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私たちの心のかさぶたを剝がす辺野古新基地建設

6月23日の「慰霊の日」に、沖縄の現在地と未来への選択肢を考えたい

松元剛 琉球新報社執行役員・編集局長

慰霊の日1平和の礎を訪れ、戦没した親類を供養する家族=2019年6月23日午前7時50分ごろ、糸満市摩文仁の平和祈念公園(琉球新報提供)

 6月23日、沖縄中が鎮魂に包まれる「慰霊の日」が巡り来た。沖縄戦の組織的戦闘が終結したのは22日だったとの説がほぼ確定的になっているものの、例年通り、戦後74年となる「沖縄全戦没者追悼式」がこの日に糸満市摩文仁で催された。

 早朝から降り続く強い雨の中、糸満市摩文仁の平和祈念公園や、畑や原野に散乱していた無数の遺骨を集めて建立された「魂魄の塔」(こんぱくのとう)=同市米須=に多くの遺族らが訪れ、亡くなった家族らのみ霊を慰めた。

 2019年度に新たに追加された42人を含む、24万1566人の名前が刻銘された「平和の礎」には、傘を差しながら花を手向け、手を合わせる人の姿が目立った。

沖縄のアイデンティティー

 玉城デニー知事は、「沖縄全戦没者追悼式」の平和宣言の一部に、初めて沖縄語(ウチナーグチ)と英語を加え、平和な世界構築の決意を示した。辺野古新基地の埋め立ての是非を問うた2月の県民投票の反対多数の結果を挙げ、知事はこう訴えた。

平和宣言1沖縄全戦没者追悼式で平和宣言を述べる玉城デニー沖縄県知事=2019年6月23日午後0時26分、沖縄県糸満市摩文仁、江口和貴撮影
 「人間が人間でなくなる戦争は二度と起こしてはならない。県民投票の結果を無視して工事を強行する政府の対応は、民主主義の正当な手続きを経て導き出された民意を尊重せず、なおかつ地方自治をもないがしろにするものだ。県民の大多数の民意に寄り添い、辺野古が唯一との固定観念にとらわれず、沖縄県との対話による解決を強く要望する」

 宣言の締めで、知事はこう述べた。

 「幾世(いちぬゆー)までぃん、悲惨(あわり)さる戦争(いくさ)ぬねーらん、心安(くくるや)しく暮らさりーる世界(しけー)んでぃし、皆さに構築(ちゅくてぃ)いかんとーないびらん(いつまでも、平和で安心した世界をみんなで築いていかなければなりません)」

 ウチナーグチを平和宣言に取り入れたことは、沖縄の未来は沖縄が決める自己決定権の発揮を求める県民の思い、アイデンティティーを反映させた意義があろう。

 知事の平和宣言に対し、参列者から随所で「そうだ」という声が上がり、大きな拍手が沸き上がった。安倍晋三首相の式辞に対しては、再三「帰れ」などの厳しいやじと怒号が上がったのとは対照的な光景であった。やじを飛ばすことは、慰霊の場にそぐわない行為という批判もあるが、心の底から沸く県民感情が噴きだしたものであろう。

「構造的差別」が色濃くなった平成時代

 やや沖縄県民には縁遠く感じられたが、元号が平成から令和に代わって初めての鎮魂の日を迎えた沖縄は、来年の戦後75年を見据えつつ、政治、経済、社会の地殻変動が断続的に続いている。

 平成の沖縄は、高校野球の春夏の甲子園で4度の優勝や歌手の安室奈美恵さんの活躍などが県民に自信と勇気をもたらした。その一方、過重な基地の負担はほとんど変わらず、沖縄の民意を一顧だにしない安倍政権によって辺野古新基地建設が強権的に進められている。こうした状況に、県民から「構造的差別だ」との声が上がるようになった。

 新天皇が即位し、令和が始まった5月1日付の琉球新報朝刊の紙面作りに際し、私は、退位と即位一色になる紙面を避け、令和の世を展望する県民の思いがにじむ紙面をつくるよう、編集局員に号令を掛けていた。

