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「日韓の亀裂の拡大」を和田春樹さんと考える

55年体制の終焉とアジア女性基金

市川速水 朝日新聞編集委員

拡大日朝3党会談に臨む前に握手する(左から)金丸信・自民党元副総理、金日成・北朝鮮主席、田辺誠・社会党副委員長=1990年9月26日、北朝鮮・妙香山

戦後補償をめぐる日韓の最初の「ねじれ」

 この1989年という年は、冷戦の終わり、米ソ和解、東欧社会主義国の崩壊とも重なった。その波は北朝鮮にも及んだ。ソ連東欧諸国が韓国と国交をもつ方向に進み、中国も88年ソウルオリンピックに参加するというなか、北朝鮮は完全に孤立する。ソ連の核の傘がなくなることによって自前の核兵器を持つことまで模索し始めるとともに、日本との国交正常化にも動こうとしていた。

 日本がアジアで唯一、戦後に関係を修復していない北朝鮮との国交正常化は、一部の外務官僚や政治家の一貫した悲願だった。翌90年、自民党の金丸信氏、社会党の田辺誠氏らが自民・社会党合同訪朝団という異例の訪朝団を組み、金日成(キム・イルソン)主席と会談した。そして「三党共同声明」が出されるという前代未聞の出来事が起きた。この共同声明で、日朝国交正常化交渉を始めることがうたわれた。

 また、対米開戦の真珠湾攻撃から50年の1991年12月に向けて「不戦を誓う決議を」という声も出て来た。しかし、与野党がつくる様々な原案には、和田らが求める植民地支配や侵略行為に対する直接的な表現は乏しく、決議は実現しなかった。

和田「そのなかで起きた慰安婦問題こそが、結局のところ、日本の国家と国民を植民地支配の反省と謝罪に向かわせる大きな衝撃となったのです。この問題が90年代以降の最大の政治課題となり、日韓の様々な軋轢を生み、日本国内でも鋭い対立を生み出しました」

 1990年に韓国の教会の女性や学者たちが慰安婦問題を提起し、日本政府に書簡を送った。この人々が挺身隊問題対策協議会(挺対協)という組織をつくる。91年に金学順(キム・ハクスン)氏がこの組織に連絡して、慰安婦として名乗り出た。彼女は日本政府相手に訴訟を提起。翌92年から日韓間の外交問題や戦時下の女性への暴力という問題に発展する。日本政府は韓国側に促され、資料調査、研究を開始した。

拡大戦時中の慰安婦問題について、調査結果の書類を手に記者会見場に入る河野洋平・官房長官=1993年8月4日

 1993年には、慰安婦問題に関する河野洋平・官房長官談話が「お詫びと反省」を表明した。河野談話では、「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、さらに、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」「当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」と表現した。

 日本政府としてぎりぎりの認識を示したとみられるが、この強制性に踏み込んだ談話に関して、韓国の挺対協などは、法的責任をとろうという態度を見いだせないと反発した。真相究明の一環として認めることも拒否した。わずかに、韓国外務省が「日本政府の努力を評価し、受け入れる。我が政府の立場を相当な水準まで反映したもの」という談話を出した。

 これが戦後補償をめぐる日韓の最初の「ねじれ」だったといえるのかもしれない。

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筆者

市川速水

市川速水(いちかわ・はやみ) 朝日新聞編集委員

1960年生まれ。一橋大学法学部卒。東京社会部、香港返還(1997年)時の香港特派員。ソウル支局長時代は北朝鮮の核疑惑をめぐる6者協議を取材。中国総局長(北京)時代には習近平国家主席(当時副主席)と会見。2016年9月から現職。著書に「皇室報道」、対談集「朝日vs.産経 ソウル発」(いずれも朝日新聞社)など。

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