慰安婦問題解決をめぐるリベラル分裂
2019年07月01日
慰安婦問題解決のための「アジア女性基金」は、いま振り返ってみても、ねじれにねじれた、説明のつきにくい組織と事業だった。
これまで『「日韓の亀裂の源流」を和田春樹さんと考える』『「日韓の亀裂の転機」を和田春樹さんと考える』『「日韓の亀裂の拡大」を和田春樹さんと考える』3回にわたって、半世紀にわたる日韓それぞれの市民運動の連携や成果、すれ違いの原因についてたどってきた。
前回に続いて、1990年代、戦後半世紀と歩を合わせるように社会問題化した慰安婦問題とアジア女性基金について、女性基金の呼びかけ人、専務理事として内部で事業を検討し、基金の解散まで深く関わった歴史学者の和田さんにと一緒に振り返る。
アジア女性基金の事業の対象、つまり元慰安婦に対してはまず、時の首相の「お詫びの手紙」が被害者に手渡されることになった。被害者への償い金には公金は入れられないという建前で、国民の募金が集められた。
しかし実際は、医療福祉事業への支援は国家から支出された。さらに、これは被害者個人への現金支給となり、事実上、現金は民間と政府のものが入り交じることになった。
一方で、基金の原文兵衛・初代理事長のころ、橋本龍太郎首相に「募金が支給額に足りない場合は政府が責任を持つのか?」と聞いたところ、橋本首相が「責任は持つ」と言った、という話を原氏が披露したことがある。
和田「当時、被害者や支援団体は、政府の金でないので国の補償とはいえないと基金の創設や運営に反対していました。ふたを開けてみたら、政府の金は出せないと言い張っていた日本政府は、医療福祉事業の名目で政府資金を使って、現金支給することも認めるところまでいったわけです。しかし、最後まで、政府の金と国民募金の金をあわせて、被害者に「償い金」として差し出す形にはできなかった。それができれば、韓国の被害者、団体とも十分に話し合うこともできただろうと思います」
苦し紛れの策が、元慰安婦の救済、償いをあいまいな装いにし、金額だけ増やせばいいだろうと考えているとの印象をつくりだし、被害当事者だけでなく、被害者を支援した人たちまでを迷わせ、反発させたのだった。
板挟みになったのが、和田さんたちだった。
和田さんら、アジア女性基金の内部に入った知識人たちは、「スタートが不十分だとしても、内部から徐々に改良していきたい」という思いがあった。何よりも、直接の被害者が年々老いていくので時間がない。
戦後50年という節目が、偶然か必然か、社会党色の濃い政権になった。これに乗じて、一歩を踏み出す前進の契機を含んでいれば試みるべきだ、と和田さんら「現実派」は考えた。
それが、「公式な謝罪と補償が必要だ」という原則論を大事にする人たちから猛反発を受けることになる。
特に衝撃的だったのは二つ。一つは、同じリベラル勢力から反対の声が上がり、60年代からのリベラル勢力の団結が崩れたことだ。
岩波書店の雑誌「世界」は、アジア女性基金が構想段階の1995年7月、坂本義和・東京大名誉教授、安江良介・岩波書店社長ら105人の声明を発表。「政府が発表した基金のように、本来国家が行うべき補償を民間募金に肩代わりさせるといった、筋を違えた方式では、問題の解決にはなりません」と主張した。
この声明の発起人には、基金の呼びかけ人となる三木睦子・元総理夫人や宮崎勇・大和総研理事長も含まれていた。
三木睦子氏は、三木武夫・元首相夫人という立場以上に、実行力旺盛な活動家で、女性運動、平和運動のシンボルの一人だった。基金側と基金反対側が三木、宮崎両氏を取り合う構図になった。
和田「結局、三木さんは、最終的には、坂本さんら反対派に引っ張られて後に呼びかけ人を辞任することになるわけです。私はそれ以来、安江さんとも話ができなくなって…。坂本さんとは一度話しました。『基金を批判されましたが、政府が考えを変えて、政府資金による補償の道に進むと思いますか?』と質問したら、『そうはならないだろうということはわかっている』と言われたので、重ねて『その時はどうなさるのですか』と伺いました。『そうしたら我々が募金をして、被害者に差し出すしかないだろう』という答えでした。それじゃあ、結局同じことになるのではないか、と思いながら、お別れしたのです。」
アジア女性基金のイメージはさらに悪化していく。
もう一つ、和田さんらを苦しめたのは、基金が始動して最大の目的である韓国人元慰安婦に償い金を支給する段になって、償い金を受け取る少数の元慰安婦と拒否する多数派の慰安婦に分かれたことだった。
さらに金大中政権は、日本政府に慰安婦問題で要求を出すことをしない代わりに、アジア女性基金の事業を受け取らない元慰安婦に約360万円相当の一時金給付を行うと決定した。
韓国内では、日本の基金を受け取った人も、受け取った金を返却するとして運動団体に寄託すれば、韓国政府の一時金を受け取れるという主張がなされ、圧力が強められた。韓国政府は「アジア女性基金を受け取らない」と誓約書を書かせたうえで一時金を支給した。
基金の活動と韓国政府の一時金支給が、韓国の内部で、苦しいカネとカネの争い、元慰安婦同士の分裂を招く結果となった。
和田さんは、この時の韓国の(特に市民団体の)姿勢と日本の選択に大きな隔たりがあったと振り返る。
和田「アジア女性基金は挺対協と対立していましたが、仲介してくださった教会の先生方のお力で、1995年にソウルと東京で二回秘密裡に懇談会をもっとことがあります。韓国側は、慰安婦問題は犯罪にあたると法的解決、法的責任論、法的賠償、責任者処罰を要求しました。私たちは、道義的責任論、「償い」の事業、「償い=atonement=贖罪」の事業を主張しました。韓国側の主張は、さながら戦勝国が敗戦国に要求する、一種の戦争犯罪裁判でなされる主張のようでした。結局わたしたちは折り合えることができませんでした」
アジア女性基金の事業は最終的に、「償い金」が総額5億7000万円、医療・福祉支援事業が5億1000万円。これが被害者個人に向けてなされ、韓国、台湾、フィリピン、オランダの364人が受け取った。うち韓国は60人、台湾は13人、フィリピンは212人が償い金と医療・福祉支援を受け取り、オランダ79人は医療福祉支援のみをうけとった。韓国の60人は登録した慰安婦被害者の3分の1以下だった。
韓国、台湾では、被害当事者の大多数が基金の事業の受け取りを拒否したため、和田さん自身の総括としても、アジア女性基金は「失敗」だったと言わざるを得ない。
和田「最初に募金のよびかけのための新聞広告を載せるために政府の予算1億3000万円を使ってスタートした基金です。被害者がアジアのどこかにいるかぎり、その人々のところに首相の謝罪と償い金をとどける活動をやるべきだったのです。しかし、インドネシアでも、中国でも、北朝鮮でも、マレーシアでも、北カリマンタンでも、まったく事業はできないまま、基金は活動停止に追い込まれてしまいました」
アジア女性基金の活動は2006年まで続き、2007年3月末に解散した。問題は解決していないことはわかっていたが、関係者は力尽きて、続けることはできなかった。あとにはネット上にデジタル記念館「慰安婦問題とアジア女性基金」(日本語・英語版)を残した。
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