「農業技術を全土に伝えたい」と言った男は、後にアルコール依存になり家族を失った
2019年07月02日
女子テニスの大坂なおみは、ウインブルドン選手権の初戦で苦杯を嘗めさせられた。全米オープンに向け、どう立て直すのが注目される。日本では、「日本人選手」として注目され、人柄に親しみを感じる人が多い彼女だが、彼女のルーツは、日本人の母とハイチ人の父にある。医師の小澤幸子さんが初めてハイチに降り立ったのは、彼女がグランドスラム初制覇をした年齢と同じ20歳だった。それから25年間、支援活動を続ける小澤さんの寄稿を通じて、「もう一つの祖国への支援の理想と現実」を考えてみたい。(論座編集部)
前回の記事「大坂なおみ? 父の祖国ハイチで聞いた意外な反応」
600人を超える死者を出し、前夜まで猛威をふるっていたという暴風雨がまるでうそのようによく晴れた日のことだった。
1994年11月のハイチ共和国。
南国特有の強い日差しの中、私は緊急援助を行う学生ボランティアの一員として初めてハイチを訪れた。現地の非営利団体の活動を見学し、日本からの協力を検討するのがその目的だった。はるばる数千キロを旅してたどり着いたという感慨にふけるまもなく、私は同行した十数名の日本人の一行からはぐれ、到着ロビーを取り囲む人の波にのまれていた。私は当時、大学2年生だった。
「まずい」
そう思った次の瞬間、屈強な体つきの男たちに取り囲まれてしまった。そして私の荷物を取り合って猛烈な殴り合いが始まった。その迫力に圧倒されている間に荷物は他の誰かに持ち去られてしまった。
「どうしよう。1日目にしてすべてを失うなんて」
泣きそうになりながら、それでも必死で人混みをかき分けて追いかけると、その先には同行者たちとさっきの男と、私の荷物が待っていた。
この尋常でない人だかりは失業者の群で、やり方は乱暴だが、こうして旅行者の荷物を運ぶことで日銭を稼ごうとしていると気がつくのに、そう時間はかからなかった。
荷物が戻ってよかったと思うと同時に「盗まれた」と思った私の心の貧しさが恥ずかしくてうつむくばかりだった。そんな私を取り囲む人の中には、本来ならば学校に通うべき幼い子供たちも数多くいた。このような光景は、いわゆる開発途上国といわれる国ではありふれたことなのだろう。しかしこの出来事は失業率70%以上、1人あたりの年間国民総生産が270ドル(1994年当時)という、ハイチの悲惨な状況を示す数値とともに私の心から離れなかった。
カリブ海に浮かぶ島国、ハイチ共和国。この国が1804年に世界初の黒人による共和国としてフランスから独立し、ラテンアメリカ初の独立国であることを知る人はあまり多くない。このような輝かしい歴史とは裏腹に、その後のハイチは外国の占領と内乱を繰り返してきた。私がハイチを訪ねたのは、3年半にわたる軍事政権が倒れ、民主政権が復帰した直後のことで、国中が民主化に取り組もうという機運に満ちていた。
しかし、混乱の時代の痕跡は至るところにはっきりと残っていた。「西半球最貧国」と言われる状況は改善の見通しが立たず、環境問題も深刻で、その昔、緑深かった山々は乱伐によりはげ山となり、雨の度に土砂は海へと流出して土地は痩せていくばかり。土砂崩れによる災害で尊い人命が失われることも珍しくなかった。そしてかつては観光客でにぎわったという海は荒れ果て、魚もすめなくなっていた。また、都市機能がまひした町には汚水があふれ、最悪の衛生状態は多くの熱帯病の流行を引き起こしていた。しかしこうした状況は、日本にはほとんど伝えられていなかった。
そのようなハイチを訪れてもっとも印象的だったのは、ハイチの人々が強く働く意志を持っていることだった。冒頭で書いた空港の場面に限らず、いろいろな場所で感じられた。大人も子どもも、貧しいけれど誇り高く、したたかでしぶとくて、間違っても私に「かわいそう」なんて言わせないパワーに満ちていた。それに彼らは苦しい状況の中でも、うらやましいほどのおおらかさと、弱者に対するいたわりを忘れていなかった。そんな彼らに接して、私の気持ちは大きく揺すぶられた。
そこで1995年3月、私はともにハイチに向かった友人と2人で、雇用機会の創出と子どもたちの教育環境の整備を目指す非営利組織、「ハイチ友の会」を設立して支援活動を始めた。
支援活動は手探りだったが、ハイチ絵画を使ったチャリティー絵はがきを作製・販売し、収益でハイチの職業訓練校で使う中古の足踏みミシン204台を購入したのが最初の成果だった。小学校の図書室や給食室を整備したり、2001年には経済的な事情で学校に通えない子どもたちの就学を支援する里親支援制度を立ち上げたりした。