 もちろん、トップは「新天皇が即位」の大見出しを張り、改元を報じたが、あらかじめ広告を外してスペースを確保した上で、沖縄の政治、経済、スポーツの各界を代表する人たちに登場してもらい、「沖縄の誇り 未来展望 基地問題、いまだ『宿題』」の3段見出しが付いた記事を腹位置に掲載した。1999年から2期8年間、県知事を務めた稲嶺恵一氏(85)は平成の沖縄を振り返り、「むしろ沖縄の孤立感はひどくなった」としながら、「沖縄が経済的自立を果たせば、政府に対する沖縄の発言権も増す」と語った。

 その傍らには、国籍や敵味方を超え、沖縄戦や南洋群島の戦争で亡くなった人の名を刻む「平和の礎」で、扇状に広がる刻銘板の要の位置にある「平和の火」に手を合わせる子どもの写真を添え、「平和のともしび 絶やすことなく『こころ』摩文仁から発信」の記事が載った。記事は「令和の時代にも摩文仁の地に、県民の心の中に平和の火はともり続ける」と結んでいる。何とか、恒久平和の世が到来することを願う沖縄からのメッセージを宿した紙面が作れたのではないかと自負している。

慰霊の日1平和の礎の「平和の火」に手を合わせる幼児=2019年6月23日午前7時54分、糸満市摩文仁の平和祈念公園(琉球新報提供)

「敵の兵士にも家族がいて悲しむ人がいる」

 今回、論座編集部から「沖縄の現在地と未来への選択肢」という重いテーマをいただいた。3回に分けて、基地の島・OKINAWAの今と未来への展望を記したい。いくつかの私事を交えることをお許し願いたい。

松元剛さん1佐賀市で講演する松元剛さん=2015年9月5日、佐賀市のアバンセ
 私は1989年(平成元年)に琉球新報に入社した。その前年の88年夏、入社試験の10日前に72歳で父が逝った。大正5年生まれ。空手で鍛え上げ、70歳近くになっても「指立て伏せ」が二桁できるほど頑健だった。生きていれば103歳になる父が、南洋群島での戦火を生き抜いていなければ、私は生を受けていない。

 父にとって第2の家庭に生まれた私は沖縄の施政権が返還された1972年に小学校に入学した。ぜんそく持ちで、あと数日欠席すると進級できないほど体が弱かった。家に寄る父がキャッチボールの相手をしてくれたり、相撲を取ったりしてくれて、少しずつ体が強くなった。小学5年生の慰霊の日の直前、怒られたことがなかった父の逆鱗(げきりん)に触れた。射すくめるような視線を受けて私は泣きべそをかきながら、話を聞かされた。

 テレビの戦争映画を欠かさず見ていた私は、小遣いのほとんどを充ててゼロ戦や戦車のプラモデルを買ってばかりいた。沖縄全戦没者追悼式が執り行われる慰霊の日が近付く6月の暑い日、模型作りに夢中になっていた私に父が怒声を浴びせた。

 「戦争はどんなに大変か、映画の中で撃たれて死ぬ敵の兵士にも家族がいて、悲しむ人がいることが分かるか」

 動揺する私に顔を紅潮させた父が戦争体験を語り始めた。初めてのことだった。

機銃掃射で打ち抜かれたのは右ひじだけではなかった

 働きながら東京の夜間大学を出た後、父は沖縄出身の友人に誘われ、南洋群島のパラオ島に渡り、かつお節製造会社などに勤めた。1944年に現地で召集された。パラオ諸島を含む南洋群島には、戦前、戦中を通して日本の統治下にあり、多くの日本人が移り住んだ。

 「沖縄県史 移民」によると、昭和12年(1937年)のパラオの日本人在留者は約1万1千人で、その4割強をウチナーンチュ(沖縄県出身者)が占めていた。太平洋戦争中、パラオに住む日本人男性の多くが現地日本軍の召集を受けた。「沖縄県史資料編」によると、沖縄出身者3059人が徴兵され、そのうち664人が戦死した。

 沖縄出身の親しい友人たちとペリリュー島の守備隊に赴くはずだった父は、部隊の集合時間に遅れた。「たるんでいる」と怒る上官から軍靴で殴られ、顔が血みどろになる制裁を受けた。ペリリュー島に渡ることはかなわず、衛生兵としてパラオに残された。

