大坂なおみの父の故郷ハイチで25年見てきたこと
「農業技術を全土に伝えたい」と言った男は、後にアルコール依存になり家族を失った
小澤幸子 NGOハイチ友の会代表 医師
義援金による「緊急支援」で起きた援助慣れ
そして2010年1月12日、ハイチ大地震が発生した。
ブロックを積み上げただけの脆弱な建物は、マグニチュード7.0の揺れによって一瞬にして崩壊し、首都ポルトープランスを中心に、死者約31万人を含めた被災者は約370万人(ハイチ政府発表)という甚大な被害を及ぼした。

2010年4月、大地震後にできたテント村=小澤幸子さん提供
私たちはGEDDHのメンバーの安否が確認できると、すぐさま彼らを通じて支援のニーズを探った。まずは安全な居場所の確保が最優先と判断し、義援金約655万円を投入し、ドミニカ共和国で3人用テント550張を調達し、GEDDHを通じてレオガン近郊の農民に配布する緊急支援を実施した。次に2010年8月から翌年3月まで、短期駐在員を派遣し、義援金約470万円を使って地震で損壊した灌漑(かんがい)用水路の修復に取り組んだ。

2010年3月、レオガン市近郊の農民に配布された3人用テント=小澤幸子さん提供
ハイチでは震災の前から政府が機能不全を起こしており、国からの技術支援や灌漑整備など一切受けることができないため、すべて自分たちの力で何とかするしかない状況だった。それは農業用水の確保はもちろん、2500世帯12500人の生活用水を供給するもので、今でも現地では
ハイチ友の会といえば、水路の修復に貢献した団体と認識されているほどインパクトのある活動だった。GEDDHがリーダーシップを発揮しながら、地域住民がボランティアで労働力を提供し、住民が本当に望むことを、少しずつ着実に達成していった。
大地震の前、ハイチ支援に取り組む日本のNGOは3団体だけだった。
しかし、大地震が発生し、日本だけでなく世界中から多くの緊急支援団体がハイチに殺到した。そのためプロジェクト対象地がNGOの間で取り合いになることもしばしばだった。しかも緊急支援団体はその名の通り、緊急支援のみが目的であり、3年とか5年の区切りで現地から去っていく。すべての団体がそうとは限らないが、緊急支援として集めた義援金を、なるべく早く使い切りたい、できれば寄付者が喜んで納得するようなわかりやすい形で、ということになりがちだ。
そこで後を託せそうな現地のローカルNGOが引っ張りだこになるわけである。中にはローカルNGOの実力を過大評価してしまう団体もあった。急に大金を握らされ、混乱したローカルNGOによって、本当に必要があるのかわからない箱もの支援が量産されていくのを私たちは目の当たりにした。

2011年2月、レオガン近郊ボヨテ村の河川の水路の修復。流域の住民が「自分たちの水路」という意識をもってボランティアで作業に参加し、約3キロにわたって修復された。それに感化された下流域の住民らもボランティアで水路の清掃を始めた=小澤幸子さん提供
援助慣れして生真面目さを急速に失っていった
なんとなく釈然としない気持ちでいたが、私たちは自分たちの正しいと信じるやり方で、大地震から何年経とうとも、ハイチと付き合っていくだけだと考えていた。しかし、GEDDHとの関係がぎくしゃくし始めた。
以前はきちんとしていた領収書の管理がずさんになり、足りない分を追及すると、領収書をまとめておいたファイルが車ごと盗まれて紛失したと苦しい言い訳をするようになった。
ハリケーンで再度壊れた水路を修復する必要が生じた際、予算書を出すように依頼すると、仲間内の技術者に見積もりを依頼し、以前の4.8倍もの予算が提示された。内訳をみると、ハイチでは15%が相場(日本では3~5%)であるにもかかわらず、予算総額の25%もの設計費が要求されていた。
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