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人口減少問題解決のカギは女性の政治参加にあり

元参院議員・円より子が見た面白すぎる政治の世界⑮平成で解決できなかった日本の課題

円より子 元参議院議員、女性のための政治スクール校長

拡大アメリカ大使館で、左からケネディ大使、円より子、目黒依子さん。三浦まりさん、シャーマン国務次官補と記念に。野田聖子さんは一足早く帰ってしまっていた=2015年1月30日

政治が変わると感じた平成のはじめ

 今年4月、平成が終わった。

 1989年1月8日に発表された「平成」という元号には、内外・天地ともに平和が達成されるようにとの思いが込められた。

 世はバブル景気に浮かれていた。しかし、昭和天皇が崩御され、歌舞音曲の類は遠慮され、町には暗がりが広がっていた。そして、大喪の儀が行なわれた2月24日には、いく昭和を惜しむかのように、冷たい氷雨がそぼ降っていたのを覚えている。

 昭和の終わった1989年は、冷戦の終わった年でもあった。11月10日、ベルリンの壁が崩壊。12月3日にはブッシュ大統領とゴルバチョフ首相が「冷戦の終結」をマルタ島で宣言した。

拡大1989年の参院選で勝利し記者会見する社会党・土井たか子委員長=1989年7月24日
 この直前、三菱地所がニューヨークのロックフェラーセンターを買収し、日本の威力を見せ付け、世界から、特にアメリカから睨まれた。そうした世界の「目」に気づくこともなく、日本はバブルに浮かれ続ける。

 12月29日の大納会で、日本の株価は3万8915円の高値を付けた。それがピークだった。金融の専門家という人たちが何人も、この勢いで4万円を超えると予想したのを思い出す。予想が難しいのは分かるが、専門家の意見といえども、あまりまともに聞かない方がいいとも悟った。

 社会党が自民党に圧勝し、「山が動いた!」の名文句を委員長だった土井たか子さんが残したのも1989年だった。平成のはじまりは政治をも変えるのかと思わせた。

 1992年5月、熊本県知事だった細川護煕さんが新党を立ち上げた。既成政党の馴れ合い体制にとどめの一撃を刺したと受け止められ、拍手喝采で迎えられた。月刊誌に掲載されたその結党宣言に胸震わせた人は多かった。私もその一人だった。

荒海に漕ぎ出していく小舟の舳先に立ち上がり、難破することも恐れずに、今や失われかけている理想主義の旗を掲げて、私はあえて確たる見通しも持ちえないままに船出したいと思う。歴史を振り返ってみれば、理想の船出というものはいつもそういうものだったのだ。

 新党はその後、平成の間にいくつできたことだろう。政党の離合集散、そして覚えきれないほどの新党結成に、国民の気持ちはしだいに冷めていく。

 しかし、政党助成金もまだない頃に、細川さんの10億円以上の借財をして理想主義の旗を掲げ、日本新党という小舟で船出したその熱気と男っ気に感じ入った人は少なくなかった。私が日本新党に入り、政治の道に踏み出したのもそのためだ。

 あれから四半世紀。平成が幕を下ろした今も、日本新党の結党の精神は生き続けていると、私には思える。否、生き続けさせ、政治にもう一度「正義と信」を取り戻したいと思う。


筆者

円より子

円より子(まどか・よりこ) 元参議院議員、女性のための政治スクール校長

ジャパンタイムズ編集局勤務後、フリージャ―ナリスト、評論家として著書40冊、テレビ・講演で活躍後、1992年日本新党結党に参加。党則にクオータ制採用。「女性のための政治スクール」設立。現在までに100人近い議員を誕生させている。1993年から2010年まで参議院議員。民主党副代表、財政金融委員長等を歴任。盗聴法強行採決時には史上初3時間のフィリバスターを本会議場で行なった。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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