党政権のもとでは法案提出は困難だった。

 ところが、2009年の8月23日の抑留者慰霊式典は、それまでと空気が一変していた。民主党への政権交代は間違いないというムードが高まっていたからだ。まだ衆院選のさなかだったが、メディアの世論調査はみな、民主党の圧倒的優位を報じていた。衆院候補者の応援で全国を走り回っていた私も、人びとの熱い期待をひしひしと感じていた。

 いつものように千鳥ヶ淵の式典に出席した私は、全国抑留者補償協議会の会長をつとめる平塚光雄さんらを前に、「みなさん、ようやくここまで来ました。念願の法律がもうすぐ成立します」と述べた。平均年齢87歳、「この法案は、我々が奴隷でなく人間であった証し」と訴えてきた平塚さんらと私たちは政権交代に期待をかけ、万感の思いで「異国の丘」を歌った。


筆者

円より子

円より子(まどか・よりこ) 元参議院議員、女性のための政治スクール校長

ジャパンタイムズ編集局勤務後、フリージャ―ナリスト、評論家として著書40冊、テレビ・講演で活躍後、1992年日本新党結党に参加。党則にクオータ制採用。「女性のための政治スクール」設立。現在までに100人近い議員を誕生させている。1993年から2010年まで参議院議員。民主党副代表、財政金融委員長等を歴任。盗聴法強行採決時には史上初3時間のフィリバスターを本会議場で行なった。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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