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中島岳志の「野党を読む」(3)山本太郎

2年前の「枝野幸男ブーム」と今の「山本太郎ブーム」。何が同じで何が違うのか

中島岳志 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授

7月7日の選挙イベント「野党はどう闘うべきか」のお知らせです。長期化する安倍政権に対抗し、野党は今夏の参院選で何を掲げ、どう闘うのか。年金改革か、消費税減税か、それとも…。「論座」で執筆中の中島岳志東工大教授と保坂展人世田谷区長が大胆に提言します。申し込みはこちらから→【申し込み】
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    山本太郎ブームはなぜ巻き起こるのか

     いま「山本太郎ブーム」が起きています。

     山本さんが各地の街頭で行う演説会は、瞬く間に黒山の人だかりができます。山本さんが話す内容は、グラフや数字を使った統計資料を基礎とする経済政策が中心で、1時間を優に超えるレクチャーに近いものです。しかし、人は減らない。むしろ雪だるま式に増えていきます。

     このうねりは一体何なのか。

     約2年前、「枝野幸男ブーム」が起きました。「枝野立て」という声が各地で起き立憲民主党が立ち上がると、あっという間に野党第一党の議席数を勝ち取りました。

     「山本太郎ブーム」と「枝野幸男ブーム」は何が同じで、何が違うのか?

     両者に共通するのは、「一人で立ち上がる姿」です。大きな流れに抗し、勝算を度外視して立ち向かう姿勢は、多くの人の共感を呼びます。大きな塊から飛び出し、安定した場所を捨ててでも、国民の選択肢を作る行動に、人は期待を寄せます。

     今回の参議院選挙に向けて、立憲民主党は「物語」の設定がうまくできていないように見えます。同じブームを同じ主人公・同じ内容で巻き起こすことは不可能です。新たな「物語」を作らなければ、国民の期待を集めることは難しいでしょう。

     一方で、山本さんは「物語」の設定に成功しているように思えます。山本さんは6年前の参議院選挙でも、東京選挙区から立候補し、ブームを巻き起こしました。一見すると、今回はこの時のリバイバルのように見えますが、単なる6年前のコピーでは、現在のようなブームは起きません。

    Tシャツにジャケット姿。大きな身ぶりで訴える山本太郎氏=2018年10月9日、千葉・船橋駅

    自民支持層を切り崩す「消費税廃止・減税」

     何が6年前と違うのか。なぜ今、山本太郎に注目が集まるのか。

     その理由は山本さんが今回強く訴えている「消費税廃止・減税」にあります。

     後で述べるように、山本さんは街頭に立ち続ける中から、原発問題の根っこには労働問題があり、その先に全国民に関わる経済問題があるという認識に至ります。そして、全国各地で生活苦に陥っている人たちの痛みに触れ、リアルな「お金」の問題を最重要課題に設定していきます。

     そして今、自民党支持者も山本太郎支持へ流れているのです。

     朝日新聞のWEB版に興味深い記事が載っています。山本さんが2月に民間業者に委託して独自で行った世論調査によると、「新党を立ち上げたら支持しますか?」という問いに対して「支持する」と答えた人のうち「自民支持層と立憲支持層がともに約15%を占めた」というのです(河合達郎『山本太郎氏、ひとりからの挑戦 野党に化学反応起こすか』朝日新聞オンライン、2019年6月1日)

     山本さんはどこから票を引きはがしているのか?

     それは2年前に立憲民主党を応援した人だけでなく、同じぐらいのボリュームで自民党支持層から共感を集めているのです。

     自民党支持層の中には、景気対策を重視し、「反緊縮」を支持するビジネス界の人たちがいます。しかし、それ以上に山本さんの主張は、苦境にあえぐ農家や中小企業、商店主など旧来の自民党支持者たちに支持されています。

     ここには2年前に立憲民主党に吹いた風と、異なった要素が含まれているように思います。山本さんは一般的に、左派的な政治家と見なされますが、実際は保守的な庶民層に届く熱量をもった政治家です。これから選挙戦が過熱化し、テレビなどで山本さんの姿と主張が取り上げられると、安倍政権に不満を持つ保守層に支持が拡大する可能性があります。

