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星野源演じる「いだてん」の平沢和重の数奇な人生

戦前の革新派外交官から戦後はメディアに転身。名スピーチで五輪誘致に貢献。

小宮京 青山学院大学文学部教授

1964年東京オリンピック開会式。日本選手団の入場行進=1964年10月10日

1964年東京五輪招致のキーマン

 2020年の東京オリンピック開催を1年後に控え、大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」が放送されている。その第一話で、1964年の東京オリンピック招致成功のキーマンとして、星野源が演じる平沢和重が登場した。

平沢和重さん
 読者の多くにとっては、「平沢? Who?」だろう。1959年のIOC(国際オリンピック委員会)総会の立候補都市によるプレゼンテーションで、日本の担当者である北原秀雄が怪我をしたため、急きょ代役をつとめ、その見事なスピーチで東京オリンピック招致に大きく貢献したと評価されたのが平沢だった。

 当時、平沢はNHK解説委員。テレビでの解説を通じて広く知られていた。IOC総会の場では、テレビの解説で培われた技量が見事に発揮されたのだが、平沢が死去してからもう40年超。東京オリンピック招致の成功の記憶も、また平沢の解説も、人々の脳裏から消える一方だ。実は平沢は元外交官であり、戦後になってからメディアに進出したのだが、こうした経歴すらもあまり知られていない。

 平沢に関しては、遺稿を集めた、福島慎太郎編『国際社会のなかの日本 平沢和重遺稿集』(日本放送出版協会、1980年)が存在する程度である。平沢夫人が2018年に亡くなったこともあり、平沢を知る周辺の人々も減っている。

 筆者は2000年代初期、平沢和重について調べたことがあった。今はもう亡くなられた方々を含む関係者から、貴重なお話を伺うことができた。本稿は、そうした方々の証言を用いながら、「いだてん」で久しぶりに“復活”した平沢和重(星野源演じる)の、知られざる、そして時代を映した数奇な足跡を明らかにしたい。

大日本帝国の外交官として

 平沢は1909(明治42)年9月14日に生まれた。1930(昭和5)年3月に第一高等学校(一高)を卒業。1934(昭和9)年に文官高等試験外交科試験に合格し、1935(昭和10)年3月に東京帝大法学部政治学科を卒業すると、4月に外務省書記生に任じられた。

 同期生に吉田寛がいる。吉田寛は岸信介と佐藤栄作兄弟の従兄弟に当たる人物で、戦後首相になった吉田茂の娘の桜子と結婚した。吉田寛は1940(昭和15)年に早逝。生前の平沢は「吉田茂に桜子さんのことを頼まれた」と語っていたという。

 アメリカに赴いた平沢は1936(昭和11)年7月にベイツ大学を卒業した。ベイツ大学で出会った「パブリック・スピーキング」という科目が、戦後の平沢を助けることになる(『国際社会のなかの日本』289-291頁)。

 8月から1938(昭和13)年4月まで外交官補として在米大使館に勤務。斎藤博大使の秘書を務めた。平沢は大使に非常に可愛がられ、斎藤が懇意にしていた坂西志保とも面識を得た。坂西はアメリカで博士号を取得し、アメリカ議会図書館に勤務していた。ちなみに日本側への情報提供者であった。

 1938年5月に平沢は帰国。帰国の際、嘉納治五郎の最期を看取ったとされる。帰国後は1941(昭和16)年4月まで外務省アメリカ局第1課に勤務した。

 1941年4月にニューヨーク総領事館の領事に任じられ、再度アメリカに赴任した。渡米のとき、沖縄返還時の「密約」を証言したことでも知られる、吉野文六が同じ船に乗っていた。吉野はソ連経由でドイツに赴任できなかったため、アメリカ経由で派遣されたのだった。

 吉野は、当時の平沢を「平沢さんは右派であると聞いていました」「日本の上品な右翼という感じ」と評した。吉野のいう「右派」とは「対米戦争を恐れるべきでないと主張する」人々を指す(佐藤優『私が最も尊敬する外交官 ナチス・ドイツの崩壊を目撃した吉野文六』講談社、2014年)。

