野球人、アフリカをゆく(7)ガーナで学んだリーダーのあり方、難民の深刻さ
2019年07月13日
<これまでのあらすじ>
野球を心から愛する筆者は、これまでのアフリカ赴任地ガーナ、タンザニアで、仕事の傍ら野球を教え普及してきた。しかし、危険地南スーダンへの赴任を命ぜられ、さすがに今回は野球を封印する覚悟で乗り込んだ。ところが、あきらめきれない野球への思いが、次々と奇跡的な出会いを生み出し、ついに野球教室開催までこぎつけた。
「野球人」の定義は特に定められていないと思うが、本稿のタイトル「野球人、アフリカをゆく」でいうところの「野球人」とは、「野球を深く愛する人たちの総称」として使っている。
野球へのかかわり方はそれぞれだ。プレーヤーはもちろん、審判、スコアラー、記録員(判定する人)、チームの運営に携わる人、球場の管理に携わる人。もっと広げれば、応援団、観客、ファンなどだろうか。メディアの方々も入るだろう。その中に「野球人」はたくさんいると思う。
私は10歳から野球を始めた。野球歴はかれこれ44年目になる。自分で言うのもなんだが、気圧されるような年数だ。
しかし、前半の20年は、単なる「野球好き」だったように思える。私が「野球人」になったのは、32歳で初めてアフリカの地を踏んでからだ。
初めての海外勤務地である西アフリカのガーナに赴いたのは、JICAに転職し、5年目の1996年晩秋のことだった。
大学まで野球に取り組んだ私が所属していたのは、いわゆる体育会野球部、というやつだ。大学野球部は在籍中4年間で二度も日本一になった強豪校。だが、私は在学中、レギュラーどころかベンチ入りさえも果たせなかった。
夢破れ、卒業後は野球とはなんの関係もない不動産会社に就職した。時はバブル期。仕事があまりに忙しくて、人生で初めて野球から離れた日々を送った。
就職して間もなく、働き盛りだった父を亡くした。それがきっかけで、「今、やりたいことをやろう」と思いたち、社会人2年目から再び野球にのめり込んだ。最盛期は四つの草野球チームを掛け持ち、毎週末、2、3試合をこなすような時期もあった。
あてもないまま野球道具を持っていったところは、今回の南スーダンと同じであるが、大きな違いがあった。ガーナには野球チームがすでにあったのだ。それどころか、ガーナ野球連盟も存在していた。
ただし、ガーナの野球人口は当時30人ほど。技術レベルは中学生程度。そこで、野球経験が豊富な私はコーチを頼まれ、後に連盟からナショナルチームの監督に任命された。
今思えば、それが私の「野球人」への第一歩だった。
それまで野球にプレーヤーとしてしか取り組んでこなかった私が、思ってもみなかった「監督」の立場で初めて野球に向き合った。確かにレベルは低いが、ナショナルチームなので、目指すのはオリンピック。夢の大きさは途方もなくデカい。ガーナに野球を根づかそうと、ほぼ3年間、JICAの事務所員としての仕事の傍ら、プライベートタイムをつぎ込み、全身全霊で監督業に取り組んだ。
その過程は、拙著『アフリカと白球』(文芸社)に詳しいので、ご覧いただければ幸いだ。
ガーナでの監督業を通じて得た野球人としての学びを、帰国後、私は仕事にも活かした。そして、学びのひとつは、南スーダン野球にもつながっている。
それは、ガーナ代表チームの監督として1年半ほどが経ったときの出来事だった。
その頃、私と選手たちとの間には、溝ができていた。私の選手たちへの接し方、ものの言い方、判断などが、選手たちに受け入れらなかったからだ。
日本の野球チームの監督は、選手との間に公平性を保つために、あまり親しくせず、一定の距離を置くことが多い。少なくとも私が現役時代に師事した監督は、みなそうだった。子は親を見て育つではないが、自分も自然とそのように接していた。
しかし、同じ日本人同士ならいざ知らず、日本人監督とガーナ人選手である。言語、宗教、習慣、育ってきた社会環境など、まさに異文化交流だ。同じ単語を使っていても、意味するところが違うのは日常茶飯事。そこに日本式の監督と選手のあり方を持ち込めば、軋轢(あつれき)が生じるのは至極当然だった。
だが、ナショナルチームの主将だったアルバート・フリンポンが私を諭した。誰もトモナリ監督にやめてほしいとは思っていない。でも、もっと選手たちのことを理解してほしい、という。
「ガーナでは、リーダーは父親たれ、という言葉があります。メンバーのことを誰よりもよく知っていることがリーダーに求められるのです」
この言葉にハッとさせられた。それまで、自分の日本での経験則に基づいて監督をやってきたが、ガーナにはガーナの監督の在り方があるのだと気づいたのだ。
それをきっかけに、私は選手たちの家庭訪問を始めた。時には職場訪問もした。彼らが普段、どんな生活をし、どんな環境で育ち、どんな人たちに囲まれて生活しているのか。実際に自分の目で見て、家族から直接話を聞いて、時には、彼らの職場のボスにまで面会しに行った。
その結果、選手たちとの距離が縮まり、信頼関係が回復し、さらに強固になって、チームの結束力が格段に高まったのである。
JICA南スーダン事務所でも着任して早々、まず全スタッフのヒアリングをじっくり行った。事務所には、日本人スタッフが7人、ナショナルスタッフといわれる現地雇用の南スーダン人等が16人がいたが、ヒアリングはナショナルスタッフから始めた。
