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野球先進国ウガンダのチームに南スーダンの難民が

野球人、アフリカをゆく(8)国民の約3分の1が難民、避難民の南スーダンの現実

友成晋也 一般財団法人アフリカ野球・ソフト振興機構 代表理事

SSBCで流された、平和式典におけるキール大統領の演説シーン=2018年10月31日

<これまでのあらすじ>
野球を心から愛する筆者は、これまでのアフリカ赴任地ガーナ、タンザニアで、仕事の傍ら野球を教え普及してきた。しかし、危険地南スーダンへの赴任を命ぜられ、さすがに今回は野球を封印する覚悟で乗り込んだ。ところが、あきらめきれない野球への思いが、次々と奇跡的な出会いを生み出し、ついに野球教室開催までこぎつけた。そこに集まる選手たちの素性が徐々にあきらかになってゆく。

突然の祝日に開かれた「平和式典」

 2018年10月31日水曜日。ジュバの宿舎の最上階にある私の部屋に、朝から妙齢の男女3人が集った。

 仕事をさぼっているわけではない。この日は急遽、南スーダンは全国的に祝日になったのだ。楽しい飲み会が始まるわけでもない。一緒にテレビを観るのだが、映画やサッカーの試合中継を見るわけでもない。

 「さあ、やっと始まるみたいですよ」と待ちくたびれて、やや疲れた表情で言うのは、内川知美。JICAの職場でとても頼りになる敏腕次長だ。

 「炎天下の中、朝早くから集められた人たちは大変ですよねえ」と、職場では安全管理担当所員のイマニ。

SSBC(南スーダン放送)で放映された平和式典に集まる群衆の光景=2018年10月31日
 これから始まるのは、南スーダン政府が主催する「平和式典」だ。ジュバの街中の公共の広場で公表10万人の市民が集まっているらしい。実際はおそらくその10分の1くらいなのだろうが、そんなに広くない場所に人が集まっているので、テレビの画面を通してみる会場は人が溢れかえっているように見える。

 実はこの日、職場の日本人スタッフはこの3人だけで、他のメンバーは全員南スーダン国外にいる。この平和式典の名前とは裏腹に、なにか騒乱が起きるかもしれない、という可能性が否定できないため、「予防退避」をしているのだ。残ったのは、私と内川次長の管理職二人と、安全管理担当のイマニのみ。

 と言っても、市内は警備がやや厳重になっているようだが、雰囲気は平穏そのもので、特段の緊張感が感じられるわけでもない。否定できない危険な可能性がゼロでなければ手を打っておく、ということなのだ。

南スーダンの二人のライバルが和解

ジュバ市内に設けられた「平和式典」の巨大宣伝看板。式典が1日遅れて10月31日になったが、看板の日付は30日のままだった。
 テレビは朝からずっと生中継だ。10時から開催予定だった式典は 昼過ぎにようやく始まり、海外からの来賓客や、国連関係者などの祝辞が延々と続く。合間にトラディショナルダンスなどの余興も入りながら、日が少し陰ってきた頃、恰幅(かっぷく)のいい貫禄ある男性が登場した。

 「おっ!いよいよマチャール元副大統領の登場ですよ。どんなことを話すんですかねえ」と、やや興奮気味のイマニ。

 「2年ぶりの祖国登場ですからね」と内川次長。

 マチャール元副大統領と、現大統領のキール。この二人のぶつかり合いが、そもそも、南スーダンの平和を阻んできたのだ。我々は固唾(かたず)をのんでテレビ越しに見守った。

 ここで少し平和式典の背景を解説しておきたい。

 8月終わりに私が赴任した直後の9月12日。平和構築に向け、政府側、反政府側の合意により「衝突解決再活性化」の合意が成立した。

 南スーダンの紛争は、2011年に独立した後の、政府内の権力闘争と民族紛争が絡み合った争いなのだが、もっと簡単に言えば、大統領と副大統領のライバル対決である。南スーダンの35%強を占める第一多数派ディンカ族出身のキール大統領と、25%を占める第二多数派のマチャール副大統領。2016年の衝突が起きた際に、両民族が中心になって闘争が展開され、マチャール大統領は国外に退避した。

 それから2年たち、政府軍、反政府軍が、近隣諸国の仲介の元、和解し、新たに暫定政権を作ることに合意したのだ。平和式典は、それを祝うものだ。

 副大統領側は、安全面が確保されていないことを理由に、当初不参加を表明した。大統領側はメンツをつぶされまいと、強く参加を促す。平和を祝うはずの式典をめぐって緊張感が増すという皮肉な情勢になったが、最終的に、仲介役のスーダン・バシール大統領(当時)や、ウガンダ・ムセベニ大統領の後押しもあり、無事出席に至ったようだ。

