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「不確実性の時代」を直視した大平首相に戻れ・上

衆参同日選を初めて断行した大平首相はなぜ消費税導入を目指したのか

山本章子 琉球大学准教授

1979年の新年を迎えるにあたっての記者会見をする大平正芳首相=1978年12月28日

衆参同日選の元祖は大平正芳首相

 7月21日に投開票される参院選も終盤戦。巷には候補者の名前を連呼する選挙カーが走り回っている。

 今回の参院選をめぐっては、選挙前、衆参同日選の憶測が飛び交った。言うまでもなく、衆議院の解散権は首相の専権事項であり、首相が権力の行使を実感する瞬間に他ならない。首相の座についた政治家は、誰もが解散権の行使を考えるという。

 歴代首相の最長の在任期間をうかがおうとする安倍晋三首相も例外ではない。2012年に首相の座に返り咲いて以来、2014年11月21日の「アベノミクス解散」と、2017年9月28日の「国難突破解散」の2度、衆議院を解散している。1度目は、消費税引き上げ延期の是非を問うたもの。2度目は、少子高齢化と北朝鮮の核開発問題という、二つの「国難」への対応だとされた。いずれも、周到な段取りと力業で解散に持ち込んだだけに、今回の参院選に合わせた同日選の風評も、かなりの信憑性をもって永田町を席巻した。

 結局、選挙は参院選単独となり、同日選は回避されたが、そもそも国会の両院を同時に選挙する(参議院の半数は改選されないが)という驚くべき手法が登場したのは、今から39年前、1980年6月22日の衆参同日選までさかのぼる。前代未聞の試みに踏み切った大平正芳首相は、だが、選挙期間中に心筋梗塞で緊急入院し、そのまま帰らぬ人となった。大平首相の急逝は有権者の同情票を集め、自民党は圧勝する。

 文字どおり“命を賭けて”衆議院を解散した大平氏だったが、前年の解散ではつらい経験をしている。勝利を予想した1979年10月7日の衆院選で、自民党は議席を1減らし、党内から「敗北」を責め立てられた(これが衆参同日選への遠因となる)。衆院選の敗因は、大平首相が消費税の導入を掲げたことだといわれている(党内の激しい反対により、選挙戦中に主張を取り下げだが)。

「増税を掲げた選挙は敗北」が政界の“常識”だが

soi7studio/shutterstock.com
 以来、増税を掲げて選挙を戦うと負けるというのが政界の“常識”となった。その意味で、今回の参院選にあたり、安倍首相が消費税を予定通り2019年10月に10%に引き上げると明言したのは異例ともいえる。5年前の「アベノミクス解散」とはうってかわり、首相は財政の健全化と社会保障の充実には消費税増税が不可避だと強調する。

 政界の常識に挑んだかたちの参院選の行方は、はたしてどうなるだろうか。それを考えるために、消費税導入に挑んで失敗した大平氏の軌跡を振り返ってみたい。当時の日本は現在と同様、赤字国債の解消と社会保障制度の維持という二つの問題を抱えていた。大平氏の消費税導入の主張の根本には、日本の高度経済成長の時代が終わったという厳しい現状認識があった。翻って安倍政権はどうかというのが本稿の問題意識である。

1970年代の財政赤字の原因

 まず、大平氏が首相になった1978年当時、日本政府が直面していた財政赤字の問題を概観する。

 大平氏が消費税導入を目指したのは、彼が三木赳夫内閣の大蔵大臣だった1975年に、第1次石油危機で落ち込んだ景気への対応策として、建設国債に加えて、いわゆる「赤字国債」と呼ばれる、特例公債を初めて発行したことへの責任感だとされる。1970年代末までに、国債依存度は20%を超えていた。

就任後、内外記者団と初めて記者会見をする田中角栄首相=1972年7月19日、首相官邸
 赤字国債の増大は深刻な歳入不足に由来していた。その原因は、第1次石油危機よりもむしろ、田中角栄内閣が1973年に「福祉元年」とめいうって、70歳以上の医療費無料化や、年金スライド制などを実現したことにある。

