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「日韓の亀裂の修復」を和田春樹さんと考える

北朝鮮の拉致事件、そして韓国との新たな関係へ

市川速水 朝日新聞編集委員

徴用工・慰安婦問題がこじれるなか、植民地支配の反省・謝罪に基づいた解決を訴える和田春樹・東京大名誉教授(右手前)ら=2019年2月6日、国会

保守からもリベラルからも

 これまで日韓の亀裂に関して「源流」など4つのキーワードで時代をたどってきた。

「『日韓の亀裂の源流』を和田春樹さんと考える」
「『日韓の亀裂の転機』を和田春樹さんと考える」
「『日韓の亀裂の拡大』を和田春樹さんと考える」
「『日韓の亀裂の迷走』を和田春樹さんと考える」

 これらを通じて、1960年代から世紀をまたいでそれぞれの時代の日韓の動きを追った。その過程で、日韓の連帯がどう育ち、かつ崩れていったのか。そして、両国の政府レベルと市民運動レベルの乖離(かいり)、双方の国内の分裂模様が浮き彫りになった。

 最終回では、最近の動きを踏まえて将来を占ってみたい。

 韓国などとの慰安婦問題は、曲折の末にこしらえたアジア女性基金で事実上の補償をしようとしたが、「失敗に終わった」(和田春樹さん)との総括が一般的だ。2015年末の日韓政府間合意を踏まえ、日本政府が10億円拠出して財団がつくられたが、これも解散した。被害者や支援団体は、なお問題の「真の解決」を求め続けている。

 政治・外交的な妥協で慰安婦問題を解決させようとしても、社会的、歴史的な意味では、慰安婦問題は解決しないことがはっきりした。

 アジア女性基金の専務理事として、事業を最後まで見届けた和田さんは、保守からもリベラルからも浮いて見えることがあった。孤軍奮闘というか、道化的というか(注:筆者の個人的な感想)。

和田「私が市民集会やシンポジウムのパネリストなどに呼ばれるときは、アジア女性基金の推進者として批判を受けました。私はお互いに言うべきことは言う、という立場を貫きたいと思い、積極的に発言し続けたつもりです。韓国では『民主化運動を支援してくれたときは良心の人に見えたが、日本政府の手先になってしまっている』といった声が聞かれました。日本でも同じように見られていました。ただアジア女性基金の評価は、日本の中では相当に変わったと思います。政府も、官僚も、基金関係者も、元慰安婦への謝罪と償いのためにあれほど真剣に努力したということは驚くべき事実だからです。あきらかに問題が前進した時だった、と振り返っています」

 植民地時代の元徴用工への補償問題では、1965年請求権協定では最終的に解決していないという韓国司法の判断が下された。韓国政府は、対日関係と国内の被害者との間で板挟みになり、優柔不断な印象を与えている。日本は、請求権協定に基づく「仲裁委員会」での解決を図るべく韓国に申し入れたが、韓国側に応じる動きはない。

 ここで視点を日韓以外にも移してみる。

大韓航空機爆破事件そして拉致問題

1987年12月、大韓航空機爆破を実行した疑いで韓国に移送される金賢姫容疑者。死刑判決が確定した後、特赦された=ソウル金浦空港、東亜日報提供
 日本と朝鮮半島の関係の変化を語る時、単に日韓2国間の問題だけでなく、日朝関係と南北関係が影響してくる。日朝国交正常化交渉が盛り上がる前夜の「金丸信・金日成・盧泰愚」という組み合わせと、今の「安倍晋三・金正恩・文在寅」の関係では、何もかもが違う。戦争を知っているか、植民地支配の体験があるか。韓国が北朝鮮に融和政策をとっているかどうか。それぞれの内政が安定しているかどうか。アメリカとの関係が良好かどうか。

 前々回、「日韓の亀裂の拡大」で触れたように、1990年代には韓国との慰安婦問題のほかに、日朝国交正常化問題が浮上してきた。

 韓国では軍事独裁から民主化政権へと体制が変わり、その後、日本と北朝鮮との間では拉致問題が浮上。日本は二方面で外交の舵取りを迫られることになった。どちらも人の尊厳と命がかかっていた。

