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民主化運動に携わった人々が次々と拘束される

 ミャンマー国内のロヒンギャは100~130万人ほどとされ、主に北西部のラカイン州北部に暮らしていた。留理華さんも1989年、このラカイン州に生まれた。ミャンマー国内では前年の1988年に大規模な民主化運動が起こり、携わった人間、もしくはその疑いをかけられた人々が次々と拘束されていった。村の人々が次々指名手配される中、高校で教師をしていた留理華さんの父も身の危険を感じ始めていた。国外へ逃れるため、ブローカーから手に入れたパスポートに、たまたま日本のビザがあったのだという。父はその「日本」という見知らぬ異国の地へと先に旅立ち、母は家や財産を売り払い、留理華さんと姉、弟を連れてヤンゴンへと移り住んだ。留理華さんが3歳の時だった。故郷の家で、父とゆっくり食卓を囲んだ記憶は留理華さんにはない。

学校での過酷な差別

 当時の軍政はすでに1982年の市民権法により、ロヒンギャの国籍を事実上剥奪していた。留理華さん自身も幼い頃から、差別的な扱いや偏見に直面することとなる。学校の入学手続きを試みた際、冷蔵庫一台は買えそうなほど法外な値段を要求されたこともあったという。何とか入学を認められた学校でも、過酷な日々が待っていた。

 「学校では名前ではなく、“カラー”(インド系外国人に対する侮蔑的な呼び方)と呼ばれていました。日本でいう“外人”よりももっと酷い言葉だと思って下さい。こうして先生が差別的な態度をとれば、子どももそれを真似します」。

 ある時、仲良くなった友達と学校から帰ろうと門までやってきたとき、迎えに来た親がその友達に話す声が聞こえた。「“カラー”と友達になるためにお前を学校に行かせてるんじゃないんだぞ」。1人友達ができてはまた離れていく、そんな日々だった。「私には幼なじみと呼べる存在がいないんです。だから息子たちには常々、友達を大事にしなさいって伝えています」。

拡大ヤンゴンにいた頃の留理華さん。左が姉、右が弟

 家に電話はなく、父親とはミャンマーと日本を行き来する人に手紙を託したりしながら、何とか連絡を取り合っていた。そんな父から、日本での難民認定は受けられなかったものの、滞在資格を得て、何とか職も得ることができたという知らせがあった。2001年、留理華さんが12歳になったとき、ついに家族で父の暮らす日本へと渡ることとなった。

日本に夏があることに驚く

 「日本について知っていることはほとんどありませんでした。ヤンゴンで暮らしている時、モスクにコーランを学びに行く道の途中で“Tokyo Guest House”という看板を掲げたゲストハウスがあったのをなんとなく覚えていたくらい。あとはとにかく父から『寒い!』と聞いていたので、後になって日本に夏があることに驚いてしまいました」。

 冷え込む季節の真っただ中、成田空港へ降り立ち、当時父が暮らしていた群馬県館林市に向かった。物心ついてから初めて父という存在にふれ、小さなアパートで一家団欒した。凍える夜を迎え、その日は布団にくるまるようにして眠った。「舘林に着いたとき、もう外は真っ暗で、風景が見えませんでした。目を覚ましてびっくり、外は田んぼや畑ばかりでした。日本は都会のイメージしかなかったから、あまりにのどかな風景で戸惑ったくらいです」。

拡大舘林では今、ロヒンギャの少年たちが地元の子どもたちを交えてのサッカーチームの活動を続けている。グラウンドの傍らではさらに小さな子どもたちも夢中でボールを蹴っていた

エスカレートするいじめ

 その後、留理華さんは日本の小学校に通うことになる。言葉も分からなければ、文化も全く違う、何もかもが不慣れな環境だ。「給食は私たちイスラム教徒が食べられないもの多く、毎日お弁当を持参していました。ご飯とカレーばかりのお弁当だったので、そのうち『茶色いものばっかり食べてるから肌も茶色いんだろ』とからかわれるようになってしまったんです」。そしてその“からかい”は、いじめへとエスカレートしていく。

 それでも日本の学校で生き抜いていかなければならない。テレビを見ながら必死に言葉を覚えた。日本の子どもが小中9年間かけて学ぶ内容を、中学3年間で学ばなければならず、努力を重ねた。

 「高校時代になるとようやくいじめから解放されました。中学時代に使えなかったエネルギーがあり余っていたのか、『お前テンション高い』と友人たちから笑われるほど陽気に過ごしていました。仲良し3人組でいつも一緒、その頃は朝になるのが楽しみでした」。

 そんな高校在学中だった16歳の時、留理華さんは親が選んだ相手と結婚することとなる。その後も勉学は続け、建築の専門学校へと進学した。「安藤忠雄さんの建築に触れる機会があって、なんて素晴らしい仕事をする人がいるのだと感銘を受けたんです。自分も人の記憶に残る仕事を手がけたいと思ったことがきっかけでした」。長男が生まれたのは、留理華さんが20歳の時、まだ専門学校在学中だった。「ちょうど冬休みに出産が重なって、休まず通い続けることができました」。

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筆者

安田菜津紀

安田菜津紀(やすだ・なつき) フォトジャーナリスト

1987年神奈川県生まれ。Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル)所属フォトジャーナリスト。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、カンボジアを中心に、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で貧困や災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。写真絵本に『それでも、海へ 陸前高田に生きる』(ポプラ社)、著書に『君とまた、あの場所へ シリア難民の明日』(新潮社)。『写真で伝える仕事 -世界の子どもたちと向き合って-』(日本写真企画)。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。

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