外務省革新派に連なる

 当時の外務省では、「革新派」と呼ばれる勢力が一定の勢力を誇っていた。彼らは従来の英米との協調を模索する路線ではなく、「新しい世界秩序の構築を目指し、その実現のために日本の外交体制の『革新』を訴えた」外交官である。「軍部以上の強硬論を吐」くことすらあったとされる。

極東軍事裁判で証言する白鳥敏夫=1947年12月11日、東京・市ヶ谷(GHQ提供)
 革新派の期待を集めたのは白鳥敏夫であった。白鳥は戦後にA級戦犯として禁固刑となる。白鳥と同様に革新派の尊敬を集めていた外交官に斎藤博がいた(戸部良一『外務省革新派』中公新書、2010年)。

 平沢夫人によれば、平沢は「白鳥敏夫を尊敬していたこともあった。人脈の面で言えば、斎藤博ら、革新派に連なるといってもよい」とのことだった(故平沢夫人談)。

 平沢が大使館時代に仕えた斎藤博は、アメリカに最も食い込んだと評価されていた外交官であるが、現在では、外務省革新派の一人として位置づけられている(渡邉公太「「革新派」外交官の対米外交 -斎藤博駐米大使と日米関係の一面-」『帝京大学文學部紀要』47号、2016年)。

 こうした斎藤大使との縁や日々の言動が、平沢の外務省内での評価につながったのであろう。

インテリジェンスの最前線で活動

寺崎英成さん
 ニューヨーク総領事館時代の平沢は、寺崎英成らと対米工作を担ったことが知られている。寺崎はFBIの報告書で、「アメリカにおける日本のスパイの責任者の地位にある」と指摘された人物であった(粟屋憲太郎『東京裁判への道』講談社学術文庫、2013年)。

 余談だが、寺崎は戦後に昭和天皇に聞き取りを行った。現在『昭和天皇独白録』として刊行されている。

 国際ジャーナリストの春名幹男は平沢について、「ニューヨーク領事として勤務、情報担当をしていた。在ワシントン大使館の情報担当一等書記官、寺崎英成はニューヨーク入りすると、必ず平沢に会った」と書いている(春名幹男『秘密のファイル 上巻』新潮文庫、2003年)。平沢はインテリジェンスの最前線で活動していた。

 こうした活動ゆえか、日米開戦の直前、外務省は平沢に南米への異動を命じた。南米は日本と同盟関係にあったナチスドイツの勢力圏と考えられていたからだろう。一等書記官の寺崎もまた、開戦直前に異動を命じられた。外務省から12月5日の時点で「一両日以内」に出発させよという異例の指示が来ていたという(柳田邦男『マリコ』新潮社、1980年)。

 外務省は日米開戦にあたり、インテリジェンスに従事した外交官たちをアメリカから逃がそうとしたのである。

 ところが、日米開戦の翌日の12月9日、イギリス領バルバドスで平沢ら外交官4人と夫人2人がアメリカに引き渡されたと報じられている(「読売新聞」1941年12月10日)。別の記事はより詳細に、平沢ら一行がニューヨークからブラジル行きの便に乗ったところ、バルバドスで下船を命じられ、アメリカに送還されると報道した(「朝日新聞」1941年12月21日朝刊)。平沢はアメリカやイギリスにマークされていたのであろう。

 アメリカに送還された平沢は、アメリカに残っていた外交官たち同様、ヴァージニア州のホット・スプリングスで抑留生活を送る。その後、ホワイト・サルファー・スプリングスのグリーンブリエル・ホテルに移動させられ、1942(昭和17)年8月に第1次交換船で日本に帰国した。

首相に建白書を提出し休職処分

 帰国した平沢は、1942年11月から1945(昭和20)年1月まで、大東亜省総務局総務課に勤務した。平沢は当時、ノンキャリアから「外務省の中の人格者」と評価されていたという。

 この頃の、平沢の言動が、近衛文麿元首相の娘婿である細川護貞(細川護熙元首相の父親)の日記に残されている。1944(昭和19)年3月3日時点で、平沢は白鳥敏夫大臣説を主張していた(細川護貞『細川日記 改版 上巻』中公文庫、2002年)。平沢の革新派としての活動は続いていた。