 そのなかで、日本と南北朝鮮の関係を大きく変えたのは、北朝鮮による拉致問題と核開発問題だった。

 1985年6月、韓国当局が「辛光洙(シン・グヮンス)事件」を発表した。北朝鮮の辛光洙工作員が日本人の原敕晁さんを5年前に拉致し、原さんになりすましてパスポートを取って韓国に入ったとされる事件だった。

 続いて1987年、大韓航空機爆破事件が起きる。蜂谷真由美という日本人名を名乗る女性が金賢姫(キム・ヒョンヒ)という北朝鮮工作員だと自供、「日本から拉致されてきた女性から教育を受けた」と供述したことから、拉致問題が国会で取り上げられることになった。

 さらに決定的な転機となったのは1996年だった。13歳の少女が1977年、学校帰りに拉致され、「朝鮮語を習得すれば帰国させてやる」と言われ、勉強したが帰国できないので精神が不安定になり入院させられている、という情報が韓国から伝えられた。その子は新潟の横田めぐみさんである可能性が膨らみ、1997年には国会でも問題となり、拉致問題は国民的な関心事になった。

日朝平壌宣言の署名を終え握手する小泉純一郎首相と金正日・北朝鮮総書記=2002年9月17日、平壌市の百花園迎賓館

小泉訪朝の激震

 そこへ2002年9月、小泉純一郎首相が訪朝して金正日総書記と会談し、日朝国交正常化に向かうことで合意するという激震が走った。日本人拉致を金正日氏が認め、謝罪して「5人生存、8人死亡」と明らかにしたのだった。国内世論は当初は小泉訪朝、国交正常化合意を歓迎したが、拉致問題での日本の交渉が批判されると、空気が一変した。

 リベラル勢力は、日朝正常化交渉を急ぐべきだ、という論調でほぼ足並みがそろっていた。それが、一気にしぼんだ。日朝国交促進を語っていた者は、拉致被害者を見殺しにしていた者だと非難されるようになった。

和田「私は拉致問題を検証して、(北朝鮮の元工作員で脱北した)安明進(アン・ミョンジン)氏が北で横田めぐみさんを見たと述べた証言は次々と内容が変わり信用できない、と主張したことがあります。当時、確実に言えたのは、原敕晁さんを拉致したという北朝鮮スパイ、辛光洙の件だけでした。拉致が確証できない人のケースは行方不明者として交渉するほかないと書きました。その後、小泉首相に北朝鮮が13人の拉致を認めたので、私に対する攻撃が強まりました。そういう人間に何かコメントさせるのか、と。(新聞などメディアから)談話を取られることもなくなりました」

 北朝鮮への制裁、真相究明、被害者返還の声は高まる一方だった。

和田「そのあたりの時代から、北朝鮮との国交正常化を主張する運動家の談話が載ることはなくなりました。岩波書店の『世界』の執筆陣らも発言の道をふさがれた。それぐらい国民の意識が変わったといえます」

 それ以前にも、1950年代から在日が北朝鮮に渡った「帰国運動」の結果、悲惨な生活を送ってきた元在日朝鮮人の証言などはあったが、拉致問題については、北朝鮮の大使館的役割を担っていた朝鮮総連も、そのシンパも、拉致事件の存在そのものを否定してきた。

 金正日総書記が拉致を認めたことで、北朝鮮系の在日社会は衝撃を受け、総連や総連参加の団体から脱退する人や企業が相次いだ。総連が事件についてしばらく沈黙したことで、さらにシンパが減っていった。

 アジアで取り残された日朝間の国交正常化も、経済協力も、振り出しに戻った。

在日コリアン社会の葛藤

 ここで、在日コリアン社会の葛藤について簡単に振り返りたい。

 戦後すぐに朝鮮半島は南北に分断され、アメリカと旧ソ連が分割統治した。在日朝鮮人は、祖国に帰る人、日本に留まる人と分かれ、同胞組織も民団(韓国系)・総連(北朝鮮系)と分断された。それぞれが祖国の動向を注視し、支援し、政治体制を支持した。

