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「日韓の亀裂の拡大」を和田春樹さんと考える

55年体制の終焉とアジア女性基金

市川速水 朝日新聞編集委員

記者会見で「戦後50年談話」を発表する村山冨市首相=1995年8月15日、首相官邸

55体制の終焉と戦後50年

 昭和の終わりと日本政治の「55年体制」の終焉、そして戦後50年、新世紀。約30年前、山脈のように節目が重なっていったのは偶然だろうか。そして日韓関係も。

 これまで『「日韓の亀裂の源流」を和田春樹さんと考える』『「日韓の亀裂の転機」を和田春樹さんと考える』と2回にわたって歴史学者の和田さんに半世紀を回想してもらいながら日韓の歴史をたどってきた。1960年代の「ベ平連」から始まった日韓連帯の市民運動、その後に韓国内で民主化政権を勝ち取るまでの激しい動き。それらが共感を生みつつも、別々な道を歩み始めることになった様子が見えてきた。

 韓国の激しい民主化闘争を横目に、日本も遅ればせながら政治の変革がやってくる。

 1980年代後半、リベラル勢力の政治的中心、日本社会党は党勢を伸ばしていた。1986年には植民地時代の台湾に生まれた石橋政嗣委員長に代わり、土井たか子氏が党首になる。1988年に朝鮮に二つの国家が生まれて40年になるのを機に、土井委員長は声明を出し、朝鮮植民地支配清算の国会決議を行い、二つの国家に対する政策を改善するよう訴えた。昭和が終わった89年の都議選、参院選で社会党が躍進し、「山が動いた」と土井委員長は名セリフを残した。

 朝鮮植民地支配を反省する国会決議を求めてきた和田さんたちにとって、その風向きは大きなチャンスだった。

 昭和天皇が逝去して間もない1989年1月末に「植民地支配の清算がなされないまま昭和という時代の幕が下りた。いまこそ世論をおこし、国民的合意を形成し、朝鮮民族との和解を願う国民的意思表示をおこなう必要がある」と国会決議を求める声明を改めて出した。和田さんのほかに名を連ねたのは劇作家の木下順二、歴史学者の遠山茂樹、旗田巍、高崎宗司各氏ら11人だった。

日朝3党会談に臨む前に握手する(左から)金丸信・自民党元副総理、金日成・北朝鮮主席、田辺誠・社会党副委員長=1990年9月26日、北朝鮮・妙香山

戦後補償をめぐる日韓の最初の「ねじれ」

 この1989年という年は、冷戦の終わり、米ソ和解、東欧社会主義国の崩壊とも重なった。その波は北朝鮮にも及んだ。ソ連東欧諸国が韓国と国交をもつ方向に進み、中国も88年ソウルオリンピックに参加するというなか、北朝鮮は完全に孤立する。ソ連の核の傘がなくなることによって自前の核兵器を持つことまで模索し始めるとともに、日本との国交正常化にも動こうとしていた。

 日本がアジアで唯一、戦後に関係を修復していない北朝鮮との国交正常化は、一部の外務官僚や政治家の一貫した悲願だった。翌90年、自民党の金丸信氏、社会党の田辺誠氏らが自民・社会党合同訪朝団という異例の訪朝団を組み、金日成(キム・イルソン)主席と会談した。そして「三党共同声明」が出されるという前代未聞の出来事が起きた。この共同声明で、日朝国交正常化交渉を始めることがうたわれた。

 また、対米開戦の真珠湾攻撃から50年の1991年12月に向けて「不戦を誓う決議を」という声も出て来た。しかし、与野党がつくる様々な原案には、和田らが求める植民地支配や侵略行為に対する直接的な表現は乏しく、決議は実現しなかった。

和田「そのなかで起きた慰安婦問題こそが、結局のところ、日本の国家と国民を植民地支配の反省と謝罪に向かわせる大きな衝撃となったのです。この問題が90年代以降の最大の政治課題となり、日韓の様々な軋轢を生み、日本国内でも鋭い対立を生み出しました」

 1990年に韓国の教会の女性や学者たちが慰安婦問題を提起し、日本政府に書簡を送った。この人々が挺身隊問題対策協議会(挺対協)という組織をつくる。91年に金学順(キム・ハクスン)氏がこの組織に連絡して、慰安婦として名乗り出た。彼女は日本政府相手に訴訟を提起。翌92年から日韓間の外交問題や戦時下の女性への暴力という問題に発展する。日本政府は韓国側に促され、資料調査、研究を開始した。

戦時中の慰安婦問題について、調査結果の書類を手に記者会見場に入る河野洋平・官房長官=1993年8月4日

 1993年には、慰安婦問題に関する河野洋平・官房長官談話が「お詫びと反省」を表明した。河野談話では、「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、さらに、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」「当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」と表現した。

 日本政府としてぎりぎりの認識を示したとみられるが、この強制性に踏み込んだ談話に関して、韓国の挺対協などは、法的責任をとろうという態度を見いだせないと反発した。真相究明の一環として認めることも拒否した。わずかに、韓国外務省が「日本政府の努力を評価し、受け入れる。我が政府の立場を相当な水準まで反映したもの」という談話を出した。

 これが戦後補償をめぐる日韓の最初の「ねじれ」だったといえるのかもしれない。

アジア女性基金の事業開始にあたり記者会見する(左から)大鷹淑子理事、原文兵衛理事長、衛藤瀋吉副理事長=1996年8月、東京都内

自社さ政権でアジア女性基金へ

 そして、河野談話の翌日、宮沢内閣が総辞職した。総辞職することは元々決まっていたが、自民党単独政権の終わりにぎりぎり駆け込んだ形の談話となった。河野氏が党の新総裁になったので、党内の反対は抑えられた。

 その後、自民・社会・新党さきがけによる「自社さ政権」が成立し、社会党の村山富市委員長が首相となって、「戦後50年問題」の解決を引き受け、慰安婦問題についても政策を考えることになった。

和田「河野談話を経て、朝鮮植民地支配の認識、反省に立って根本的な問題を動かす機会が戦後50年目にしてやっと訪れたと思いました。国会決議を目指しましたが、十分な決議にならず、悩んでいたところに村山談話が出たのです。『わが国は、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました』『痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします』と。ついに植民地支配に対する明確な謝罪が表明されました。ただ、植民地支配がどうして始まったのか、力ずくで併合したという前提部分の認識は含まれていなかったのですが」

 慰安婦問題は、河野談話を受けて、具体的な施策に動く。政府と官僚は、日韓請求権協定で2国間の請求権は「完全かつ最終的に解決済み」だとして、国家が被害者個人に対して補償金を支払うことに最後まで反対した。五十嵐広三官房長官らは自民党のリベラル勢力や社会党、そして市民団体の主張を背景に被害者に渡される政府資金を入れるように工作したが、どうしても壁は破れなかった。

 結局、財団法人をつくり、国民から寄付を募って、それで被害者への償い金を出すという方式が決められ、のちに政府資金での医療福祉援助も行うことが決まった。

和田「このことが伝わると、当然ながら、韓国から強い批判が起こりました。国家と軍が深く関与した慰安婦問題の解決のための『償い金』に政府の金を入れずに、民間募金でまかなう――。これは筋が通らないと反対があったのです。募金だけでは支払いができず、政府資金を入れなければならなくなるのではないかという心配が最初からあったのですから、この構想には元来無理があったものでした」

 それでも国民基金(財団)をつくるにあたり、和田さんは政府から協力を求められ、呼びかけ人になることを承諾した。

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