「父親」として知っておきたいのは、彼らの生い立ち。どこで生まれ、どんな環境で育ち、どんな家庭を持って生活しているか。プライベートに関しては言える範囲を前提にしたが、南スーダン人の彼らはほとんど全員、屈託なく、むしろ積極的に話してくれた。
だが、このヒアリングを通じて、私は衝撃を受ける。
ガーナに赴任以来24年間、公私でアフリカと継続的にかかわってきた私は、多くの「アフリカ経験」を通じ、アフリカに慣れ親しんできたので、なんとなくアフリカをわかったような気持ちでいた。そんな自分の脳天をかち割られるようなショックを与えられたのだ。
ナショナルスタッフのヒアリングを終えてわかったこと。それは彼ら16人中、15人が自分あるいは家族が難民であった、もしくは今現在も難民である、ということだった。
JICAの事務所に働く彼らは、ある意味、南スーダンのエリートだ。国内ナンバーワンのジュバ大学や、隣国ウガンダの有名校マケレレ大学を出ているものもいる。給料は一般市民や官僚などより何倍も多い。「難民」とは縁遠い“階層”だと思っていた。
そもそも、南スーダン国内に難民はいない。難民の定義は、住まいを追われ、国境を越えて避難した人々なので、南スーダン難民は、国境を接するエチオピア、ウガンダ、ケニア、コンゴ民主共和国、そしてスーダンなどに避難しているのである。
ちなみに、国境を越えないまでも、南スーダン国内で避難している「国内避難民」といわれる人々も多くいる。難民と避難民の違いは、国境を超えているか否かの差だ。例えば、日本では東日本大震災で多くの方々が避難されたが、それは「国内避難民」だ。言ってみれば、こうした人々が海を越え、北朝鮮や韓国、中国、台湾に避難する。それが「日本人が難民になる」ということだ。
職場で一緒に仕事している人たちのほとんどにとって、難民は「自分ごと」であるという事実は、私の胸の中に重く残った。アフリカと関わるようになって初めて、私は「難民」をものすごく近くに意識するようになったのである。
週末の日曜がやってきた。
前週と同じように、相棒のイマニとエチオピア料理レストランでランチを食べてから、防弾車でジュバ大学に向かう。これから毎週日曜のランチがエチオピア料理になるのを避けるにはどうしたらいいのか、ひそかに考えているうちに、グラウンドに着いた。(「酷暑の南スーダンで野球らしきものへの第一歩が」参照)
この日は最初から参加人数が多かったので、キャッチボールの基礎を教えることにした。というと、ボールの握り方や、腕の振り方、足のステップの仕方、などを教えると想像するのが普通だろう。ところが、アフリカでまったく野球をやったことのない人たちに、キャッチボールについて最初に教えなければならないのは、「どこに立ってやるか」なのだ。
何も指示せずにキャッチボールをやらせると、彼らはグラウンドいっぱいに広がって、相手と思い思いの方向でボールを投げ合い始める。ただでさえ素人なので、投げ損なうボール、取り損ねるボールが多く、それがどこから飛んでくるかわからない。とっても危険なのだ。
これは、これまで私が教えたガーナでも、タンザニアでも同じだった。おそらく彼らが経験したことのある、グラウンドいっぱいに広がって行うサッカーのパスの練習のイメージが染みついているからなのだろう。
ペアのうち、ひとりは一塁線上に並ぶこと。もうひとりは、二塁と三塁を結んだラインと平行に一列に並ぶこと。言葉で説明するのは難しいが、野球場の図が書かれたボードと実際に置かれたベースを見ながら説明するので、わかりやすい。
そこでまずはキャッチボールを自由にやってもらい、これまで教えた通り、「ナイスボール」「ナイスキャッチ」を大きな声で伝えあうことを促す。そのうえで改めて全員集合し、ここで初めてボールの握り方、腕の使い方、ステップの仕方などを教えるのだ。
それまで見様見真似でやっていた子は、初めて教わる技術にくぎ付けになる。そして、教わった通りにやると、格段にうまくできるようになる。
そんな時の彼らの表情は、実に豊かだ。どんどん楽しくなってくる様子を見ていると、こっちもワクワクしてくる。至福のひと時だ。「ナイスボール」「ナイスキャッチ」がグラウンドにこだまする中、楽し気にキャッチボールする姿は、まさに野球の原風景。ノスタルジックな気持ちになり、心がふんわり温かくなる。
南スーダンは国民の3分の1の約400万人が難民、避難民になっている。2年前、ジュバで衝突があった時、市内の騒乱では700人もの死者が出たという。今、キャッチボールを楽しんでいるこの子たちは、2年前のその時、どこにいたのだろうか。私と出会うまでの2年間、あるいはもっと以前から今まで、どこにいて、どんな経験をし、何を感じたのだろうか。
小学生から高校生までの彼らの中には、トラウマになっている子もいる可能性がある。おいそれと尋ねるわけにはいかない。しかし、それを避けていては、彼らのグラウンドでの父親役が務まらないとも思う。こうした葛藤がこれからずっと続くのだろうか――。
そんな思いを抱き始めたとき、南スーダン政府は、平和の実現に向けて大きなチャレンジをしようとしていた。私が南スーダンに着任してちょうど2か月が経とうとしていた。(続く)
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