 しかし、これまで述べたように祖国そのものが激動を重ねた。

 1959年から約10年間は、北朝鮮への帰国運動で日本人妻も含めて9万人以上が北へ渡った。幸せになれるという宣伝文句で行った人も消息がつかめなかったり、後に地獄だったと証言する人たちも現れたりして国の体制へ疑念が深まった。

 一方の韓国は、野党大統領候補だった政治家・金大中氏の拉致事件、その金氏の復活、1980年クーデター、逮捕、死刑判決、減刑、出国、帰国、1987年民主化、大統領選挙出馬、二度落選、三度目に当選、ついに大統領になるという例に代表されるように、めまぐるしい政治の変化に日本国内も揺れ、同胞組織も右往左往した。

 例えば金大中氏が東京で拉致された事件では、金氏が滞在中に護衛などを務めたシンパの在日韓国人と軍事独裁を支持する民団指導部が反目していたが、その後、金大中氏が政治の主役に上り詰めると、日本では民団幹部が大慌てするという悲喜劇のような有り様になった。

 1980年代まで韓国では軍事独裁、北朝鮮は金日成主席の独裁で双方とも国内事情は秘密のベールに包まれていた。在日コリアンと学者・運動家は、少ない情報を元に祖国の実情を想像するしかなかった。一方で、韓国は80年代に民主化が実現し、一時期は「楽園」とまで言われていた北朝鮮が人権蹂躙国家らしいということが徐々に分かり、北朝鮮のシンパが減っていった。

 民団、総連とも、基本的には祖国の行為に対して「性善説」をとってきたので、南の軍事独裁を非難することもなく、北の人権蹂躙や拉致疑惑に対しても反応が乏しかった。もっともこれは、数値化することはできず、当時、南北双方の関係者に取材していた筆者の実感である。

まずは国交正常化を

 一方、外務官僚の一部には、日本の外交的観点からは、世界で唯一、国交を正常化していない北朝鮮との関係を築かねければならないという歴史的な使命感が根強くあった。

 55年体制の中で、日本社会党を中心に、北朝鮮との関係構築を主張する声が目立ったが、戦争を知る自民党のリベラル勢力ともこの点では一致していた。また、この人々の多くは日韓国交を正常化させた1965年の日韓基本条約に反対した人々であったが、北朝鮮とも最低限、同様の条約を結び、経済協力を行うのは当然だという暗黙の共通認識があった。

 日本の国内世論は、米国と協力して拉致問題解決を目指すべきだと望む声で統一されているものの、北朝鮮の体制打倒を叫ぶ人、それでも南北朝鮮の融和を求める人、北朝鮮の崩壊とアジアの混乱を不安視する人、と様々な主張が交錯している。韓国にとっては、日本が制裁の圧力で解決しようとしているため、北朝鮮との対話を志向する文在寅政権のような進歩的勢力が主流を形作っている限りは足並みがそろいにくい。

 最悪ともいわれる日韓関係と、打開策が見えない日朝関係。安倍政権の対アメリカの「接待外交」も成果は不透明だ。その中でトランプ大統領は2019年6月30日、安倍首相の意向などおかまいなしに、金正恩委員長と板門店で会談をやってのけた。トランプ氏への「抱きつき外交」で拉致問題の進展に期待を寄せていた安倍政権も、米朝指導者の強烈な個性と思いつきパフォーマンスの前では緻密な戦略を立てようがない。

