2019年06月22日
薄雲が空を覆い、夏の終わりにしては肌寒い日だった。時折、気まぐれのように降る小雨が静かに車窓をつたう2017年秋、10年ぶりに訪れたドイツで、シリアから逃れた友人を訪ねた。北部ハノーファーから、列車は森を抜け、穏やかな田園風景の中、更に郊外へと走る。降り立った駅前広場の周りには、小ぎれいな商店が軒を連ね、のどかな街並みが広がっていた。行きかう人々の中には、イスラムのヒジャブを被った女性の姿も目立つ。若者たちの会話からも時折、アラビア語が聴こえてくる「お待たせ!バスの乗り換えにまだ慣れなくて」と出迎えてくれた彼は、白髪が目立ち、実年齢よりもずっと年上に見えた。
アリさん(仮名・40代)が単身ドイツへとたどり着いたのは2015年、とりわけ多くの難民が危機を逃れヨーロッパを目指した年だった。この年だけでも110万人がドイツに入国したとされている。
シリアが戦禍にのみ込まれていく中、知識層だった彼は、政府側、反政府側双方から、自分たちの力になるよう声がかかったのだという。「誰も、殺したくなかった」。故郷を離れた苦渋の思いをアリさんはそう語る。けれども家族全員でいきなり難民となるのはあまりにも無謀に思えたという。妻と幼い3人の娘をシリアに残し、まずは単身、隣国トルコから海を渡った。最初に自分ひとりがそのリスクを背負い、海外に生活基盤を築き上げようと試みたのだ。いくつもの国境を越え、あまりに長い道のりの末にたどり着いたのがドイツだった。
「最も危険だったのはやはりボートでギリシャを目指したときだった」と、命がけの旅を振り返る。「スマートフォンに家族へのメッセージを書き残して、沈みそうになったらいつでも送れるように準備しておいたんだ」。自分がこれまで築いてきた全ての人間関係から切り離される、あまりに孤独な選択。何より家族といつ会えるのか、何ら約束された将来が見えないのがたまらなく苦しかったと当時を振り返る。実際、家族の呼び寄せ許可は、年々厳しくなっていた。
ドイツでの暮らしに馴染もうと努めてきたものの、言葉の壁は予想していたよりもはるかに高いものだった。彼の前職はエンジニアだったが、専門用語も多いその職能をドイツで生かすにはあまりにも言葉が不自由だった。今は小さな企業でインターンをしながら、いつかまたエンジニアとして働けるよう、ドイツ語を猛勉強する毎日を送る。「職に就けないことを、一部では“楽をしている”と見られることもある。ただシリアでは日々当たり前のように仕事をしていた自分にとって、働けないということは“社会から必要とされていない”ということと同じなんだ」。
現在暮らしている街は元々移民たちも暮らしている地域ということもあり、商店街にはハラールフード(イスラム法上で許されている食材や料理)の店も少なくない。モスクもあり、目立った不自由はないという。「どこの国にいても、皆結局は故郷で慣れ親しんだ味を恋しがる。それがビジネスチャンスだって、中東のレストランを開いたり、それに関する商売を新しく始めた人たちもいるくらいなんだ」。
駅の周りの喧騒を抜け、第二次大戦後、駐留していたイギリス軍の兵士家族が使っていたのだという古びたアパートの門をくぐると、「パパお帰り!」と小さな娘たちが3人、アリさんに飛びつくように出迎えてくれた。つい2カ月前、ようやく奥さんと娘さんたちの呼び寄せが叶ったのだった。その時空港まで迎えの車を出してくれたのも、彼を支える近隣の住人たちだったという。
二日目の夜、2年ぶりに家族そろって迎える誕生日はお母さんの手作りケーキでのお祝いだった。アリさんも、娘さんたちの顔も輝いていた。「だけどね」と時折、彼の顔がくもる。「後ろめたい気持ちでいっぱいになるときがあるんだ」。誰しもが家族の呼び寄せが叶うわけではない。それ以前に、ヨーロッパにたどり着くことさえできず、追い返された人、力尽きた人たちがいた。何より戦乱のシリアにはまだ、多くの友人、親戚たちが残っている。家族が安心して食卓を共に囲める時間がどれだけ貴重なものなのか、彼は身をもって知っていた。
シリアの隣国ヨルダンのザータリ難民キャンプでは、最初に訪れた2013年、配られたパンをその場ですぐ売りに出している人々の姿を目にしたことがある。「いつか帰るときのために、少しでも貯金がほしい」と、出来ることといえば自分自身の食べ物を我慢して換金することだった。
キャンプ内ではWFP(世界食糧計画)が配布するフードクーポンを、所定のスーパーで食料品などと交換する仕組みがあった。けれども紛争が長引くほどに支援集めも困難を極め、クーポンも減額の一途をたどる。「あのスーパーのものはそもそも値段が高い」と、フードクーポンを売り払い、そのお金でキャンプ内に人々が築いた独自のマーケットで買い物をする女性たちの姿もあった(現在は虹彩認証が導入されている)。キャンプ内の学校では、朝ごはんを抜いてきた子どもたちが空腹で授業に集中できず、NGOがスナックを配るなど、対策を立てていた。それぞれのテントやプレハブに帰っても、ガスが不足すれば、温かい食べ物が食べられる機会も限られる。
2011年の東日本大震災後、各地の避難所を巡り、改めて「食」が人の心持ちを大きく左右することを感じてきた。同じカロリーを摂れば、体は同じように生きられるかもしれない。けれども温かな食べ物を皆で囲んで食べるのと、冷たいものを一人でぽつんと口に入れるのでは、湧き上がるエネルギーが全く違うものになる。
6月20日は世界難民の日だ。この日の前後に毎年、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR) は、故郷や慣れ親しんだ家を追われた人々の人数を発表してきた。その数はここ数年「過去最多」を更新し続け、今年も7000万を超える人が避難生活を送っているとされている。そして難民となってしまった人々の生活は平均すると26年も続くという。
食に「質」を求めるのは、一見すると贅沢に思えるかもしれない。けれども食卓が体の栄養だけではなく、心の栄養としての役割を果たしてくれることを考えたとき、「明日も生きていたい」と思える環境とは何かが見えてくるのではないだろうか。
シリア出身の友人からはよく、こんな連絡が入る。「お誕生日のお祝いに、こっちに来れない?だって来年もこうやって、皆で誕生日を祝えるか分からないじゃない」、と。
(この連載は毎月第4土曜日に掲載します)
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