帝国議会の衆議院産業設備営団法委員会で説明する岸信介商相=1941年
 平沢は戦争継続派でもあった。戦争末期、平沢ら外務省革新派は岸信介のグループと接点があった。岸信介が戦争継続派であったことはよく知られている。平沢らも岸信介と同様に戦争継続を訴えていた。

 この頃、平沢は小川清四郎と総理大臣官邸に建白書を持参している。外務省革新派の連名によるものだった。小磯国昭首相宛ての「外交界ノ一大刷新ヲ熱望スル建白書」である。「幹部首謀者」に平沢の名前がある。彼らは豊富な運動資金を有していると見られ、資金源は岸信介との説も流れていた。

 建白書事件の結果、「幹部首謀者」であった平沢は1945年1月に休職となった。もっとも、平沢は大東亜省の田尻愛義次官に可愛がられていたため、そのあとも省内に一室を与えられていたそうである。

 平沢の革新派としての活動について、詳細を知っていたはずの関係者は正確な記述を残していない。例えば、平沢の遺稿を編纂した福島慎太郎(元外交官)は、その序で建白書事件に言及し平沢が「免職処分」となったと記したが(『国際社会のなかの日本』ⅱ頁)、これは事実ではない。正確な事実が語られなかった背景に、外務省革新派に対する「国を誤った連中」という外務省内からの批判が存在したため、関係者の口が重かったということがあるかもしれない。

8月15日の軍人の決起を懸念

 1945(昭和20)年8月15日の前日、平沢は知人宅でこう語っている。

 「明日からの日本は、今日までの日本とは違う。占領された日本だ」

 平沢は軍人の決起を恐れていたという。戦時中、お茶の水にあった文化学院が軍部に接収されていた。平沢はそこに週に一度通って、軍人たちと会合していた。彼らから情報を得ていたのかもしれない。そのため、8月15日の朝まで夜を徹して起きていた。

 同日昼、ラジオから流れた玉音放送を経て、日本は占領期を迎えることになる。

 大日本帝国の崩壊を受け、これまでと違う「占領された日本」で、平沢和重はいかに生きようとしたのか。

大阪駅前で敗戦を伝える昭和天皇の玉音放送を聴く人たち=1945年8月15日 

終戦の翌年に外務省を退官

 戦後、平沢は家族で岩手に疎開している。普段から「宮仕えは嫌だ」と語っており、休職中であった外務省に戻る気はないようだった。一方、外務省からも嫌われていた。平沢は公職追放されなかったが、休職が解けることもなかった。

 1946(昭和21)年6月に外務省を退官。外務省との縁は切れたが、アメリカをよく知っていることは、占領下において大きな意味を持っていた。

 平沢が身の振り方を相談したのは、斎藤大使に仕えた時代に接点を持った坂西志保だった。坂西は戦時中に平沢と同じ交換船で送還された後、日本で評論家や解説者として活躍していた。占領期にはCICで勤務したこともあった。平沢がGHQ相手の仕事を考えていると相談したところ、同じ事を考える人たちがいるだろうし、別々にやると無駄だから、一緒にやったらどうかと助言されたという。

「サーヴィス・センター・トーキョー」の活動

 坂西の助言を踏まえ、平沢は松本瀧蔵(明治大学教授。代議士)とともに1946年7月20日、「サーヴィス・センター・トーキョー」を立ち上げた。松本瀧蔵が理事長で、平沢は専務理事だった。場所は東京會舘別館の一室である。平沢が外務省を退官してから約1か月後に当たる。

 「サーヴィス・センター・トーキョー」の定款を見ると、アメリカ文化の紹介などが挙げられている。実際、英会話教室を開いたりしていた。平沢は『米国のレクリエィション』(社会教育協会、1948年)という本を出版。知米派として、アメリカに関する知識を紹介している。