しかし、私はある種の物足りなさを感じていた。それはカトリック系修道会を通じた「私たちのしたいこと」がメインの活動であって、ハイチの一般市民の主体性を引き出すような活動には程遠かったから。彼らと対等な関係を結びたいと願って命名した『友の会』の趣旨はどこに行ったのだという焦りもあった。
私たちの転機になったのは、ローカルNGOのGEDDH(Groupe Ecologique pour un Developpement Durable en Haiti:通称ジェド)との出会いだった。
私のロールモデルにハイチのマザーテレサと多くの人に慕われた、結核の専門医であり、修道女でもある須藤昭子さんがいる。シスター須藤はこれからのハイチを支えるのは農業と考え、80歳を過ぎて日本の有機農法を学んだ。そしてハイチのレオガン市近郊で有機農法のワークショップを開催し、その参加者が中心となって2004年、環境保護団体GEDDHを立ち上げた。
なかでもその後の活動の中心を担うことになる男性は意欲が高く、シスター須藤に見込まれて、日本で3カ月間、有機農法の研修を受けた。竹炭や木酢液の製造と利用法についてマスターした彼は、情熱を込めてこう語っていた。
「仲間たちにそれを伝え、この素晴らしい農業技術をハイチ全土に伝えたい」
自分たちで作った木酢液を、自分たちで買い取って活動資金を捻出する姿勢をみて、ハイチ滞在歴の長いシスター須藤が、「こんなにまじめなハイチ人たちは初めて」と言いながら私たちにGEDDHを紹介してくれた。
ハイチ友の会とGEDDHは、手を携えて貧しい山村の農村開発に乗り出した。はげ山の植林活動や養豚、収量が多く味の良い作物を作るための接ぎ木の手法を広めるなど、彼らのアイデアを多く採り入れた活動に取り組んだ。
GEDDHは、ハイチを自然環境の改善と農業の発展で復興するという目的のために、数十万円と予算規模は小さくても、着実な活動を展開し、地域住民の信頼を獲得していった。ただ、GEDDHには大きな弱点があった。組織を運営する上での事務作業や会計知識がほとんどなかった。彼らにとって会計管理とは、極端に言えば、何か購入した際には領収書をもらってくる、ただそれだけのことだったのである。
そして2010年1月12日、ハイチ大地震が発生した。
ブロックを積み上げただけの脆弱な建物は、マグニチュード7.0の揺れによって一瞬にして崩壊し、首都ポルトープランスを中心に、死者約31万人を含めた被災者は約370万人(ハイチ政府発表)という甚大な被害を及ぼした。
私たちはGEDDHのメンバーの安否が確認できると、すぐさま彼らを通じて支援のニーズを探った。まずは安全な居場所の確保が最優先と判断し、義援金約655万円を投入し、ドミニカ共和国で3人用テント550張を調達し、GEDDHを通じてレオガン近郊の農民に配布する緊急支援を実施した。次に2010年8月から翌年3月まで、短期駐在員を派遣し、義援金約470万円を使って地震で損壊した灌漑(かんがい)用水路の修復に取り組んだ。
大地震の前、ハイチ支援に取り組む日本のNGOは3団体だけだった。
しかし、大地震が発生し、日本だけでなく世界中から多くの緊急支援団体がハイチに殺到した。そのためプロジェクト対象地がNGOの間で取り合いになることもしばしばだった。しかも緊急支援団体はその名の通り、緊急支援のみが目的であり、3年とか5年の区切りで現地から去っていく。すべての団体がそうとは限らないが、緊急支援として集めた義援金を、なるべく早く使い切りたい、できれば寄付者が喜んで納得するようなわかりやすい形で、ということになりがちだ。
そこで後を託せそうな現地のローカルNGOが引っ張りだこになるわけである。中にはローカルNGOの実力を過大評価してしまう団体もあった。急に大金を握らされ、混乱したローカルNGOによって、本当に必要があるのかわからない箱もの支援が量産されていくのを私たちは目の当たりにした。
なんとなく釈然としない気持ちでいたが、私たちは自分たちの正しいと信じるやり方で、大地震から何年経とうとも、ハイチと付き合っていくだけだと考えていた。しかし、GEDDHとの関係がぎくしゃくし始めた。
以前はきちんとしていた領収書の管理がずさんになり、足りない分を追及すると、領収書をまとめておいたファイルが車ごと盗まれて紛失したと苦しい言い訳をするようになった。
ハリケーンで再度壊れた水路を修復する必要が生じた際、予算書を出すように依頼すると、仲間内の技術者に見積もりを依頼し、以前の4.8倍もの予算が提示された。内訳をみると、ハイチでは15%が相場(日本では3~5%)であるにもかかわらず、予算総額の25%もの設計費が要求されていた。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください