私たちの心のかさぶたを剝がす辺野古新基地建設
6月23日の「慰霊の日」に、沖縄の現在地と未来への選択肢を考えたい
松元剛 琉球新報社執行役員・編集局長
「敵の兵士にも家族がいて悲しむ人がいる」
今回、論座編集部から「沖縄の現在地と未来への選択肢」という重いテーマをいただいた。3回に分けて、基地の島・OKINAWAの今と未来への展望を記したい。いくつかの私事を交えることをお許し願いたい。

佐賀市で講演する松元剛さん=2015年9月5日、佐賀市のアバンセ
私は1989年(平成元年)に琉球新報に入社した。その前年の88年夏、入社試験の10日前に72歳で父が逝った。大正5年生まれ。空手で鍛え上げ、70歳近くになっても「指立て伏せ」が二桁できるほど頑健だった。生きていれば103歳になる父が、南洋群島での戦火を生き抜いていなければ、私は生を受けていない。
父にとって第2の家庭に生まれた私は沖縄の施政権が返還された1972年に小学校に入学した。ぜんそく持ちで、あと数日欠席すると進級できないほど体が弱かった。家に寄る父がキャッチボールの相手をしてくれたり、相撲を取ったりしてくれて、少しずつ体が強くなった。小学5年生の慰霊の日の直前、怒られたことがなかった父の逆鱗(げきりん)に触れた。射すくめるような視線を受けて私は泣きべそをかきながら、話を聞かされた。
テレビの戦争映画を欠かさず見ていた私は、小遣いのほとんどを充ててゼロ戦や戦車のプラモデルを買ってばかりいた。沖縄全戦没者追悼式が執り行われる慰霊の日が近付く6月の暑い日、模型作りに夢中になっていた私に父が怒声を浴びせた。
「戦争はどんなに大変か、映画の中で撃たれて死ぬ敵の兵士にも家族がいて、悲しむ人がいることが分かるか」
動揺する私に顔を紅潮させた父が戦争体験を語り始めた。初めてのことだった。
機銃掃射で打ち抜かれたのは右ひじだけではなかった
働きながら東京の夜間大学を出た後、父は沖縄出身の友人に誘われ、南洋群島のパラオ島に渡り、かつお節製造会社などに勤めた。1944年に現地で召集された。パラオ諸島を含む南洋群島には、戦前、戦中を通して日本の統治下にあり、多くの日本人が移り住んだ。
「沖縄県史 移民」によると、昭和12年(1937年)のパラオの日本人在留者は約1万1千人で、その4割強をウチナーンチュ(沖縄県出身者)が占めていた。太平洋戦争中、パラオに住む日本人男性の多くが現地日本軍の召集を受けた。「沖縄県史資料編」によると、沖縄出身者3059人が徴兵され、そのうち664人が戦死した。
沖縄出身の親しい友人たちとペリリュー島の守備隊に赴くはずだった父は、部隊の集合時間に遅れた。「たるんでいる」と怒る上官から軍靴で殴られ、顔が血みどろになる制裁を受けた。ペリリュー島に渡ることはかなわず、衛生兵としてパラオに残された。
1944年夏から秋にかけて、米軍が上陸せず、地上戦がなかったパラオでも日に日に米軍機による空襲が激しくなった。父は両手で2人の傷病兵を支えて移動中、米軍機の機銃掃射に遭った。父の右ひじを切り裂いた機銃弾が一緒に付せた兵士の背中に命中し、その兵士は血しぶきを上げてすぐに息絶えた。
「20、30センチずれていれば、父さんが死んでいた。今もすまない思いでいっぱいだ」
ペリリュー島での2カ月に及ぶ激戦の末、日本軍の守備隊は玉砕し、親しい友人たちは一人も戻らなかった。
このペリリュー島の闘いは、沖縄戦にも影響を与えた。ペリリュー島を攻める米海兵隊の司令官は「3、4日で戦闘は終わる」と豪語していたが、固い地盤の洞窟陣地などを活用した日本守備軍1万人余の組織的な持久ゲリラ戦術は大いに米軍を苦しめた。海兵隊の精鋭部隊をもってしても戦闘を終わらせることができず、陸軍に取って代わられるという屈辱を受けた。
父からは、沖縄戦で父方の親類が犠牲になったことも詳しく聞かされた。
「一緒に死ぬはずだった友を慰める責任がある」と言って、南洋群島の墓参団に毎年参加していた父は、この日を境に、こう私を諭すようになった。
「どんなことがあっても戦争だけはするな」
「新聞を毎日読みなさい。戦争で何が起きたか、沖縄で何が起きているかを学んで、自分の意見を持ちなさい」