政権、批判者、政治無関心層の利害が均衡する「構図」にひそむ無責任な政治
2019年07月15日
2019年6月28日、G20大阪サミットの夕食会で、安倍総理大臣が大阪城復元にあたってエレベーターをつけたことを「大きなミス」と述べたことに対して、バリアフリーの観点から批判が続出した。
この批判について、菅義偉官房長官はその記者会見で「批判されるようなものではない」と反論したが、自民党の萩生田光一幹事長代行は総理との会談を受けて総理が「取りようによっては、障害者やお年寄りに不自由があってもしかたがないと聞こえるもので遺憾だ」と述べたと明らかにした。
この「遺憾」という言葉、近年、政権有力者の発言としてしばしば聞かれる。あまりに耳慣れていてもはや気にも留めないが、本来、心残り、残念を指す言葉で、謝罪を示すものではない。自分自身について使うこともあるが、第三者の問題について使うことが一般的であろう。
最近でも6月19日、韓国元徴用工訴訟をめぐって韓国側が仲裁委員会の任命を行わなかったのに対して菅官房長官が「遺憾」と述べ、また同21日、ロシア軍の爆撃機が日本領空を侵犯したことについて岩屋毅防衛相が「甚だ遺憾」と述べた。
ところが、最近、政権有力者がこれを自身や政権の行動に関してもしばしば使うとすれば、そこには実は現今の政治状況が反映されているのではないか。ここでは統計不正問題を皮切りにこの問題について考えてみたい。
統計不正問題について細かい説明は避けよう。問題の源泉は厚労省の統計不正。厚労省が2004年から基幹統計の一つである毎月勤労統計において、全数調査の一部が不正に抽出調査に切り替えられていた。当初、厚労省はこれを再集計することで対応しようとしたが、後に再集計に必要なデータが不適切に破棄されていたことも判明した。
この問題について、今年1月11日の記者会見で根本匠厚労相は「こうした事態を引き起こしたことは極めて遺憾であり、国民の皆さまにご迷惑をおかけしたことを心からおわび申し上げます」と発言した。また同日の記者会見で菅義偉官房長官も、「統計の信頼性を損なう事態が生じたことは甚だ遺憾で、国民の皆さまにご迷惑をおかけしたことを深くおわび申し上げる」だと述べている。テンプレートのような発言で事前に調整しているのだろう。
責任を丸投げされている相手は誰か。それは多くの場合、そして統計不正の場合にも、官僚であった。1月17日の時点で、厚労次官ら幹部も含めて処分する方針であることが報道されていた。22日に特別監察委の報告が提出されたが、その以前から(問題に関わった官僚個人ではなく)官僚機構が責任を負うことは決まっていたわけである。
最終的には根本大臣のほか副大臣、政務官など厚労相のポストにある政治家も給与の自主返納を行ったが、国会で野党から大臣辞任を求められると、首相も根本厚労相も否定して譲らなかった。「消えた年金」問題後の閣僚辞任ドミノの再燃を避けたいという意図はわかるが、政治が責任を放り出したように見えるのは致し方あるまい。
これは当然ではない。2015年6月に日本年金機構の情報流出問題が生じたが、このとき塩崎恭久厚労相(当時)は「監督する立場としておわびする」と述べていた。また、直近では2017年の稲田朋美防衛相(当時)が―本人の責任もあるとはいえ―もともと防衛省内で発生した問題について辞任に至った。大臣辞任のほとんどは政治資金問題や不祥事など大臣個人に由るもので、こうした事例は珍しい。
このように省庁における失態の責任を大臣が担うことは不思議なことではなく、まして政治主導が拡大・深化すればそれだけ官僚機構の作動の結果責任を政権が負うようになるのが理(ことわり)である。それぞれのケースに固有の事情があって比較は難しいが、こうした事例と比べると、この数年の対応では官僚機構の責任を大臣が引き受けることなく、むしろ官僚に官の問題として切り離しているように考えられるのである。「遺憾」に象徴される政官関係のあり方は、ここ数年で突然生じて、急激に亢進してきたことになる。
