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新疆ウイグル自治区を『収容所群島』に変えた能吏

陳全国の人物像に迫る

柴田哲雄 愛知学院大学准教授

全人代の新疆ウイグル自治区代表団の会議で発言する陳全国・同自治区党委書記=2019年3月12日、北京・人民大会堂
 今日、新疆ウイグル自治区では、約1000万人のウイグル族のうち、実に1割に上る人々が強制収容所に拘束されています。こうした事態に対して、国際社会は強く批判してきましたが、中国当局は、ウイグル族が収容されているのは「職業技能教育訓練センター」であると反論しています。しかし名称がどうであれ、その実態は「中国語や思想教育を通じ、民族固有の文化や宗教を捨てさせ、無神論の共産党の旗の下でウイグル族を漢族に同化させる基地といえる」でしょう(加藤直人)。(文中敬称略)

 特に拘束の対象になっているのは、イスラム教の指導者はもとよりですが、「ウイグル人の文化を担っていた、大学の教授、著名な医学者、ジャーナリスト、あるいは経済界の著名人など、ウイグル人社会の上層部にいた人たち」です(水谷尚子)。「共産党員や公務員など従来は親体制的とみなされてきたウイグル族」も例外ではないようです(『アエラ』)。今や新疆ウイグル自治区は「収容所群島」と化してしまった感さえあります。

 こうした「収容所群島」の立案者とされている人物こそ、2016年に新疆ウイグル自治区のトップ(党委員会書記)に就任した陳全国です。米連邦議会からは、陳全国に対して制裁を科すべきだという声さえ上がっています。筆者は日本の国会からも同様の声が上がることを期待しています。もっともその前に、陳全国とは一体どのような人物なのかということを理解する必要があるでしょう。残念ながら、陳全国については、断片的な情報しか伝わっていません。そこで断片的な情報をつなぎ合わせて、陳全国の人物像に迫ってみたいと思います。

順調そのものの出世

 陳全国の経歴から見ていくことにしましょう。陳全国は1955年11月に河南省駐馬店市平與(へいよ)県で生を享けました。平與県一帯は「エイズ村(村人が農業だけでは食べていけず、売血を繰り返した挙句に、エイズに集団感染した)」があるなど、全国有数の貧困地帯です。陳全国によれば、陳は「農民の息子で、多くの親戚が今もなお故郷の農村に住んでいる」とのことですので(王向前ほか)、先祖代々平與県の寒村で、貧困にあえぎながら農業に従事してきたものと思われます。陳全国は習近平などと違って、有力な政治家・官僚を親にもつ「太子党」ではなく、叩き上げのエリートなのです。

 陳全国は、数少ないチャンスを確実にものにすることで、出世の足掛かりをつかんできました。陳全国は1973年に人民解放軍の兵士となり、76年に共産党に入党すると、77年に駐馬店の自動車部品工場の工員になりました。陳全国に訪れた最初のチャンスは、大学入試の再開でした。陳全国は、大学入試が再開された最初の年に、非常に高い倍率を突破して、河南省の名門・鄭州大学経済学部の合格を見事に勝ち取っています。ちなみに陳全国と同い年の李克強もまた同時期に最難関の北京大学法学部に合格しています。

 陳全国は1978年に大学に入学しましたが、在学中に二度目のチャンスが訪れました。1980年に「選調生(選抜生)」制度が再開されたのです。この制度は、各省の党委員会が大学生のなかから優秀者を選抜して、地方の現場で経験を積ませた後に、将来の指導者の候補にするというものです。陳全国はこのチャンスもものにして、最初の「選調生」に選ばれています。習近平と違って、特別なコネクションをもたない陳全国にとって、鄭州大学に合格したことに続いて、「選調生」に選ばれたことは、党官僚としての出世の足掛かりをつかんだことを意味していました。

 陳全国の出世は順調そのものであり、その出世振りは雑誌に取り上げられているほどです(夏自釗)。陳全国が1981年に大学を卒業した後、最初に赴任したのは故郷の平與県の辛店人民公社(現在は辛店郷政府)でした。その7年後の1988年に、陳全国は河南省遂平県のトップ(党委員会書記)に就任しましたが、文化大革命後の同省の県のトップたちのなかでは最年少でした。1998年に陳全国は、河南省漯河(らが)市のナンバー2(党委員会副書記・市長)から一躍同省の副省長に抜擢され、以後、2000年に同省の人事部門のトップ(組織部長)、03年に同省党委員会副書記などを歴任しました。その後、2009年に河北省のナンバー2(党委員会副書記・省長)に昇格し、11年にはついにチベット自治区のトップ(党委員会書記)に君臨するようになります。