 和田さんは、日本と朝鮮半島全体の関係を改善するためにも、これまでの安倍首相がとってきた対北朝鮮の「原則」をはっきり変えるべきだと主張する。

和田「北と交渉するなら、国交正常化交渉を再開しなければなりません。そのためには、『安倍三原則』を破棄すべきだという立場です。三原則とは、①拉致問題解決が日本の最重要課題である②拉致問題の解決なくして国交正常化なし③拉致被害者は全員生存している、全員即時帰国させよという原則のことです。これが2006年にまとめられました。この原則に立てば、拉致をした北朝鮮は許せない、被害者が死んだというのは嘘だということになる。嘘つきとは外交交渉はできない。制裁で屈服させるのみ――ということになるのです」

 拉致問題で世論が沸騰して、北朝鮮との国交正常化を語ることができなくなった和田さんだが、今はあえて「国交正常化すれば、拉致問題についてしっかり交渉ができる」、それが早道だと考えている。

和田「すでにお互いの連絡事務所を開こうという提案が出ていますが、私は大使館を開くことから始めよと主張したいのです。(小泉首相と金正日総書記が2002年に結んだ)平壌宣言に基づいて国交を結ぶことにして、経済制裁は今のままにしておけばいい。アメリカはキューバとの国交正常化の時にも、制裁はそのままでした。オバマ大統領の判断だったのです。日本にも参考になるのではないでしょうか。私の主張は、まず国交を正常化して大使館を開く、直ちに、核ミサイル問題、経済協力問題、拉致問題などを別々のテーブルで話し合いを始めればいい、というものです」

2002年6月、横浜でのサッカーW杯決勝に訪れた金大中・韓国大統領夫妻を迎える天皇(現上皇)夫妻。日本から天皇や上皇が訪韓する日がいつ来るのだろうか

「民」が「官」を引っ張る新たな時代

 いま、安倍首相は、金正恩氏との「条件をつけない首脳会談」へ意欲を表明している。拉致最優先というこれまでの姿勢を大きく転換させ、「とにかく会って話し合おう」ということを意味する。和田さんの言う「三原則」が破綻したことの裏返しでもある。

和田「現在までの膠着状態を考えると、日本が何かをこれ以上獲得しようとすれば、北にも実質的な成果があるようにしなければならない。国交を樹立すれば、独自制裁の縮小、文化交流、人道支援や人と船の往来などができるようになります。北にとっても、東京に大使館を開くことができるわけです。お互いに気分を変えて、米朝交渉を助けるような交渉ができるのではないでしょうか。
北の主張によると、8人死亡、4人は入国せずということですが、現実問題として、拉致、誘拐した側が死亡したと言えば、殺されたのかと考えるのが自然です。入国していないと言うなら、船上で殺害したのかと問いただす必要があります。死亡の状況を明らかにせよと迫ることは基本的なことです。死亡殺害を確信させられれば、賠償せよと主張すべきです。金賢姫(キム・ヒョンヒ)の教育係とされる田口八重子さんは死亡したと言われましたが、大韓航空機爆破事件が絡んでいるので、北朝鮮側はそう言わないといけないのかもしれません。そう考えれば、救い出す道筋を考えなければなりません。
何もかも、現実的に考える必要があるのです。事実関係に立脚して、北と立ち入った交渉をしなければ前に進まない。情緒が先行するあまり、ただ返せ、返せと言うだけでは、状況を悪くしてしまいます。安倍三原則に疑義を示さず、全員が生きているという前提をうのみにしてきたメディアにも責任があります。安倍三原則は終わりにすべき時なのです」

 拉致追及の行き詰まりと南北接近、米朝間に横たわる問題は、日韓関係の新たな展開にも結びつく。最悪レベルの日韓関係を動かし、好転させる秘策はないのだろうが、その中でも和田さんにはいくつか提案がある。

和田「やはり人がもっと往来することです。上皇さまも訪韓されたらいいと思います。ご本人も、在位中に訪韓することを望んでおられた様子でした。上皇になった今は、最初の訪問先を韓国にすることもできるでしょう。百済の武寧王陵をお訪ねになるのもいいし、ソウル近郊にある大韓帝国最後の皇帝父子、高宗と純宗の墓にお参りされるのもいいと思います」

 最後に、植民地支配の責任や戦後をどう見るか、に戻る。

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