大統領がふと漏らした謝罪の言葉

平和式典開催時期に、ジュバに残留した日本人3人組がちょうど映っている写真(平和式典を祝っているものではなく、後日開催した職場のクリスマスパーティ時のもの)。画面中央あたりに写っているのが内川知美次長。左にイマニ。
 マチャール副大統領は、はつらつと政治家らしい饒舌なスピーチを行った。そして、最後を締めたキール大統領は1時間に及ぶ演説の中で、「国民に迷惑をかけて申し訳なかった」と謝罪の言葉を述べた。

 「大統領が謝罪の言葉を言うなんて、衝撃的ですね」とイマニ。もともとスーダンからの独立闘争を展開してきた盟友のはずの二人だが、マチャールは大学院まで出たインテリ。キールは小学校しか出ていないが、その包容力のある人柄でのし上がってきたという。

 原稿なしに滔々(とうとう)と演説をしたマチャールに対し、大統領は原稿を読みながらの演説ではあったが、ふと漏らした謝罪の言葉に、人間的な本音が表れているような気がして、少し気持ちが和んだ。国民の約3分の1が難民、避難民として家を追われている現実が、大統領を映すモニターにオーバーラップしているように見えた。

ウガンダで再会したジョパ・ローズさん

 その翌日、私は隣国ウガンダの首都、カンパラに飛んだ。JICAが南スーダンの支援するプログラムのひとつに農業セクターの支援があり、その進捗(しんちょく)確認や課題について協議する会議に出席するためである。

 2016年7月にJICAが退避して以来、邦人スタッフはカンパラにあるJICAウガンダ事務所の一角を借りて暫定オフィスを構え、遠隔オペレーションをしてきた。人材育成プログラムなどでは、南スーダンから対象者をウガンダに招聘(しょうへい)し、南スーダンに入国できない日本人専門家やコンサルタントがそこで指導するという形で、2年間やってきた。しかし、ジュバに邦人スタッフも復帰したので、ウガンダでこうした会議を行うのはこれが最後になる。

 その会議の前日。移動してJICA事務所に打ち合わせを行った後、夜の会合まで少し時間が空いたので、旧知のウガンダ人と会うことにしていた。宿泊先のホテルのロビーで待っていると、その人物が現れた。

カンパラの宿泊先に会いに来てくれたジョパさん。今は二児の母親にしてシングルマザー。ソフトボール選手としても現役を続けているため、動きが軽やか。
 「ミスター・トモナリ!」

 駆け寄ってハグしてきたのは、ウガンダ人女性のジョパ・ローズさん。ウガンダのソフトボール代表選手だ。

 出会いは15年前にさかのぼる。2003年にナイジェリアの首都アブジャで、アフリカのオリンピック大会といわれる「オールアフリカゲームス」が開催されていた。アテネオリンピックの前年であり、この大会は多くの競技でオリンピック出場権をかけた選考大会になっている。野球とソフトボールもそのうちの一つだった。

 私はかつて指導したガーナチームの応援をするため、当時東京の職場から1週間ほど休暇をもらい、応援に来ていた。しかし、資金難により、ガーナチームはぎりぎりのところで出場断念、というオチが待っていた。残念に思いながらもせっかく来たのだからと、野球とソフトボールの試合を観戦し、多くの野球関係者たちと旧交を温めた。

 彼らとの出会いを説明するには、さらに4年、時を遡らなくてはならない。1999年9月に南アフリカのヨハネスブルグで開催されたオールアフリカゲームスがその場だった。高橋尚子選手がマラソンで金メダルを取ったシドニーオリンピックの前年である。

ウガンダの選手が「教えてください」

 当時、私は野球とソフトボールのアフリカ予選にガーナ代表チームを率いて参加していた。野球の予選参加国は、南アフリカ、ナイジェリア、ジンバブエ、ガーナ、レソト、ウガンダの6か国。敵でもあるが、アフリカの中では超マイナーな野球をやる仲間同士でもある。監督会議や選手村などで、各国の野球関係者との接点が多くあり、親交が深まった。

 ヨハネスブルクのグラウンドでは、予選大会初出場のウガンダチームが練習をしていた。大会期間中、試合のないチームは指定グラウンドで練習ができるのだ。私がガーナのユニフォームを着て眺めていると、大柄のウガンダ人選手が声をかけてきた。

 「ミスター・トモナリ!ガーナチームだけじゃなくて、俺たちにも野球を教えてください」

 最初はからかってきたのかと思ったが、その青年のまっすぐな目を見ていると、あながち冗談にも思えない。

 「なんで僕の名前を知ってるんだい?」

 「だって、背中にTOMONARIって書いてあるじゃないですか」

 そうだった。代表チームのユニフォームの背中は背番号だけなのだが、私のユニフォームは選手たちに名前を憶えてもらうために名前入りにしていた。名前がユニフォームに刻まれるプロ野球選手への憧れがあったことは否定しないでおく。