    山本太郎の「ヤンキー気質」

     なぜ、山本太郎という政治家は保守的な庶民層の心を動かすのか。

     それは、彼の「ヤンキー気質」にあると私は思います。

     彼自身が様々なインタビューで語っていることですが、中学生の頃は各所で悪さをした「ヤンチャ」な子だったと言います。実際、彼の母親は、次のように語っています。

     ワルだったんですよ。その頃、娘にも言ってたんですけど、このコは絶対、将来刑務所行きやからって。あんた結婚したころ、太郎が刑務所から出てきて、お金せびりに来ると思うけど、絶対渡したらあかん!って。(山本太郎『母ちゃんごめん普通に生きれなくて』TVぴあ、1998年)

     山本さんは高校時代の素人参加のバラエティ番組出演がきっかけで芸能界デビューしますが、「勉強がイヤで芸能界に入ったようなもん」だったと言います。(『山本太郎 闘いの原点』ちくま文庫、2016年)

     そして、俳優として具体的に「不条理への怒り」「損得勘定を超えた気合」などを内包する「心優しいワル」を演じ、評価を獲得しました。「デビュー時から肉体を駆使してきた」と言うように、彼は演ずる対象と時に一体化し、行動力を身につけていきます。(「本当の芸能人なら声を上げてファンを守れ!! 行動する俳優 山本太郎」『金曜日』2011年11月4日号)

     精神科医で『世界が土曜の夜の夢なら――ヤンキーと精神分析』(角川書店、2012年)などの著書がある斉藤環さんは、山本さんについて「自らの“情緒”に対して忠実な人」と評し、その側面と「反知性主義」の組み合わせが「きわめてヤンキー的」と指摘しています(「太郎からの手紙」『金曜日』2013年11月22日号)

     彼は、政治家になる過程で勉強を重ね、円形脱毛症になるまで頑張りました。しかし、社会に対しては、次のように言います。

     僕が目指す社会は、究極は、頑張らなくても生きていける世の中です。もう、「これトチったら俺の人生終わりだな」みたいな世の中はやめにしたいんですよね。そういう状態が続く人生は地獄ですよね。「まぁいいか」みたいな余裕が欲しい。
     何をもって頑張るかは個人差があるので、それを測るのは難しい。でも、頑張れない時に頑張ってもロクなことがないから、ゆっくり休んで、それを国が支えて、そろそろ力が湧いてきたという時に頑張ってもらう方が、ずっと生産性は高いですよ。だって、無理しても壊れるだけだもん。
     だから、「いいよ、頑張らなくても」という世の中になればどんだけいいか。今はあまりにも地獄すぎると思うんです(山本太郎、(取材・構成)雨宮処凛『僕にもできた!国会議員』筑摩書房、2019年)

     一体、山本太郎という政治家は何者なのか。

    街頭で訴える山本太郎氏。演説の大半を経済対策に費やした=2019年5月29日、東京・北千住駅

    政治へのきっかけは原発事故

     山本さんが政治に関与し始めたきっかけは東日本大震災による原発事故でした。

     彼は、この時まで「何かあった時、自分は助かるかもしれない」と思っていたそうです。自分は芸能界で活躍する人間であり、税金も多く払ってきた。だから、他の人よりも優先的に助けてもらえるという「選民意識みたいなもの」があったと言います。

     しかし、これが一気に崩壊します。自分は切り捨てられる側の人間であると痛感し、「税金、高いなと思いながらも、そこそこな額を真面目に収めてきたのに切るんですか」と思ったと言います。(前掲『山本太郎 闘いの原点』)

     この時、彼の中に「猛烈に「生きたい」という感情が湧きあがってきた」と言います。(「「生きたい」という思い、自分への憤慨、そして政府への怒り 三位一体の原動力」『マスコミ市民』2012年3月)

     そして、この思いが怒りに変わっていきます。

     本格的にスイッチが入ったのは、「国が子どもの被曝に対しても20ミリシーベルトという基準値を与えた時」でした。「子どもたちの命も守らないような国」には「未来がない」。「未来を諦めた国」なんてどうかしている(『山本太郎 闘いの原点』)。そう思った山本さんは、声を上げようとしました。