 1944年夏から秋にかけて、米軍が上陸せず、地上戦がなかったパラオでも日に日に米軍機による空襲が激しくなった。父は両手で2人の傷病兵を支えて移動中、米軍機の機銃掃射に遭った。父の右ひじを切り裂いた機銃弾が一緒に付せた兵士の背中に命中し、その兵士は血しぶきを上げてすぐに息絶えた。

 「20、30センチずれていれば、父さんが死んでいた。今もすまない思いでいっぱいだ」

 ペリリュー島での2カ月に及ぶ激戦の末、日本軍の守備隊は玉砕し、親しい友人たちは一人も戻らなかった。

 このペリリュー島の闘いは、沖縄戦にも影響を与えた。ペリリュー島を攻める米海兵隊の司令官は「3、4日で戦闘は終わる」と豪語していたが、固い地盤の洞窟陣地などを活用した日本守備軍1万人余の組織的な持久ゲリラ戦術は大いに米軍を苦しめた。海兵隊の精鋭部隊をもってしても戦闘を終わらせることができず、陸軍に取って代わられるという屈辱を受けた。

 父からは、沖縄戦で父方の親類が犠牲になったことも詳しく聞かされた。

 「一緒に死ぬはずだった友を慰める責任がある」と言って、南洋群島の墓参団に毎年参加していた父は、この日を境に、こう私を諭すようになった。

 「どんなことがあっても戦争だけはするな」

 「新聞を毎日読みなさい。戦争で何が起きたか、沖縄で何が起きているかを学んで、自分の意見を持ちなさい」

沖縄を「同胞扱いしない」国の姿

 戦後74年を迎え、沖縄戦や南洋群島での戦火をくぐり抜けた戦争体験者は減り続け、県人口の約1割になった。体験を聞くことによる沖縄戦の継承は難しくなり、大きな課題となっている。凄惨(せいさん)な地上戦が繰り広げられた沖縄戦体験者の4割は心的外傷を持つとされる。その傷口に塩を塗り込むように、今も米軍機が爆音をまき散らし、民意に反して名護市辺野古への新基地建設が強行されている。

辺野古1辺野古沿岸部で進む埋め立て工事=2019年6月13日午後0時59分、沖縄県名護市、日吉健吾撮影

 沖縄を「同胞扱いしない」国の姿を感じ取り、悲惨な経験を語り始めた沖縄戦体験者が増え続けている。自らの意思で沖縄のありようを決めることができない負の歴史を終わらせ、子や孫の世代に戦争につながる基地負担を背負わせたくないという意思をもつ人たちだ。沖縄戦と米軍統治の苦難の戦後を縦糸に、新たな基地を強要する為政者への反発を横糸にした新基地ノーの重層的な民意が強まっている。沖縄戦と今に続く米軍基地の重圧はまぎれもなく、地続きの問題である。

 沖縄戦の記録映像の中でも、最も印象的な映像の一つに登場する幼子が、戦後74年の歳月を経て、初めて戦争の恐怖を証言した。

 今年の慰霊の日当日、23日付琉球新報は1面トップで、米軍が撮影した沖縄戦の記録映像の中で最も印象深く、沖縄戦を振り返る報道でも頻繁に用いられている「震える少女」について、「これは私だ」と名乗り出た女性を特報した。

琉球新報1面米軍が撮影した「震える少女」は「自分だ」と名乗り出た浦崎さんの記事をトップに据えた琉球新報6月23日付1面(琉球新報提供)
 浦崎(旧姓・賀数)末子さん(81)=那覇市小禄=がその人だ。45年6月下旬ごろ、糸満市(当時は高嶺村)大里の農道で、2人組の米兵にカメラを向けられた。当時7歳だった浦崎さんは「初めて見るアメリカー(米国人)の青い目が怖くてぶるぶる震えた」と証言した。15歳上の姉と一緒に避難場所を探している途中だった、という。浦崎さんの脳裏には、今も砲弾が飛び交う戦場を逃げ惑ったつらい記憶が消えない。2年前、知人が持ってきた映像の静止画像を見て鮮明な記憶がよみがえり、着物の柄を見て「自分だ」と確信したという。

