大坂なおみの父の故郷ハイチで25年見てきたこと
「農業技術を全土に伝えたい」と言った男は、後にアルコール依存になり家族を失った
小澤幸子 NGOハイチ友の会代表 医師
女子テニスの大坂なおみは、ウインブルドン選手権の初戦で苦杯を嘗めさせられた。全米オープンに向け、どう立て直すのが注目される。日本では、「日本人選手」として注目され、人柄に親しみを感じる人が多い彼女だが、彼女のルーツは、日本人の母とハイチ人の父にある。医師の小澤幸子さんが初めてハイチに降り立ったのは、彼女がグランドスラム初制覇をした年齢と同じ20歳だった。それから25年間、支援活動を続ける小澤さんの寄稿を通じて、「もう一つの祖国への支援の理想と現実」を考えてみたい。(論座編集部)
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ハイチの家並み= Sylvie Corriveau/Shutterstock
空港に着くなり私の荷物を巡って殴り合いが始まった
600人を超える死者を出し、前夜まで猛威をふるっていたという暴風雨がまるでうそのようによく晴れた日のことだった。
1994年11月のハイチ共和国。

1994年11月、ハイチ国際空港に初めて降り立った小澤幸子さん(左から2番目)。この後、到着ロビーでバックパックを奪われる=小澤さん提供
南国特有の強い日差しの中、私は緊急援助を行う学生ボランティアの一員として初めてハイチを訪れた。現地の非営利団体の活動を見学し、日本からの協力を検討するのがその目的だった。はるばる数千キロを旅してたどり着いたという感慨にふけるまもなく、私は同行した十数名の日本人の一行からはぐれ、到着ロビーを取り囲む人の波にのまれていた。私は当時、大学2年生だった。
「まずい」
そう思った次の瞬間、屈強な体つきの男たちに取り囲まれてしまった。そして私の荷物を取り合って猛烈な殴り合いが始まった。その迫力に圧倒されている間に荷物は他の誰かに持ち去られてしまった。
「どうしよう。1日目にしてすべてを失うなんて」
泣きそうになりながら、それでも必死で人混みをかき分けて追いかけると、その先には同行者たちとさっきの男と、私の荷物が待っていた。
この尋常でない人だかりは失業者の群で、やり方は乱暴だが、こうして旅行者の荷物を運ぶことで日銭を稼ごうとしていると気がつくのに、そう時間はかからなかった。
荷物が戻ってよかったと思うと同時に「盗まれた」と思った私の心の貧しさが恥ずかしくてうつむくばかりだった。そんな私を取り囲む人の中には、本来ならば学校に通うべき幼い子供たちも数多くいた。このような光景は、いわゆる開発途上国といわれる国ではありふれたことなのだろう。しかしこの出来事は失業率70%以上、1人あたりの年間国民総生産が270ドル(1994年当時)という、ハイチの悲惨な状況を示す数値とともに私の心から離れなかった。
「かわいそう」なんて言わせないパワーに満ちていた
カリブ海に浮かぶ島国、ハイチ共和国。この国が1804年に世界初の黒人による共和国としてフランスから独立し、ラテンアメリカ初の独立国であることを知る人はあまり多くない。このような輝かしい歴史とは裏腹に、その後のハイチは外国の占領と内乱を繰り返してきた。私がハイチを訪ねたのは、3年半にわたる軍事政権が倒れ、民主政権が復帰した直後のことで、国中が民主化に取り組もうという機運に満ちていた。

2004年4月、雨上がりの朝のポルターレオガン。首都から地方へ向かうバスの発着所でもある=小澤幸子さん提供
しかし、混乱の時代の痕跡は至るところにはっきりと残っていた。「西半球最貧国」と言われる状況は改善の見通しが立たず、環境問題も深刻で、その昔、緑深かった山々は乱伐によりはげ山となり、雨の度に土砂は海へと流出して土地は痩せていくばかり。土砂崩れによる災害で尊い人命が失われることも珍しくなかった。そしてかつては観光客でにぎわったという海は荒れ果て、魚もすめなくなっていた。また、都市機能がまひした町には汚水があふれ、最悪の衛生状態は多くの熱帯病の流行を引き起こしていた。しかしこうした状況は、日本にはほとんど伝えられていなかった。
そのようなハイチを訪れてもっとも印象的だったのは、ハイチの人々が強く働く意志を持っていることだった。冒頭で書いた空港の場面に限らず、いろいろな場所で感じられた。大人も子どもも、貧しいけれど誇り高く、したたかでしぶとくて、間違っても私に「かわいそう」なんて言わせないパワーに満ちていた。それに彼らは苦しい状況の中でも、うらやましいほどのおおらかさと、弱者に対するいたわりを忘れていなかった。そんな彼らに接して、私の気持ちは大きく揺すぶられた。