     しかし、立ちはだかったのが芸能界という壁でした。

     俳優として芸能界で生きていくためには、特定の政治勢力に加担するような政治的発言はタブーで、「シガラミや利害」が絡んでいます。自分の思っていることを言えば、俳優としての仕事を失うのではないか。そんな自主規制が働きました。

     山本さんは、言うべきことを言えていない自分への苛立ち・ストレスを溜め込み、自問自答します。

     「今、声を上げないってことは、推進派と同じじゃないか」「お前、本当にそれで自分を許せるのか? 後悔しないとでも思ってるのか?」

     そんなとき、2011年4月8日に孫正義さんがツイッターでつぶやきました。

     「皆さんは、原発賛成・反対?」

     山本さんは、これに「反対!」と返します。その瞬間、「内側から何かがどっと溢れてきて、なぜか涙が止まらなくなった」と言います。

     初めて「宣戦布告」した瞬間、堰を切ったように涙が溢れました。何かを失うかも知れぬ不安、後悔の涙じゃない。これまで、本当の自分を押さえつけ、言うべきことも言えずにいた。声を上げた瞬間の涙は、本当の自分を取り戻した、解放の涙でした。(「独占インタビュー 俳優・山本太郎 原発マネーに汚染されたテレビと芸能界へ」『週刊現代』2011年8月6日号)

     山本さんは、「やっと人間に戻れた」という感覚を持ち、反原発運動に参加する意思をもちました。そして、その週末、高円寺で行われた反原発デモに参加。ここで一人で悶々としていた気分が吹き飛び、肩の荷が下りたと言います。そして、思いを共有する人たちと意思表示をする自由を味わい、感動します。

     それから本格的に各地の反原発運動・デモに参加するようになっていきました。

    芸能界に働く自主規制

     しかし、彼が前進すればするほど、俳優としての仕事に支障が出るようになります。

     社会問題は企業と繋がっており、CM出演に支障が生じます。テレビ番組もスポンサーによって成り立っており、広告収入が減るようなことは避けられます。その結果、政治発言をするタレントは忌避され、業界内の自主規制が加速します。

     さらに、所属事務所に様々な抗議・嫌がらせ電話がかかってくるようになりました。そして、ついにマネージャーから出演予定だったドラマについて「反原発発言が問題になっており、なくなりました」というメールが届きました。

     この時の心境を、山本さんは「本当にこんなことがあるんだなとショックでした」と語っています。(「独占インタビュー 俳優・山本太郎 原発マネーに汚染されたテレビと芸能界へ」『週刊現代』2011年8月6日)

     山本さんは、このままでは事務所に迷惑がかかると考え、10年以上所属していた事務所をやめてフリーになります。すると、「仕事関係では実際、収入が十分の一になりました」(「緊急インタビュー 未来に向けて生きる学びを:山本太郎さんに聞く(第2回)」『高校のひろば』83号、2012年)。

     知り合いに頼んでテレビ局などに営業をかけてもらうと「ちょっと今、山本は出せないでしょう」という反応が返ってきたと言います。(野呂美加、山本太郎対談「“生きたい”という本能が原動力 仕事があっても命がなきゃ意味がないと思いませんか?」『婦人公論』2011年12月7日)

     それでも山本さんは、反原発運動から遠ざかりませんでした。それは「子供を助けたい」「子供から未来を奪ってはいけない」という思いが強かったからだと言います。

     やっぱり自分の人生を振り返っても、いつが輝いていたかっていうと、断然子供の頃なんですよ。自分を取り巻いている世界の広さがどんどん分かってきて、好きな人が現れて恋が始まってという、あのわくわくする感じ。「どの年齢に帰りたいですか?」って聞かれたら、きっと多くの人は子供時代とか思春期を思い浮かべる気がするんです。(『山本太郎 闘いの原点』)

