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細川さんを都知事選に駆り立てた3・11後の日本

元参院議員・円より子が見た面白すぎる政治の世界⑮政治から引退したはずが……

円より子 元参議院議員、女性のための政治スクール校長

拡大都知事への立候補を決めた細川護熙元首相(左)。右は会談を終えて、記者の質問に答える小泉純一郎元首相=2014年1月14日、東京都港区

神戸視察の日に起きた阪神大震災

 「平成」という時代は、大きな災害が頻発した時代であった。

拡大阪神大震災で倒壊した高速道路=1995年1月17日
 1995年1月17日の月曜日。私は参議院法務委員会の視察があり、8時42分発の「ひかり83」で東京駅から神戸に行くことになっていた。午前6時に目覚め、ベッド脇のテレビをつけると、何やら様子がおかしい。阪神地方で地震が発生したらしい。それも大ごとのようだ。

 私はすぐ法務委員会の事務担当者と委員長に電話を入れ、「神戸に行くのは無理だから、全員国会に集まったほうがいいのではないか」と言った。ところが、委員長も事務担当者も「とりあえず東京駅に集まり、そこで理事協議をするのが規則だ」という。

 そもそも新幹線は止まっていて、神戸視察が無理なことぐらいすぐにわかる。国会に行って情報収集するほうがずっといいのに、「何と杓子定規な」と思いながら東京駅へ。そこで全員が集合して、「新幹線も航空機も動いていないので、本日の視察は取りやめます」

 「いやあ、一日早く神戸に行っていたら大変だった」という人もいたが、そんなことを言っている場合か! どうやら阪神は大変なことになっているらしい。すぐに国会へと飛んでいった。

 高速道路も大きなビルもぺしゃんこになり、多くの人が地震と火災で命を失った阪神淡路大震災の始まりは、こんな具合だった。

背筋が寒くなった地下鉄サリン事件

 同じ年の3月20日(月)午前8時頃、東京メトロ丸の内線などの車内でサリンがまかれ、駅員や乗客13人が死亡、約6300人が負傷する大惨事が起きた。

 4月14日のこの連載「寂しかった日本新党の解党。私は議員失職の危機?」でも書いたように、当時、私は前年11月に東京高裁が当選無効判決を出したのを受け、最高裁で裁判を闘っている状態だった。平常心で議員活動を続けているつもりだったが、当時の日記を見ると、小学生の娘がしょっちゅう発熱したり、吐いたりを繰り返していた。私自身、極度に緊張していて、娘を見ている余裕がなかったに違いない。その娘が3月25日には小学校の卒業式を迎えることになっていた。

 私が国会議員になって、麹町の宿舎に転居したのが2年前。娘は転校を拒み、赤坂見附駅から表参道まで地下鉄を利用して登下校していた。同じ朝の時間帯の地下鉄。背筋がぞっと寒くなった。

「次の内閣」防災担当大臣だった新潟中越地震

 それから9年後の2004年10月23日(土)、私は民主党の「次の内閣」の防災担当大臣として岡山にいた。台風23号が各地に大きな被害をもたらしていて、そのひとつだった岡山の現場に、お見舞いの視察に行ったのだった。

 記者会見を終え、その日のうちに帰京しようと岡山空港に向かっていたタクシーの中で、新潟方面で大きな地震が発生したことを知った。党本部にすぐさま対策本部立ち上げ指示の電話をし、予定より40分遅れたが、午後8時半に羽田に到着すると、党に直行した。週明けの月曜の朝には新潟中越地震対策本部を開く。

 その後、被災者生活再建支援法の補助金制度を住宅再建に利用できるように改正したほか、党として募金活動をおこない、11月28日には新潟県庁で1000万円の募金を手渡した。

 政治家は、天災であれ、人災であれ、大きな災害が起きたとき、どう対応するかが常に問われていると思う。その点では、与党も野党もない。不意の出来事に、いかに慌てず、しかも遅れず、適切に対処できるか、常日頃から考えておかなければならない。

 そして、民主党による歴史的な政権交代から1年半後の2011年3月11日、あの大地震が東日本を襲ったのである。


筆者

円より子

円より子(まどか・よりこ) 元参議院議員、女性のための政治スクール校長

ジャパンタイムズ編集局勤務後、フリージャ―ナリスト、評論家として著書40冊、テレビ・講演で活躍後、1992年日本新党結党に参加。党則にクオータ制採用。「女性のための政治スクール」設立。現在までに100人近い議員を誕生させている。1993年から2010年まで参議院議員。民主党副代表、財政金融委員長等を歴任。盗聴法強行採決時には史上初3時間のフィリバスターを本会議場で行なった。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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