 ただ、アメリカの知識を広げるというのはあくまで表向きの仕事。「サーヴィス・センター・トーキョー」の特記すべき仕事としては、公職追放解除関連事項が挙げられる。公職追放された政財界人からの依頼を受け、GHQに対して追放解除を働きかけることを請け負い、嘆願書の作成や資料作成等を行った。実際、平沢や松本瀧蔵の人脈を駆使し、追放解除を成功させている。平沢や松本瀧蔵らがGHQに食い込んでいたことが功を奏したのである。

 それゆえ、巷間では「対マ〔=マッカーサー〕司令部折衝部」と呼ばれたという(佐野眞一『巨怪伝 下巻』文春文庫、2000年)。民間におけるGHQ対策の最前線であった。

 平沢は戦前からの知米派としての実績を活用し、占領期には「民間の外交官」として引き続き活躍したのである。とはいえ、その活動に限界が来ることも容易に予想された。占領はいつの日にか終わりを迎えるからである。日本が独立すると「サーヴィス・センター・トーキョー」も消滅したと語る方もいた。

松本瀧蔵と「フジヤマのトビウオ」

 ここで、平沢と一緒に活動した松本瀧蔵について触れておきたい。平沢と松本瀧蔵は戦前以来、面識があった。

 松本瀧蔵は日系二世の明治大学教授であり、占領下の1946年に国会議員に当選した。戦前から野球をはじめ様々なスポーツとの関係が深かった。戦前のオリンピックに役員として参加したこともあった。

 戦後にはスポーツ関係でGHQに出入りしていた。例えば、古橋広之進が「フジヤマのトビウオ」として有名になった1949(昭和24)年8月の全米選手権大会への出場に際し、GHQの許可を得るべく奔走し、渡米を実現させたのが松本瀧蔵だった。占領下の日本は外交権が停止されていたため、GHQの許可を得なければ国外に出ることが出来なかったのだる。

 このように、松本瀧蔵は占領期に活躍した代議士の代表格であった。ちなみに、日本人がフリーメイソンに入ることが可能になるや、入会したことでも知られている。日本のフリーメイソンについては、筆者が論座に書いた「日本のフリーメイソンのこと知ってますか?(上)」「日本のフリーメイソンのこと知ってますか?(下)」 を参照されたい。

自ら売り込んでNHKの解説委員に

 「サーヴィス・センター・トーキョー」で仕事をする一方、平沢は新しい舞台であるメディアの世界に身を投じる。

 1948(昭和23)年7月からNHKの「中学高等学校の時間」に出演するようになった平沢は1年後の1949年7月、NHK解説委員に転じ、長く活躍することになった(「年譜」福島慎太郎編『国際社会のなかの日本 平沢和重遺稿集』日本放送出版協会、1980年所収、297頁)。

平沢和重さん
 平沢はかねて、アメリカのように実際の政治に影響力を発揮するようなラジオの解説をやりたいと周囲に語っていた。内容も、原稿をただ読むだけではないものを目指していた。伝手(つて)があるわけではない平沢は自らを売り込んだ。訪問先は笠置八千代(かさぎ・やちよ)の家である。

 笠置八千代は、宝塚の男役出身で、芸名を「碧川襄」(みどりかわ・ゆずる)といった。宝塚退団後に『婦人画報』の記者となった。結婚した夫の笠置正明が南京のドイツ大使館職員、日本大使館職員となったのに伴い、南京に滞在。戦後は評論活動を行い、ラジオで番組をやっていた。笠置正明は戦後、日本新聞協会で活躍した(笠置八千代『人に好かれるセンス 交際センス』実業之日本社、1973年、笠置正民編『愛隣人 笠置正明の想い出』笠置八千代、1987年)。

 笠置八千代に売り込んだことが、NHKでの活躍に繋がった。

 ラジオに登場する前、平沢は喋り方を勉強したいと語っていた。そこで新劇の芥川比呂志(あくたがわ・ひろし)に助けを求めた。平沢は芥川に稽古をつけてもらい、NHKのラジオ解説をやるための訓練をした。

 解説を始めた頃の平沢のあいさつは「みなさん、今晩は」。アメリカの番組で言う「グッド・イブニング」、聞き手と対等のレベルでものを話すという態度を真似したのだという(『国際社会のなかの日本』246頁)。