 映像が撮影された後、浦崎さんは、本島中部の越来村(現・沖縄市)にあった米軍の収容所に姉とともに収容された。母と弟にも再会したが、弟は避難先の自然壕(ごう)で受けた催涙弾の影響でその後、亡くなった。防衛隊に召集された父と兄、さらに戦時中に受けた傷が原因で姉も亡くした。

 不戦を願う浦崎さんはこう証言を締めくくった。

 「弟は病床で『おー、おー、おー』とうなって死んでいった。戦争は本当に恐ろしい。またんあてーならん(二度と起こしてはならない)」

慰霊の日1ぐずつく天気の中、早朝から魂魄の塔に手を合わせる人たち=2019年6月23日午前7時30分、糸満市米須(琉球新報提供)

家族連れで辺野古の浜を訪れる人が増えている

 私はここ十数年間、1月1日の早朝、米軍普天間飛行場の移設を伴う名護市辺野古への新基地建設現場に近い名護市辺野古の浜を訪ねるようにしている。県内全域から数百人の市民が夜明け前から訪れ、初日の出を見ながら、目の前の海に新たな基地を造らせてはならないという思いを共有する場になっている。毎年のように、本土から訪れる人たちもいる。

辺野古1土砂投入から14日で半年となる辺野古沿岸部の埋め立て工事現場=2019年6月13日午前9時57分、沖縄県名護市、朝日新聞社ヘリから、堀英治撮影

 2013年末、当時の仲井眞弘多知事が、政府の埋め立て計画を承認して以来、それに抗うように家族連れで辺野古の浜を訪れる人たちが増えている。沖縄で基地報道に携わる者として、民意の重さを肌で感じる大切な時間である。毎年、孫を連れた老夫婦、生まれて間もない赤ちゃんを抱く若い夫婦がいて、できるだけ、話を聞くようにしているが、ほぼ共通しているのは、「子や孫のために、新たな基地を造らせてはならない」という言葉だ。

地上戦は壮絶な選択を一人一人に迫った

 辺野古の浜を後にすると、向かう場所がある。それは沖縄本島中部の読谷村の海岸沿いに建つ歌碑である。

 今なお続く米軍基地の重圧、それに抗う沖縄社会の闘いの原点は「ありったけの地獄を集めた」と形容される沖縄戦にある。

 1945年4月、米軍が沖縄本島に上陸した読谷村楚辺。サンゴ礁と白い砂浜がコントラストを描く沖縄の原風景を残し、東シナ海の水平線が一望できる景勝地・ユウバンタがある。風光明媚(めいび)な広場に「艦砲ぬ喰(く)ぇー残(ぬく)さー」の歌碑が建つ。近くには在沖米陸軍基地「トリイステーション」が広がり、歌碑からも目に入る。

 沖縄戦体験者の平和への願いを込めた「艦砲ぬ―」は4人姉妹(艶子、綾子、千津子、慶子)の「でいご娘」が歌う。その父で楚辺出身の比嘉恒敏さんが、戦争に喰われ損なった自らの実体験をもとに、魂の奥底から沸く感情をつづり、作詞作曲した。沖縄戦後史を彩る名曲は、慰霊の日が近づくと、地域の慰霊祭や個人が集まる場でも歌われる。沖縄を代表する「反戦歌」である。

 沖縄に配置された第32軍(琉球新報は沖縄守備軍の呼称をやめた)は、本土防衛のための時間稼ぎのため、ペリリュー島の戦闘で効果を上げた出血持久戦を選択し、多くの住民を沖縄本島の南に逃れる軍と行動を共にするよう仕向けた。県民に「軍官民共生共死の一体化」を強いた「捨て石作戦」の下、米軍との激しい地上戦による県民の死者は約12万2千人(軍人軍属含む)に上り、ほぼ4人に1人が亡くなった。家族を全て失った人、死が迫る激戦地に深手を負った家族や友人を置き去りにした人、日本兵に命じられて漆黒の闇に包まれた壕で赤ん坊の口をふさいで絶命させた母親―。極限状態の地上戦は壮絶な選択を一人一人に迫った。

