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アフリカ野球の代表監督を経験して得た大切なこと

野球人、アフリカをゆく(7)ガーナで学んだリーダーのあり方、難民の深刻さ

友成晋也 一般財団法人アフリカ野球・ソフト振興機構 代表理事

拡大ガーナ野球初期の写真 ガーナに着任して間もなくガーナの野球青年たちと出会った。道具もままならない中、持っていった段ボールひと箱分の野球道具を使って指導。(©橋本和典)

<これまでのあらすじ>
野球を心から愛する筆者は、これまでのアフリカ赴任地ガーナ、タンザニアで、仕事の傍ら野球を教え普及してきた。しかし、危険地南スーダンへの赴任を命ぜられ、さすがに今回は野球を封印する覚悟で乗り込んだ。ところが、あきらめきれない野球への思いが、次々と奇跡的な出会いを生み出し、ついに野球教室開催までこぎつけた。

 「野球人」の定義は特に定められていないと思うが、本稿のタイトル「野球人、アフリカをゆく」でいうところの「野球人」とは、「野球を深く愛する人たちの総称」として使っている。

 野球へのかかわり方はそれぞれだ。プレーヤーはもちろん、審判、スコアラー、記録員(判定する人)、チームの運営に携わる人、球場の管理に携わる人。もっと広げれば、応援団、観客、ファンなどだろうか。メディアの方々も入るだろう。その中に「野球人」はたくさんいると思う。

 私は10歳から野球を始めた。野球歴はかれこれ44年目になる。自分で言うのもなんだが、気圧されるような年数だ。

 しかし、前半の20年は、単なる「野球好き」だったように思える。私が「野球人」になったのは、32歳で初めてアフリカの地を踏んでからだ。

ガーナで踏み出した「野球人」の第一歩

 初めての海外勤務地である西アフリカのガーナに赴いたのは、JICAに転職し、5年目の1996年晩秋のことだった。

 大学まで野球に取り組んだ私が所属していたのは、いわゆる体育会野球部、というやつだ。大学野球部は在籍中4年間で二度も日本一になった強豪校。だが、私は在学中、レギュラーどころかベンチ入りさえも果たせなかった。

 夢破れ、卒業後は野球とはなんの関係もない不動産会社に就職した。時はバブル期。仕事があまりに忙しくて、人生で初めて野球から離れた日々を送った。

 就職して間もなく、働き盛りだった父を亡くした。それがきっかけで、「今、やりたいことをやろう」と思いたち、社会人2年目から再び野球にのめり込んだ。最盛期は四つの草野球チームを掛け持ち、毎週末、2、3試合をこなすような時期もあった。

拡大ノック 中学生レベルの彼らとオリンピックを目指すことを決定し、さっそく特訓が始まった。(©橋本和典)
 ガーナに赴任が決まった時、アフリカに野球はないだろうと、出発の3日前まで思う存分野球を楽しんだ。野球仲間が、「現地に行ったら野球はないだろうけど、休日にガーナの子供たちにキャッチボールを教えたい」という私の何気ない言葉に反応し、グローブを箱いっぱい集めてくれたので、それらを携えて赴任した。

 あてもないまま野球道具を持っていったところは、今回の南スーダンと同じであるが、大きな違いがあった。ガーナには野球チームがすでにあったのだ。それどころか、ガーナ野球連盟も存在していた。

 ただし、ガーナの野球人口は当時30人ほど。技術レベルは中学生程度。そこで、野球経験が豊富な私はコーチを頼まれ、後に連盟からナショナルチームの監督に任命された。

 今思えば、それが私の「野球人」への第一歩だった。


筆者

友成晋也

友成晋也(ともなり・しんや) 一般財団法人アフリカ野球・ソフト振興機構 代表理事

中学、高校、大学と野球一筋。慶應義塾大学卒業後、リクルートコスモス社勤務を経てJICA(独立行政法人国際協力機構)に転職。1996年からのJICAガーナ事務所在勤時代に、仕事の傍らガーナ野球代表チーム監督に就任し、オリンピックを目指す。帰国後、2003年にNPO法人アフリカ野球友の会を立ち上げ、以来17年にわたり野球を通じた国際交流、協力をアフリカ8カ国で展開。2014年には、タンザニアで二度目の代表監督に就任。2018年からJICA南スーダン事務所に勤務の傍ら、青少年野球チームを立ち上げ、指導を行っている。著書に『アフリカと白球』(文芸社)。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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