 なお2002年から04年にかけて、李克強が河南省のトップ(党委員会書記)を務めており、その間、陳全国は部下として李に仕えていたことになります。こうした経緯から、陳全国は李克強の腹心と見なされ、胡錦涛派に分類されています(『日本経済新聞』)。ただし陳全国には、胡錦涛や李克強らの権力基盤である共産主義青年団系統での職務経験はありません。

 また陳全国は勤務のかたわら、武漢の大学から1997年に経済学の修士学位を、2004年には管理学の博士学位を、それぞれ取得しています。博士論文の題目は「中国中部地区における労力資本の蓄積と経済発展との間の相関性についての研究」というものです。陳全国は、河南省の指導者として多忙な日々を送りながらも、公務の合間を縫って、同省の経済状況に関する知見を学術的に集大成していたのです。日本の財務省のキャリア組のなかにも、激務の合間を縫って、博士号を取得するような強者がいますが、陳全国はそうした強者同様に、抜群の能吏だと言ってよいでしょう。

 ただし、海外のネット上には、陳全国の博士論文が剽窃だらけだという噂が出回っています(ちなみに習近平も地方政府在任中に、農村の市場化に関する研究によって清華大学から博士号を取得しましたが、やはり代筆疑惑が持ち上がっています)。

「俺の親父は李剛だ」事件で見せた危機管理能力

 しかし、たとえ剽窃の噂が確かだとしても、陳全国が抜群の能吏であることはまちがいありません。陳全国が2011年にチベット自治区のトップに抜擢されたのは、党中央によって、長年にわたる地方での職務経験に加えて、河南・河北両省での治績が高く評価されたからです(夏自釗)。もっとも、この場合の治績とは、経済発展よりも、危機管理に比重が置かれていたと言ってよいでしょう。それを端的に示しているのが、日本でも話題になった「俺の親父は李剛だ」事件です。

 2010年10月、河北大学の構内で2人の女子大生が自動車に轢かれた時に(しかも1人は死亡しました)、加害者である運転手の男性が「文句があるなら訴えてみろ、俺の親父は李剛(河北省保定市の公安分局の副局長)だ」と放言して立ち去ったところ、これがインターネットを通して大々的に広まりました。ネット掲示板はバッシングの書き込みであふれ、「俺の親父は李剛だ」という歌、詩、映像作品、ゲームなどがつくられたほどです(原田曜平)。

 「俺の親父は李剛だ」事件の騒ぎがここまで大きくなったのは、「太子党」の特権階級化を象徴する事件だったからだと言えるでしょう。それだけに、同事件の解決を一歩でも誤れば、世論の批判の矛先は党中央に向かいかねませんでした。

 陳全国は当時、河北省のナンバー2でしたが、時宜を得た声明を出すことで、沸騰する世論の沈静化に成功しています。陳全国は「法律に従って厳粛に処理する」と述べた上で、すでに同事件を担当する専門チームを編成して、河北大学で処理に当たらせているなどと伝えたのです(王向前ほか)(もっとも後日被告に下された判決は予想よりも軽いものでしたが)。

 「俺の親父は李剛だ」事件のエピソードからも明らかなように、陳全国は危機管理能力を十二分にそなえていたと言ってよいでしょう。党中央は一貫して政治的安定を最重要視してきましたが、その実現の鍵の一つは、言うまでもなく指導者の危機管理能力です。そこで陳全国に、複雑な民族問題を抱えて政治的に不安定化していたチベット自治区のトップとして、白羽の矢が立ったのでしょう。

チベット自治区での施策

 陳全国がチベット自治区で政治的安定を実現するために行ってきた危機管理の施策を見ることにしましょう。それはムチを主としてアメを従とする方針に基づいていたと言えます。ムチについては、以下のようなことを行ってきました。第一に、派出所(便民警務站)の大幅な増設です。陳全国が2011年にチベット自治区のトップに就任してからたった1年の間に、区都のラサでは、500メートルに満たない間隔で派出所が林立するに至りました。第二に、警察関係者の大幅な増員です。陳全国がチベット自治区のトップに就任していた5年間に増員された総数は、その前の5年間に増員された総数の4倍以上に上りました。第三に、新たなテクノロジーを利用したハイテク監視の展開です。人工知能やビッグデータなどを駆使することで、監視カメラが自動的に顔認証を行い得るようになりました(Adrian Zenzほか)。

 一方、アメについては、習近平によって掲げられた「大衆路線」を通して、以下のようなことを行ってきました。陳全国は10万人に及ぶ幹部を、チベット族の各村落に派遣して駐在させることにしたのです。幹部たちは

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