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星野源演じる「いだてん」の平沢和重の数奇な人生

戦前の革新派外交官から戦後はメディアに転身。名スピーチで五輪誘致に貢献。

小宮京 青山学院大学文学部教授

外務省革新派に連なる

 当時の外務省では、「革新派」と呼ばれる勢力が一定の勢力を誇っていた。彼らは従来の英米との協調を模索する路線ではなく、「新しい世界秩序の構築を目指し、その実現のために日本の外交体制の『革新』を訴えた」外交官である。「軍部以上の強硬論を吐」くことすらあったとされる。

拡大極東軍事裁判で証言する白鳥敏夫=1947年12月11日、東京・市ヶ谷(GHQ提供)
 革新派の期待を集めたのは白鳥敏夫であった。白鳥は戦後にA級戦犯として禁固刑となる。白鳥と同様に革新派の尊敬を集めていた外交官に斎藤博がいた(戸部良一『外務省革新派』中公新書、2010年)。

 平沢夫人によれば、平沢は「白鳥敏夫を尊敬していたこともあった。人脈の面で言えば、斎藤博ら、革新派に連なるといってもよい」とのことだった(故平沢夫人談)。

 平沢が大使館時代に仕えた斎藤博は、アメリカに最も食い込んだと評価されていた外交官であるが、現在では、外務省革新派の一人として位置づけられている(渡邉公太「「革新派」外交官の対米外交 -斎藤博駐米大使と日米関係の一面-」『帝京大学文學部紀要』47号、2016年)。

 こうした斎藤大使との縁や日々の言動が、平沢の外務省内での評価につながったのであろう。

インテリジェンスの最前線で活動

拡大寺崎英成さん
 ニューヨーク総領事館時代の平沢は、寺崎英成らと対米工作を担ったことが知られている。寺崎はFBIの報告書で、「アメリカにおける日本のスパイの責任者の地位にある」と指摘された人物であった(粟屋憲太郎『東京裁判への道』講談社学術文庫、2013年)。

 余談だが、寺崎は戦後に昭和天皇に聞き取りを行った。現在『昭和天皇独白録』として刊行されている。

 国際ジャーナリストの春名幹男は平沢について、「ニューヨーク領事として勤務、情報担当をしていた。在ワシントン大使館の情報担当一等書記官、寺崎英成はニューヨーク入りすると、必ず平沢に会った」と書いている(春名幹男『秘密のファイル 上巻』新潮文庫、2003年)。平沢はインテリジェンスの最前線で活動していた。

 こうした活動ゆえか、日米開戦の直前、外務省は平沢に南米への異動を命じた。南米は日本と同盟関係にあったナチスドイツの勢力圏と考えられていたからだろう。一等書記官の寺崎もまた、開戦直前に異動を命じられた。外務省から12月5日の時点で「一両日以内」に出発させよという異例の指示が来ていたという(柳田邦男『マリコ』新潮社、1980年)。

 外務省は日米開戦にあたり、インテリジェンスに従事した外交官たちをアメリカから逃がそうとしたのである。

 ところが、日米開戦の翌日の12月9日、イギリス領バルバドスで平沢ら外交官4人と夫人2人がアメリカに引き渡されたと報じられている(「読売新聞」1941年12月10日)。別の記事はより詳細に、平沢ら一行がニューヨークからブラジル行きの便に乗ったところ、バルバドスで下船を命じられ、アメリカに送還されると報道した(「朝日新聞」1941年12月21日朝刊)。平沢はアメリカやイギリスにマークされていたのであろう。

 アメリカに送還された平沢は、アメリカに残っていた外交官たち同様、ヴァージニア州のホット・スプリングスで抑留生活を送る。その後、ホワイト・サルファー・スプリングスのグリーンブリエル・ホテルに移動させられ、1942(昭和17)年8月に第1次交換船で日本に帰国した。

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筆者

小宮京

小宮京(こみや・ひとし) 青山学院大学文学部教授

東京大学法学部卒業。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。専門は日本現代史・政治学。桃山学院大学法学部准教授等を経て現職。著書に『自由民主党の誕生 総裁公選と組織政党論』(木鐸社)、『自民党政治の源流 事前審査制の史的検証』(共著、吉田書店)『山川健次郎日記』(共編著、芙蓉書房出版)、『河井弥八日記 戦後篇1-3』(同、信山社)など。

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