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三浦瑠麗対談:私が徴兵制が再び必要だと言う理由

阿川尚之氏と語り合ったポスト「アメリカの世紀」の平和創出理論

三浦瑠麗 阿川尚之

 「アメリカファースト」で内向きな世論が強まるアメリカ。欧州各国も社会の分断を背景に政治的な変動が絶えず、中東は依然、不安定のまま。冷戦終結から四半世紀が過ぎましたが、21世紀の国際社会は流動的です。そんな世界で平和を作り出すにはどうしたらいいのでしょうか。
 今年上梓した『21世紀の戦争と平和 徴兵制はなぜ再び必要とされているのか』(新潮社)で徴兵制を軸に平和について考察した国際政治学者の三浦瑠麗さんが、アメリカに詳しい同志社大学特別客員教授の阿川尚之さんと、戦争のこと、徴兵制の是非、これからの日本の方向などについて語り合いました。(構成 論座編集長・吉田貴文)
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阿川尚之(あがわ・なおゆき)同志社大学特別客員教授
1951年生まれ。慶應義塾大学法学部中退、米国ジョージタウン大学外交学部ならびに同大学ロースクール卒業。ソニー、日米の法律事務所を経て、1999年から慶應義塾大学総合政策学部教授。2002年~05年在米日本国大使館公使(広報文化担当)。07年慶應義塾大学総合政策学部長、09年~13年まで慶應義塾常任理事。16年慶應義塾大学退職。主著に『アメリカン・ロイヤーの誕生』(中公新書)、『海の友情』(中公新書)、『憲法で読むアメリカ史(全)』(筑摩学芸文庫)、『憲法改正とは何か』(新潮選書)、『憲法で読むアメリカ現代史』(NTT出版)など。
三浦瑠麗(みうら・るり) 国際政治学者・山猫総合研究所代表
1980年神奈川県茅ケ崎市生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了、博士(法学)。専門は国際政治、比較政治。東京大学政策ビジョン研究センター講師などを経て現職。著書に『シビリアンの戦争―デモクラシーが攻撃的になるとき』(岩波書店)、『「トランプ時代」の新世界秩序』(潮新書)、『あなたに伝えたい政治の話』(文春新書)など。政治外交評論のブログ「山猫日記」を主宰。公式メールマガジン、三浦瑠麗の「自分で考えるための政治の話」をプレジデント社から発行中。共同通信「報道と読者」委員会第8期、9期委員、読売新聞読書委員。近著に『21世紀の戦争と平和 徴兵制はなぜ再び必要とされているのか』(新潮社)。

多様な民主主義が広がる世界

――参院選が近付いてきました。安倍晋三政権は憲法改正を争点のひとつに据えています。憲法改正といえば、焦点は憲法9条です。三浦さんは今年出版された『21世紀の戦争と平和』で、政治や民主主義と軍隊の関係について、論じています。副題の「徴兵制はなぜ再び必要とされているのか」という文句にはドキッとするのですが。2019年という年になぜ、この本を出されたのでしょうか。

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三浦 21世紀に入って20年近くがたち、我々が今、目にしているのは、第2次世界大戦が終わった1945年以降、圧倒的だったアメリカの力が失われつつある世界です。国際政治学が学問として成立したのは45年以降なので、そこで展開されてきた理論は「アメリカの世紀」が前提でした。その前提が失われたときの平和創出の理論を考えなければいけない時期にきています。

――国際環境が変わるなかで、新しい平和のあり方を考えたいと。

三浦 はい。世界的に民主化が進んでいるといわれます。ロシアも中国も民衆の力を無視できなくなり、「真の」かどうかはともかく、「多様な」民主主義が広がっているのは確かです。そこで、西側の民主主義を前提とした理論だけで足りるのか。この本では民主主義がどういう条件なら平和につながるかを考えました。

今、徴兵制を論じるわけ

――三浦さんの問題意識を阿川さんはどう思いますか。

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阿川 太古から人間は、戦い合い殺し合ってきました。凄惨な世界大戦を2度経験したにもかかわらず、いくさは今もなくならない。いかに無益な戦争を防ぐか。三浦さんは、国民に「我が事」として平和創出を考えてもらうために、「徴兵制」の復活という刺激的な問題提起をされたのだと思います。ただ、どれだけ実感をもって考えてもらえるか。もはや戦争の経験がない日本ではかなり難しい気もします。

――「徴兵制」を論じた真意は。

三浦 イラク戦争の際、退役、現役を含め、数多くの軍人が世間に向けて発信しました。彼らの多くが、「この戦争はいらない」「撤退したい」というなかで、それまでに先行研究から学習し、当然視してきたシビリアン・コントロールの常識との間に齟齬(そご)を感じたんです。

 9・11直後のアメリカ世論は明らかに戦争肯定でした。シビリアン・コントロールを貫徹すると、こうした軍人の反戦の声は封じ込めるしかない。でも、それでいいのか。民主主義が戦争を安易に始められる構造を作ってしまってはないかと考え、博士論文「シビリアンの戦争」を書きました。歴史的には軍が暴走するというのが常識だけれども、むしろシビリアンが暴走してはいないかと。論文で軽く触れた「徴兵制」には、反発も含めてかなり反応があった。そこで、軍や徴兵制というイメージばかりが先行しやすい制度を歴史的に追いかけ、掘り下げてみようと思いました。

 自衛隊が軍でもなく、戦争もない日本で、徴兵制を論じる意味があるのかという点ですが、私はグローバルな理論構築を目指しているので、日本だけに絞って解決策を考えることはしません。あくまでも比較研究の中で取り上げるべきであって、日本特殊論から入るのは違うと思っています。

 国家が置かれた条件や社会構造には様々な違いがあります。他方で、日本人とアメリカ人とスウェーデン人に人間としての違いはないと思っている。自衛隊という実力組織を持つ以上は、日本も軍と国家の関係という問題から逃れられるわけではありません。日本では、ここらへんは曖昧(あいまい)というか、いい加減にされていて、自衛隊が憲法の制約の間隙(かんげき)を縫って存在を許されているという消極的な意味付けはあっても、立憲主義的な政軍関係の議論はない。日本人が実感しにくい問題であっても、人間が集まってつくる国家は本来こうなければいけないのではないかという形で、普遍的な議論をしたいという思いがありました。