 こうした努力が実を結び、平沢は「マダム・キラー」として幅広い人気を博した。

『ジャパンタイムズ』との縁

 平沢が活躍したメディアに「ジャパンタイムズ」(The Japan Times)がある。こことの縁もまた、戦前来の経験につながっている。社長の福島慎太郎との縁(えにし)である。

 福島も元外交官だ。戦後は芦田均内閣の官房次長(現在の官房副長官に相当する)や、吉田茂内閣の調達庁長官(その後身は2007年に廃止された防衛施設庁)を務めた。福島も戦前の「外務省革新派」に位置づけられる人物であり、「革新派」だった平沢との関係は戦前から続いていた。

 官界から足を洗った福島は1956(昭和31)年1月12日にジャパンタイムズ社長となった(『読売新聞』1956年1月13日朝刊)。その後、共同通信の社長もつとめた。平沢がジャパンタイムズ主幹に就任したのは1956年4月のことである。ジャーナリズムの世界に身を投じた福島が、評論家として活動する平沢を引き立てた。

 福島は平沢の死後、その関係をこう振り返っている。

 「お互いのアメリカ時代、時の駐米大使斎藤博氏の感化を受けたこと、ともに外務省時代はほぼアメリカ専門の仕事であったこと、その後の人とのつながりが、ともに三木武夫、松本滝蔵といえる人々からはじまったこと、二人三脚で『ジャパンタイムズ』の再建を果したことなど、彼との交友なくしては私自身の人生も考えにくい」(『国際社会のなかの日本』ⅰ頁)。

 余談だが、福島は野球殿堂入りしている。千葉ロッテマリーンズの前身の球団社長やパシフィック・リーグ会長を務めたこと、野球協約を翻訳したことなどがその理由に挙げられている(「福島慎太郎 「野球協約」発効に尽力したパ・リーグ会長」2019年7月4日閲覧)。野球協約の翻訳には平沢も協力している。

ウマがあった三木武夫・元首相

 福島の回想に出てくる、三木武夫との縁について、最後に触れておきたい。

 戦前に、ロスアンゼルス領事を務めていた福島を、留学中の三木が訪ねている。両者は意気投合し、さらに福島が平沢を呼び寄せ、徹夜で飲み明かしたという。三木が1937年に代議士に当選した後も福島らとの関係は続く。戦後に忙しくなった福島が、自らの代わりとして推薦したのが平沢であった。

平沢氏を通じて伝えられた三木首相のメッセージを記録した米政府文書=米ミシガン州
 福島によれば、「以来戦後30年間、三木さんの演説みたいなものはほとんど平沢が書いたわけでしょう。簡単な記者会見みたいなものでも平沢に相談するということで今日に至っている」という(内政史研究会『福島慎太郎氏談話速記録』内政史研究会、1984年)。

 三木武夫と平沢との関係について、三木睦子夫人は「外国旅行の大半は平沢さんと一緒だったことからしても、気のおけないウマの会う友人だった」と評した。政治評論家の内田健三は「平沢に関しては意見を聞いているというより、つるんでいるという感じ」と評した。彼らはとても仲が良かったのだろう。

 個人的な関係のみならず、三木武夫は平沢の見識も評価していたのだろう。1974年に内閣総理大臣に就任すると、三木首相は平沢に外務大臣を打診した。平沢は辞去した(竹内桂「三木武夫」増田弘編『戦後日本首相の外交思想』ミネルヴァ書房、2016年所収)。

 晩年まで親しい関係が続くなか、三木政権の退陣を見届けたのち、平沢は1977(昭和52)年3月7日にこの世を去った。

東京オリンピック招致という最高の舞台

 本稿では、戦前、大日本帝国の外交官だった平沢が戦後、「民間の外交官」に転身するとともに、メディア界で目覚ましい活躍をする様子をたどった。平沢はアメリカで実際に体験したメディアの影響力を、日本でも再現しようと試みた。

 メディアを通じて社会を動かそうとした平沢にとって、東京オリンピック招致の際のスピーチは世界を相手にした最高の舞台だったであろう。

東京オリンピックの閉会式。花火が打ち上がるなかの「サヨナラ」= 1964年10月24日、東京・国立競技場で