 社会保障関係費の増大は、政府の支出の大きい比率を占めるようになり、大幅な歳入不足を招く。自民党が、業界団体の要求に応じて社会保障関係費の支出を増やしていったことが、歳入不足と赤字国債依存をさらに悪化させた。1970年代半ばから、国会は、自民党の議席数が過半数を超えるものの安定多数を下回る、与野党伯仲の状態にあった。これを乗り切るため、自民党は、「バラマキ」政治に走ったのである。

 他方、サラリーマンを中心に、有権者の間には税の徴収の不公平に対する強い不満が存在していた。「9・6・4(クロヨン)」もしくは「10・5・3(トウゴウサン)」といわれる、会社員などの給与所得者ばかりが、税の徴収を厳しく管理されている問題である。

 給与所得者は、一般に給与から自動的に税金が天引きされる源泉徴収によって所得税などが納付されている。そのため、所得の9割以上が税務当局に捕捉される。これに対し、自営業者などの事業所得者の場合、所得捕捉は収入の約6割、農業所得者の場合、約4割に過ぎないといわれていた。これがクロヨンであり、給与所得者の不公平性はもっと高いという、トウゴウサン説もあった。

 折しも、1971年から米の「減反政策」が始まり、稲作の他の農作物への転作を行った米農家には、田の減反10アールにつき、1万5000円の補助金が支給されていた。毎年夏になると、農協の代表団が自民党本部前に大挙して押しかけ、「米価闘争」を展開。自民党「農林族」議員が、激励に駆けつけ、「皆さんの要求実現に全力を尽くしてまいります」と決意表明する光景は、農業所得者が優遇されているというサラリーマンの不満を一層強めた。

大平氏の「安くつく政府」論

 もちろん、赤字国債を初めて発行したことへの贖罪(しょくざい)意識だけから、大平氏は消費税導入を目指したのではない。大蔵官僚だった頃から大平氏は「安くつく政府」論者だった。氏が衆議院選挙に初当選した翌年の1953年に刊行した著書『財政つれづれ草』には、次のようなエピソードが出てくる。

 第1次吉田茂内閣で石橋湛山氏が大蔵大臣となったとき、大平氏は大蔵官僚として予算編成の仕事を担当した。大平氏は石橋蔵相に、生まれ故郷の香川県三豊郡和田村の田中次郎村長から手紙で届けられた建議を伝える。田中村長いわく、「国は惨めな敗戦の憂き目をみたのに、義務教育は六・三制とやらで六年を九年に改める。役人の数はふえる。国有財産を思い切って処分しようという勇断も見られない。これでは再建の目処が立たない」

 石橋蔵相はノーコメントだったが、大平氏は著書に「今でも田中村長の献策が正しいと信じている。(中略)わが国の中央、地方の財政が、田中村長の指向する方向に外れる許りか、曲ったり逆もどりをしていることに痛憤を禁じ得ない」とつづり、こう力強く書く。「これからの政治は、この弊風を如何にして是正して安い政府をどうして作り上げるかということがその悲願であらねばならない」

 彼の財政哲学は首相になるまでぶれなかった。1978年の自民党総裁選に出馬した大平氏は「できないことはできない、という政治をやる必要がある」と、政府が税や福祉に関して、国民の負担増大を要求すべきだと主張する。対抗馬の福田赳夫首相が、高度経済成長時代の手法から脱却していない、GNP偏重の財政政策をとっていることへの批判だった。

就任後初の施政方針演説をする大平正芳首相。経済成長至上主義の時代から文化重視の時代に至ったとの認識を示した。後方は保利茂衆議院議長=1979年1月25日
 首相の座に王手をかける大平氏が掲げた新時代のビジョンは、「文化の時代」であった。一言でいえば、脱高度経済成長のスローガンである。大平氏は、日本が「ぶたのように肥ったのがいいのか、ソクラテスのように痩せておっても品位があるのがいいのか」というたとえを用いて、国民に財政再建のための負担を迫ろうとした。

 総裁選で福田首相を破り、首相として初の施政方針演説に臨んだ大平氏はこう述べる。

 「経済の成長に支えられ、中央、地方を通じて、政府に対する期待や行政の民間への介入は年とともに増大し、行政事務の煩瑣化と財政の肥大化がとみに進んできました。政治の国民生活への過剰な介入や国民の政治への過度の期待は、この際改められなければなりません」

行政改革は困難。増税を選択

 ただし、財政赤字への対応策は必ずしも一つではなかった。

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