山本章子(やまもと・あきこ) 琉球大学准教授
1979年北海道生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了。博士(社会学)。2020年4月から現職。著書に『米国と日米安保条約改定ー沖縄・基地・同盟』(吉田書店、2017年)、『米国アウトサイダー大統領ー世界を揺さぶる「異端」の政治家たち』(朝日選書、2017年)、『日米地位協定ー在日米軍と「同盟」の70年』(中公新書、2019年)など。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
消費税の引き上げを問う参院選。不確実な時代だからこそ必要な愚直な政治姿勢
1979年8月末の朝日新聞世論調査では、自民党の支持率が52%に達した。これは、過去最高だった1964年6月の池田内閣期の数字に匹敵する。ただし、大平首相が解散の時期に9月を選んだのは、支持率よりも大きな理由がある。景気の推移だ。
1978年1月に、イラン革命が勃発。同年末には、石油輸出国機構(OPEC)が、翌年より原油価格を4段階に分けて値上げすると決定した。第2次石油危機の始まりである。大平首相の経済ブレーンたちは、1週間ごとに景気の推移のレポートを首相に提出する。石油危機の影響の見通しをもとに、解散時期の候補は3つに絞られた。
1979年の秋の衆院選か、1980年夏に衆参同日選をやるか、1980年秋まで衆院選を延ばすか、である。
解散の時期が遅くなるほど、石油危機の影響は深刻になるというのが、大平首相のブレーンたちの見立てだった。経済企画庁も、1980年夏頃が景気の底になるという意見だった。そのため、大平首相は解散を急いだのである。
消費税導入をめぐる自民党内の根回しが不十分なまま、解散を急いだのは拙速だった。選挙期間に入ると、少数派閥を率いる河本敏夫政調会長は、「増税なき財政再建」路線を掲げる。そのほかの自民党候補者たちも、消費税反対を聴衆に訴えた。しかも、ブレーンたちの景気判断は外れた。1979年から翌年にかけて、景気はそれほど下降せず、むしろ上向き傾向を見せる。
しかし、大平首相が解散へとひた走ったことは、三木派、福田派との派閥抗争を再燃させた。三木氏も福田氏も、首相在任中に解散を望むも、大平氏に阻止されて果たせなかったからである。
大平首相からすれば、派閥間の根回しで首相になった三木氏・福田氏と、自民党総裁選で勝利して、正々堂々と首相の座についた自分は違う、という思いが強かったのだろう。逆に、三木氏と福田氏は、まだ首相として再登板のチャンスがある、という思いを抱いていた。それぞれの思惑は、解散総選挙の自民党「敗北」を機に、国会の首相指名で自民党票が分裂するという「40日抗争」に発展することになる。
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