 「艦砲ぬ―」の歌詞は、猛烈な米軍の砲撃からかろうじて生き残った感慨と死にそびれた自責の念が交錯する。農地を米軍基地に接収されて困り果て、生活物資を得るために忍び込んだ基地内で捕まり、米兵に殴られてしまう嘆き節も響く。終戦後の苦難と米軍統治に翻弄(ほんろう)された民衆の姿が描かれ、家族を亡くした記憶にとらわれた遺族の心情とともに哀感漂うリズムに乗せる。インターネット上で鑑賞できるので、ぜひ味わってほしいと思う。

慰霊の日1納骨堂を訪れ、線香をあげ語りかける遺族=2019年6月23日午前9時10分、糸満市摩文仁の沖縄師範健児之塔近くの壕(琉球新報提供)

民謡「艦砲ぬ喰ぇ残くさー」に込められた決意

 読谷村楚辺出身で、戦時中、大阪に出稼ぎしていた比嘉さんは、米軍の潜水艦に撃沈された学童疎開船対馬丸に乗った両親と長男を失い、大阪では空襲の直撃弾を受け、目の前で妻と次男が防空壕ごと押しつぶされ、亡くなった。戦後、比嘉さんは故郷の読谷に戻って再婚し、でいご娘の4人を含む7人の子宝に恵まれ、ようやく穏やかな生活を取り戻した。村芝居の地謡を担い、地域の祝いの席には三線を手に駆け付け、家族で盛り上げたという。姉妹4人組の「でいご娘」は父・恒敏さんの情熱と厳しいけいこで、1962年に誕生した。民謡ブームに乗って人気を博し、「でいご娘」は、本島全域、宮古、八重山、奄美群島にも公演に出掛けた。

 比嘉家を悲劇が襲ったのは、1973年10月10日、体育の日の夜だった。那覇市であった結婚披露宴の余興に出演した帰り、宜野湾市の国道58号で、家族が乗り込んだ車2台のうち、恒敏さんと妻シゲさんが乗った1台に、飲酒した米兵が運転する車が激突した。午後10時すぎに起きた事故でシゲさんは即死し、恒敏さんは子どもたちを気遣いながら、4日後に亡くなった。56歳だった。車がひしゃげ、原形をとどめないほど衝撃が大きかった重大事故をきっかけに、沖縄本島の南北を結ぶ幹線道路の国道58号に中央分離帯ができた。

 あまりにも理不尽に両親を失った「でいご娘」は、一時活動を休止する。4人で話し合い、それぞれの人生を歩もうと決めた。しかし、失意にもがく姉妹を癒やし、奮起のエネルギーとなったのは、両親と奏でた民謡だった。4人娘は自然と集まるようになり、父・恒敏さんが残した1曲だけでもレコードに残したいと考えた。75年6月、シングルレコード「艦砲ぬ喰え残くさー」がリリースされると、大ヒットした。「でいご娘」は再出発を果たした。「艦砲ぬ喰ぇ残くさー」という言葉が社会現象になるほどだった。戦後30年目にして愛唱される「反戦歌」が産声を上げた。

 「艦砲ぬ―」の最後は、平和を継承する決意を込めている。

 「恨でぃん悔やでぃん 飽きじゃらん 子孫末代 遺言さな(戦争をいくら恨んでも悔やんでも足らない。子々孫々まで語り伝えねば)」

日常的な基地の重圧感で心の傷口が瞬時に開く

 米国の戦争に付き従う回路を開く集団的自衛権の行使が容認され、住民を守る「防衛」ではなく、敵に奪われることを前提にした「離島奪還訓練」の頻度が増している。いずれも安倍政権下で進む動きだ。さらに、沖縄の民意を組み敷いて、辺野古への新基地建設に向けた埋め立てが強行されている。

普天間飛行場オスプレイが駐機場に並ぶ米軍普天間飛行場=2018年12月7日、沖縄県宜野湾市

 沖縄戦体験者の約4割が心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症しているか、発症間際の心の傷にさいなまれている。専門家によると、米兵事件・事故や防ぎようがない米軍機の爆音など、日常的な基地の重圧感によって戦争の記憶が揺さぶられ、心の傷口が瞬時に開くのだという。

 辺野古新基地建設は、沖縄戦体験者の心の心のかさぶたを剝がし、痛みを負わせる最たる要因だろう。

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