     では山本さんは、どのような子供時代を送ってきたのか。

    街頭で訴える山本太郎氏。新たに立ち上げた「れいわ新選組」をアピールした=2019年5月29日、東京・北千住駅

    母子家庭で育ったこと

     山本さんは母子家庭で育ちました。父は、1歳の時に亡くなったといい、「父の存在はぼくの中にはいっさいない」と語っています(岩切徹「現代の肖像 俳優 山本太郎 ”脱原発”役者の軌跡」『アエラ』2012年12月3日)

     彼を育てた母親は「パワフルで正義感が強」い人で、「日常的にも自分より弱い立場の人には、手を差し伸べろっていうことはすごく言われ」たと言います。山本さんは、母の存在から大きな影響を受けて育ちました(『山本太郎 闘いの原点』)

     母はフィリピンの貧しい子供たちを支援するボランティア団体のメンバーで、山本さんも子供の時から何度もフィリピンに行って、仕事を手伝わされました。

     母は次のように語っています。

     東南アジアに行くと、バクシーシ(喜捨)じゃないけど、いろんな町や村で日本から持っていった食べ物とかデザートを、子供たちに実際に配らしたんです。慈悲の心とか、優しさを培うために。施す方が、自分の内に徳を積めるというか、してもらった人がたとえ一時でも幸せを感じれば、自分も幸せな充実感で満たされる。それを子供たちに教えたかったんです(『山本太郎 闘いの原点』)

     母は学校の規範から自由。夏休みが終わっても、家族で海外から帰ってこないこともありました。一方で家では「鬼軍曹」。ヤンチャな山本さんは、繰り返し厳しくしかられました。子供の時は「うっとうしい」と思っていたそうですが、社会に出るころにはその思いが「尊敬と感謝」に変わったと言います。

     子供の頃の山本さんは、とにかく勉強が大嫌い。小学校の時に「このままじゃ、高校に行けません」と先生に言われ、私立の中学校と高校のつながった学校に通うことになります。そして「今までの僕の学校人生において、担当してくれた先生には平等に迷惑をかけた」と言います。(「緊急インタビュー 未来に向けて生きる学びを:山本太郎さんに聞く(第2回)」『高校のひろば』83号、2012年)

     そんな彼にとって転機になったのが、『天才・たけしの元気が出るテレビ!』の「ダンス甲子園」に素人として出演したことでした。ここで彼の個性に人気が集まり、世間に注目される存在になりました。

     しかし、その過激なパフォーマンスを問題視した所属高校の校長は彼を呼び出し、「テレビの活動を続けるのか、それとも学校やめるのか」と迫ります。山本さんは職員室から母に電話をすると、母から「太郎の人生だから、自分で本当にやりたいことをやりなさい」と言われ、電話口で大泣きしました。

     そして、芸能界にデビュー。俳優として活躍するようになります。

    天皇への手紙

     具体的に政治家への道を歩み出したのは、東日本大震災の翌年(2012年)でした。2012年12月に衆議院議員総選挙への出馬を表明し、東京8区から無所属で出馬しますが、この時は落選しました。

     しかし、2013年7月の参議院議員通常選挙に東京都選挙区から立候補し、65万票を超える票を獲得して当選。2014年の衆議院選挙後には、政党要件を失っていた「生活の党」に入党し、「生活の党と山本太郎と仲間たち」という政党名に改めます。2016年には「自由党」に党名変更。

     そして、今年離党。新党「れいわ新選組」の立ち上げに至ります。

     その間に起きたことで話題になったのは、「天皇への手紙」でした。2013年10月31日、園遊会に出席した山本さんは、明仁天皇に書簡を直接手交しました。これが大問題になり、山本さんは厳しい批判にさらされます。

     この時、山本さんは次のように語っています。

     お手紙には、原発の再稼働については一切書いていません。子供たちの被曝、原発労働者たちの理不尽な処遇、それとこのことも含めて秘密にされてしまう秘密保護法によって、戦前と同じ状況に向かっているという心の叫びをしたためました。陛下に何かを求めるというよりも、自分自身の心の叫びでした。
     今回の行為については猛省しています。(『週刊現代』2013年11月23日号)

