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[143]沖縄慰霊の日。首相に野次、怒声

金平茂紀 TBS報道局記者、キャスター、ディレクター

6月18日(火) 午前中「報道特集」の定例会議。香港で取材中の日下部正樹キャスターらは欠席。午後、ひたすら書き物を続ける。

 夕刻から日本記者クラブで問題作『新聞記者』の試写会。これを見るのは2回目だが、1回目にみた後とは違う感想を持った。主役の女優の台詞の短さも気にならなくなった。この映画が6月28日というタイミングで一斉公開されることの意味と、出口の見えない状況への風穴となることへの期待が交差する。会場で一緒になった2人の後輩たちとプレスセンターのレストランで歓談。みんな、もやもやを抱えているんだなあと。多くの場合、組織の中で権限をもつとされている人物の定見のなさと、独断的な裁定で、いろいろなことにチャレンジできないという息苦しさが共通していた。

6月19日(水) 本来ならば、この日から沖縄取材を予定していたが、頓挫してしまった。あした締め切りのメディア関連の原稿を一気に書く。以前から気にかかっていたアメリカ映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』をみる。3時間26分の大作。「公共空間」とは何か。今の私たちに突きつけられている最も切実な問題だ。図書館はブックオフであってはならないのだ。

6月20日(木) 早起きしてプールへ。がっつり泳ぐ。体重が2キロ近く減った。沖縄「慰霊の日」に現地に行く手配をもろもろ。知人からのメールで、テレビ朝日の人事異動について知る。先日、本棚を整理していたら、故・彦由常宏さんの追悼本『駆ける』が偶然に目にとまった。そこに追悼文を寄稿していた人々はテレビ朝日関係者が多かったが、それらの人々はその後の歳月の経過のなかで、すっかり変わってしまったのか。

 久方ぶりに赤坂の筑紫邸へ。6月23日の誕生日近辺に、毎年、筑紫哲也さんの「門下生」たちが集まる。これは筑紫さんが亡くなった翌年の2009年から毎年欠かさず続いていることだ。夕刻お線香をあげに行く。亡くなられてから11年もたつというのに、いまだに「筑紫残党」とか週刊誌にたれ込む馬鹿がいる。その後、神楽坂での寄り合いに。つぶされてはいけない。

筑紫哲也さん筑紫哲也さん=2010年

6月21日(金) 早起きしてプール。きのうの半分だけ泳ぐ。ものごとが何から何まで思うように運ばないことのストレス解消のため。ミチコ・カクタニとアフリカ難民キャンプに400日暮らした日本人研究者の本を読む。イランがアメリカ軍のドローンを撃墜したことから一気に軍事的緊張が高まったが、武力攻撃寸前のところで、トランプ大統領は、いったんゴーサインを出した攻撃を中止したらしい。アメリカは何という人物をトップに選んでしまったことだろうか。もっともこれは日本についても言えることだが。

沖縄全戦没者追悼式の会場に入る安倍晋三首相(手前左)を迎え入れる玉城デニー沖縄県知事(同右)=2019年6月23日20190623沖縄全戦没者追悼式の会場に入る安倍晋三首相(手前左)と玉城デニー沖縄県知事(同右)=2019年6月23日

沖縄慰霊の日、挨拶文の器の違い

6月22日(土) 「報道特集」のオンエア。日下部キャスターの香港リポートが実に見甲斐があった。現場で取材しなければわからないことがある。熱気とか臭いとか希望とか。僕はと言えば、単純に、圧倒的な数の人々のデモという非日常のパワーそのものに感動したのだ。

 その後、反省会をパスして羽田空港に直行し、最終便で那覇へ。那覇は本格的な雨に見舞われていた。まいったなあ。今回は実に短い沖縄滞在だが、やれるだけのことはやろう。天気予報では那覇も糸満もあしたは雨だ。

6月23日(日) 沖縄慰霊の日。まだ雨がやまない。朝4時30分にホテルを出発。糸満市の魂魄の塔に午前5時すぎに到着。そこで、取材を試みる。Nさんに加え、何とMBS大阪・毎日放送のS女史が来ていた。まいったなあ。考えていることがどこかで重なっているのか。さらには沖縄タイムスのAさんまで取材に来ていた。Aさんは北部支社勤務から今は編集委員だが、腰の軽さには敬服する。

 朝、9時前には非常に雨足が激しくなる。こんな「慰霊の日」はあまり記憶にない。平和祈念公園への道筋は、参列者を乗せたチャーター・バスや自家用車でもう混雑している。会場を見て回ると、雨で若干出足が悪くなっているようだ。メディアの集まるテントの記者席で、知り合いと話をする。午前9時すぎには玉城デニー知事がもうリハーサルのために会場に姿をみせていた。そこで挨拶がてら話をした。「雨、大丈夫ですかね?」と問うと、デニー氏は「ははは、僕は晴れ男だから何とかなるでしょう。それにしても、去年は僕はこっちの側の席に座っていたんですからねえ」と国会議員らの座る最前列の席を指さしていた。考えてみると、翁長雄志知事が亡くなってからまだ1年もたっていないのだ。この間の目まぐるしい沖縄の状況の変化を考えると、こころの中で鈍い痛みが疼く。

 早稲田大学のゼミ生たち+アルファが10人沖縄に入っている。彼らと会場でドッキング。彼ら彼女らは「平和の礎」に花を手向けに行った。開会までの時間、テント屋根の下で参列者たちを観察していたら、何と僕の座っている斜め左の席に、香港からやって来たという大学生の一団がいた。10人ほど。さっそく手持ちの自分のビデオカメラで彼らに話を聞いた。香港で今起きていることと沖縄の状況は違っている点はもちろんあるが、似ている、共通している点もたくさんある。とにかく沖縄の歴史をきちんと学びたいと。彼らは琉球大学の学生らと交流したらしい。

 式典の警備が年々厳しくなってきている。午前11時50分開会。玉城デニー知事の平和宣言は、締めくくりがウチナーグチと英語で、「ちむぐくる」(沖縄に受け継がれてきた他人を思いやるこころ)を伝承していく決意を述べていた。そのあとの来賓挨拶がこの日のハイライトだったと言ってもいい。

 追悼式典は僕はこのところ毎年取材に訪れているが、

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