外山恒一(とやま・こういち) ファシスト
1970年生まれ。革命家。「九州ファシスト党・我々団」総裁。89年、『ぼくの高校退学宣言』で単行本デビュー。2007年に東京都知事選に立候補(落選)。著書に『青いムーブメント』『良いテロリストのための教科書』『改訂版 全共闘以後』など。
※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです
〝非民主的〟な政治制度の希望に満ちた可能性
ちょっと前(00年前後あたり?)には左翼方面のインテリの方々は眉間にしわを寄せて、「サバルタンは語ることができるのか?」などと深刻そうに考え込んでいた印象がある。
私は、大抵のことは耳学問かせいぜい新書レベルの入門書で済ませる、絵に描いてギャラリーに展示したような典型的〝亜インテリ〟なので、名前からでは性別も国籍も予測しづらい謎の外人さんの、たぶんどこかの難解書房から出ているのに違いない本をわざわざ読む労はもちろん惜しみまくって、しかしそこは〝耳学問の大家〟、サバルタンというのは要するに、自分が置かれた状況を自分で認識(まして説明)することもできないぐらい(つまりそんなスキルというかガクを身につけること自体が不可能なぐらい)〝下の下〟に置かれた最下層人民のことであるらしいと見当をつけ、〝語ることができない〟彼らになり代わって発言することにどうしてもなりがちな左翼インテリ諸氏が、そのことの是非とか、他に道はないのかとか、そもそも本当に〝代弁〟しえているのだろうかとか、あれこれ思い悩んでいるのだろう、左翼であり続けるというのも(そういう良心的ポーズを見せつけ合うことによるマウント合戦で)大変だなあと同情していた。
そして想像するに現在、もはや彼らはそうした一種の余裕を失って、少なくとも本音では叫び出したいに違いないのである。「おいちょっともうサバルタンは黙ってろ!」と。
私の〝サバルタン〟理解が正確かどうかはともかく、下層階級が〝言葉を持たない〟のは普遍的に云いうる、単なるミもフタもない事実である。ここで云う下層とは第一義的にはもちろん文化的下層のことで、はっきり云ってしまえば〝勉強ができない〟人たちとほぼイコールと考えてよい(得意・不得意の話であって〝学歴〟は必ずしも関係ない。私なんか文化的には超上層だが、学歴は中卒だ)。
自分が置かれている状況を適切に言語化するには一定の〝読み書き〟のスキルがまず前提的に必要であることは云うまでもない。社会科学的な素養も必要だろうが、それは言語化の模索の過程で自然に身につきもするし、身につかないような人は要するにそもそも〝勉強ができない〟タイプの人である。そして、〝読書感想文〟などでたかだか原稿用紙4、5枚を埋めるにも地獄のような苦しみを味わってきたであろう彼ら文化的下層階級に、広く世間に向けて自らの見解を発信することなど、ただ当たり前に不可能だったにすぎない。
もちろん、IT革命以前は、だ。
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