     山本さんには、明仁天皇に対する「敬愛の念」があったと言います。それは国民への気遣いや言葉の端々に表れる「権力者を戒めるようなニュアンス」、そして「開かれた皇室」への共感に基づいていたと言います。彼は騒動ののち、明仁天皇を「「父無き子の父」のような存在」と語っています。(「天皇への直訴事件のその後 「手紙」についての偏向報道に反論する」『創』2014年1月)

     ここには天皇制をめぐる重要な論点が潜んでいると思いますが、この点は別稿を期したいと思います。

    蓮池透さん(右)の擁立を発表する山本太郎氏=2019年5月31日、東京都新宿区

    労働問題、そして経済問題へ

     山本さんは初当選の選挙戦で、原発問題を国民に問いました。しかし、有権者の反応はいまいちでした。そしてあることに気づきます。

     僕は選挙のときに原発のこと、被曝のこと、TPPのこと、そして労働問題についてお話ししてきましたが、聴衆のみなさんとの距離がぐっと縮まるのは、実は労働問題だということに気付いたんです。演説をしていても、立ち止まる人の数も反応も違う。演説が終わったらみなさんと握手をするんですけど、そのときに話かけられるのも、労働問題のことがいちばん多かったんです(「政党や団体を超えて不満がある人たちを集めたい」『Posse』2013年9月号)
     働く人間ひとりひとりにとって、労働環境が改善されていかなかったら、世の中に興味を持てないよな、っていうことに気が付いたわけです。朝から晩まで働いて、その後に社会のことを考えるって不可能だなって。2年間ずっと活動してきて、そういう部分に思いが至ったというか(「秘密保全法反対で全国キャラバン 全国各地を歩き回る それが僕流の「政治」だ」『創』2013年11月号)

     山本さんがたどり着いたのは「労働問題」でした。結局、原発事故の処理をする危険な労働は、下請け会社や派遣会社に丸投げで、しかもピンハネして安い賃金で働かされていました。

     この被曝労働は「過労死の問題にもつながって」いると考え、労働問題に話を展開すると、反原発運動には距離感を示していた人たちも、熱心に話に耳を傾けるようになりました。

     労働問題に力を入れていかなければならないと思った山本さんは、次第に経済問題に関心をもちます。

     その大きなきっかけとなったのは、2016年1月に出版された松尾匡さんの『この経済政策が民主主義を救う-安倍政権に勝てる対策』(大月書店)を読んだことでした。山本さんは言います。

     その本を読んで衝撃を受けました。要は安倍政権をどうやって倒すのかという時に、なくてはならないものがある。それは安倍さんを超える経済政策だと。(山本太郎、(取材・構成)雨宮処凛『僕にもできた!国会議員』筑摩書房、2019年)

     そして「松尾先生に「知恵をつけてください」とメール」し、2016年夏ごろから、松尾さんらとともに勉強会がはじまりました。

     この頃、山本さんは自民党の経団連中心主義を厳しく批判しています。安倍内閣は「国民のための政治」ではなく「企業のための政治」であり、その政策は経団連の提言を「完全コピー」している。結局、安倍内閣は大企業優遇のために法人税を減税し減税分を補てんするために消費税を上げようとしている。さらに「人件費の削減」のために外国人労働者の受け入れを進め、「世界的な低賃金競争に自国の人々を引きずり込」もうとしている。そして、TPPによって一部の利益を確保し、農家を苦しめようとしている。(「安倍政権は経団連の御用聞きか」『月刊日本』2016年10月)

     一連の問題を見ていると、安倍政権や経団連は「お前たちが生きることは許してやる、但し、余計なことは口に出すな、政治に興味を持つな」という本音が見て取れますよね。まるで王の様な振る舞いです。バカ殿ですかね?
     いくら子どもたちが貧困で苦しもうと、若者が借金まみれで家族を持つのは贅沢だと言われ、少子化も絶望的な状況の中でも「関係ない」とばかりに、税金を既得権益者にばらまき続けている(前掲「安倍政権は経団連の御用聞きか」)

     この主張を展開しているのが、保守色を特徴とする雑誌『月刊日本』であるというのも重要です。彼は次第に、自民党を支持してきた保守層を意識し、生活者としての連帯を呼びかけるようになっていきました。

    消費税減税、財政出動

     では、具体的に経済政策をどのようにすべきか?

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