政治家が官僚機構の作動の責任をとる政官関係が確立されていれば、官僚機構の機能不全は政権の責任となり、国民は政権交代を通じて官僚機構の機能不全を咎めることができる。そしてまた、このチェック機能を意識すればこそ、政権も官僚機構のよりよい作動のために務めるだろう。
ところが、現在の政権運営では別の均衡点が生じている。
官僚機構にとって一定のダメージとなることが想定されるがゆえに、官僚機構が自らの欠点を隠そうとするだけではなく、政権にとってもこれを隠すことが望ましい選択となる。いざ官僚機構の機能不全が明るみに出ると、自衛隊日報問題のように隠ぺいを図ることは得策にならないことがわかってきたので、財務次官のセクハラ疑惑に対する麻生蔵相の木で鼻をくくったような対応、統計不正での厚労相の対応のように、むしろ官僚の側の問題と突き放すようになった。政権の問題ではないとダメージを管理するためである。
要は、政治主導の主流化が、逆説的に政官関係に懸隔を生み出し、責任関係の不明確を招いている。
こうした奇妙な事態の前提となっているのは、自民党の一党優位のもとの安定的な自公連立である。
政権交代が予見されるなら、機能不全の隠ぺいは近い将来暴かれる虞(おそれ)があるので、これを公表するインセンティブが働く。公表するにあたって、官僚に責任をなすりつければ、官僚は次の政権を見据えて野党に協力するかもしれないし(まさに民主党政権で生じたことである)、また国民の支持も野党に靡(なび)くであろう。
ところが、一党優位のもとではこのメカニズムが働かない。しかも、官僚は政権交代を予見できないうえ、人事を政権に握られていて反抗することは難しい。それで官僚に責任を押し付けるような対応をしても、国民はその対応には不満でも(2月半ばの朝日新聞の世論調査では「真相解明への政権への対応は適切ではない」とするのは61%)、代わりうる政権担当能力を持った政党がないので、政権へのダメージにならない(同世論調査における内閣不支持率は前月と同じ38%)。言うまでもなく、今回の参議院選挙でもこの筋に沿った選挙結果が予想されている。
「遺憾」という言葉は、第三者の責任であるかのように聞こえ、無責任な印象を与えるため、謝罪記者会見などでは忌避される。しかし、政権有力者にとっては、その語を使うことが不利にならない、むしろ有利になる政治状況が現前しているのである。
こうした「遺憾」という表現を用いて責任を転嫁したり、その在所を曖昧にしたりする手法は、一義的にはそれをする政権の問題であろう。しかし、このような手法を、わたしたちも日常生活のなかでしばしば目にする。自分が可愛い人にとって、とりわけ他者から評価される立場にある人にとって、常に誘引される、合理的な行動であろう。
だから、それをチェックするのは、彼/彼女たちを信任する国民の、そしてチェックする役割を託された野党の役割である。ところが、とりわけ責任の所在を問うフェイズで、野党はしばしば問題を「アベ」と直結しようと試みてきた。森友問題、加計問題がそうであったし、個別の閣僚の問題発言についても、総理大臣の任命責任を問うてきた。あくまで総理大臣の、また彼の内閣の総辞職を期待し続けてきたのである。
それゆえに、その総理大臣が「遺憾」と述べれば、また述べていると伝聞すれば、(さらなる追及はあるにせよ)自分たちの殊勲であるかのように、鬼の首を取ったかのように、それを誇って政権批判を繰り返してきた。
こうして政権有力者が発する「遺憾」という語は、批判者にとっても便利な言葉だ。
いわば各アクターが共同して、責任を曖昧(あいまい)にする「落としどころ」を発見したのである。
改めて冒頭の大阪城に関するコメントを振り返る。ニュースの上では
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