星浩(ほし・ひろし) 政治ジャーナリスト
1955年福島県生まれ。79年、東京大学卒、朝日新聞入社。85年から政治部。首相官邸、外務省、自民党などを担当。ワシントン特派員、政治部デスク、オピニオン編集長などを経て特別編集委員。 2004-06年、東京大学大学院特任教授。16年に朝日新聞を退社、TBS系「NEWS23」キャスターを務める。主な著書に『自民党と戦後』『テレビ政治』『官房長官 側近の政治学』など。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
平成政治の興亡 私が見た権力者たち(19)
年が明けて2013年1月、アベノミクスは金融緩和から動き出した。21日、政府と日銀が共同声明を決定。「消費者物価の上昇率2%」を目標とすることを確認した。時期については、安倍首相の側近から「2年以内」を求める意見が出ていたが、日銀側の抵抗もあり、「できるだけ早期に」という表現で落ち着いた。しかし、日銀の白川方明総裁は金融政策の転換を全面的に受け入れることはできなかった。2月5日、白川総裁は首相官邸に安倍首相を訪ね、辞意を伝えた。任期を2カ月ほど残しての退任表明だった。
後継の日銀総裁には、財務省財務官を経てアジア開発銀行総裁を務めていた黒田東彦氏が内定。黒田氏は財務省出身者としては珍しい金融緩和論者として知られていた。人事案は国会で了承され、黒田氏は3月20日に総裁に就任する。
4月4日の記者会見で黒田氏は「2%の物価上昇を2年程度で実現する」と明言。市場に流れるお金を「2倍」にすることも表明し、会見のボードには数字の「2」が並んだ。市場は「黒田バズーカ」ともてはやし、円安が加速、株価は高騰した。アベノミクスの1本目の矢は、華々しく放たれた。
2本目の矢の財政出動も動き出していた。13年1月には緊急経済対策がまとめられ、道路や空港などのインフラ整備を中心に、総額20兆円を計上する方針を打ち出した。13兆円の補正予算案も決まった。「コンクリートから人へ」を掲げ、公共事業の抑制を続けた民主党政権の政策からの大転換だ。
3本目の成長戦略は、1、2本目の矢が景気を下支えするうちに、日本経済の構造改革を進めて成長軌道に乗せようという政策である。しかし、各種の規制緩和は既得権に阻まれ、企業の生産性も伸び悩んだ。政府主導の原発輸出なども頓挫。成長戦略は大きな成果を出せなかった。
株価上昇などによる景気の好転で、安倍内閣の支持率は高水準を維持。迎えた7月の参院選(7月4日公示、7月21日投票)、久しぶりに政権与党として国政選挙に臨んだ自民党は攻勢を強めた。野党の民主党は、野田佳彦首相(党代表)の退陣を受けて、後継の代表に海江田万里氏を選出、幹事長に細野豪志氏を起用して再生をめざしていたが、勢いは戻らず、参院選は守勢に回った。
投票の結果、改選34議席だった自民党は65議席と大躍進。民主党は改選44議席から17議席と激減した。その他は、公明党11議席、みんなの党、共産党、日本維新の会が各8議席など。非改選を含めると、自民党は115議席となり、公明党の20議席と合わせて与党は135議席に達し、参院241議席の過半数(122)を上回って、衆参のねじれは解消した。民主党の海江田代表は惨敗にもかかわらず続投したが、党再建のめどは立たなかった。
衆参両院で与党の過半数を手にした安倍首相は、安全保障法制の整備に乗り出した。まず、政府の憲法解釈を統括する内閣法制局長官人事に着手し、8月8日付で駐フランス大使の小松一郎氏を長官に任命した。小松氏は外務省で条約局長などを歴任。集団的自衛権の行使容認に賛成論を唱えていた。
内閣法制局長官は従来、財務、法務、経産各省などの出身者が就いており、外務省出身者の起用は異例だった。それまで、「集団的自衛権の行使は憲法上認められない」としてきた法制局の見解を改めるための布石だった。
次に安倍首相が手がけたのは、警察官僚が求めていた特定秘密保護法案の制定である。防衛、外交、テロ防止、スパイ活動など「特定有害活動」防止の4分野の情報を「特定秘密」の対象と指定し、漏洩を厳しく取り締まる内容で、10月25日に閣議決定して国会に提出。野党側は「秘密範囲が拡大解釈される恐れがある」などと強く批判したが、自民、公明両党は押し切り、12月6日、参院本会議で可決、成立した。
安倍首相は12月26日、突然、靖国神社に参拝。第2次安倍政権が発足して丸1年が過ぎた節目の日だった。安倍首相は第1次政権の1年間で靖国神社を参拝できなかったことについて「痛恨の極み」と述べており、参拝の機会を探っていた。突然の参拝に中国と韓国は強く反発。日中、日韓関係は冷え込むことになる。