 「でも、君たちにも監督がいるじゃないか」

 ウガンダの代表チームの監督は、宣教師でウガンダに来ていたアメリカ人。近所の野球をちょっと知ってるおじちゃんが仕事の合間にコーチをやるようなものだったようだ。
私も人のこと言えないが……。

 「ガーナチームの練習はとてもオーガナイズ(組織化)されている。ウガンダ野球は始まったばかり。いろいろ教えてほしいんです」

 とはいえ、一国の監督である私が他の国の選手を教えるわけにはいかない。すると、ガーナチームのコーチとして帯同していた青年海外協力隊員の堤尚彦が、「僕がちょっと教えてきますよ」と申し出てくれた。ちなみに、彼は後におかやま山陽高校の野球部を甲子園に導いた名将となるだけに、教え方が非常にうまい。

シエラ会長との出会いと再会

 「そうか。頼む」と言いながら、“仁義”を切っておこうと、ウガンダチームの監督を探したが、見つからず、代わりに野球連盟協会長のシエラさんに面会した。カンパラでホテル経営をしているという恰幅のいい女性会長に、「かくかくしかじかで、うちのコーチがトレーニングを指導させてもらうことになりましたが、よろしいんですか?」と尋ねると、「大歓迎です。とてもありがたいです。うちは指導者がレベルも人数も不足しているので、とにかくいろいろ学び習得したいんです」と、何度も謝意を繰り返す。

 当時、まだ35歳の若造だった私に謙虚に頭を下げるシエラ会長。そして、ガーナ代表チームのユニフォームを着たコーチに指導を受ける一生懸命なウガンダの選手たちに、とても好感を覚えた。

 滞在期間中、何度も顔を合わせたシエラ会長に、ウガンダ野球を発展させる秘策を伝えた。それは、ガーナに派遣されている堤隊員のように、青年海外協力隊の野球指導者をJICAウガンダ事務所に依頼することだった。

 話を2003年に戻す。アブジャを訪問した時、シエラ会長とも再会できた。ちょうどウガンダチームが試合をしている観客席でだった。

 「シエラ会長!ご無沙汰しています」

 びっくりした顔のシエラ会長に歩み寄り、3年ぶりの再会をハグして喜び合ったあと、「ウガンダ野球はどうですか?」と尋ねると、「以前よりベターになってきたけど、まだまだ弱いですね。でも教えてくださった野球隊員の申請が通って、もうすぐコーチが派遣されるんですよ」という。

 「それはよかった!体格もいい選手も多いし将来が楽しみですね。また、ウガンダは女子のソフトボールチームも出場しているんですね!」

 女子ソフトのアフリカ大会ではあるが、大会に参加しているのは、南アフリカ、ナイジェリア、コートジボワール、そしてウガンダの4か国しかいない。

 「そうなの。女子の方がレベルが高いかもしれないわね。男子よりもうまい選手がいるのよ」と驚くことをいう。

「ウガンダ・パールズ」を日本に招く

2003年にナイジェリアの首都アブジャの野球場で出会った頃のジョパ選手。試合でひときわ輝く実力派のリーダー的選手だった。
 興味を持った私は、そのあと、女子ソフトボールの試合を観に行った。確かにひときわ、強肩できびきび動いている選手がいた。それが当時19歳のジョパ選手だった。試合後、球場を出てきたジョパ選手に声をかけた。

 「君は上手だねえ。いつからソフトボールを始めたの?」

 いきなり話しかけてきたカメラを持った東洋人の私を、ジャーナリストと思ったのかどうかわからないが、ちょっとはにかみながら、「私はもともとは野球選手なの」という。「男子よりも肩が強いし、どこでも守れるのよ」と勇ましい。

 この年、2003年の7月は、アフリカと野球を通じた交流協力を広げていこうと「NPO法人アフリカ野球友の会」を立ち上げたばかりだった。ガーナでの監督業がきっかけではあったが、野球は相手がいなければ始まらない。ガーナだけを強くするより、アフリカ全体を視野に入れた野球の振興が必要だと感じていたため、ガーナ以外の国のサポートもしようと考えていた。

 少しずつ野球が広がり始めたばかりのウガンダの子供たちを日本に招聘したら、面白いだろうな。青年海外協力隊員が配置されるなら、連携も取りやすい。

 ナイル川の源流を擁する高原地帯の常春ウガンダは「アフリカの真珠」と言われ、美しく穏やかな自然と豊富な農産品が産出される。そして、国民性もその気候のように穏やかだと言われる。素直で一生懸命なウガンダの選手たちを見ていると、それを実感する。

 そんな思い付きのアイデアを、シエラ会長に尋ねてみると、「もしそれが実現するなら夢のようです。ウガンダで野球やソフトボールに取り組む若者たちに夢と希望を与えることができます」と喜んだ。

 それは翌年、2004年に実現する。設立したばかりのアフリカ野球友の会の総力を挙げて、募金を集め、助成金を申請し、協賛金や多くの方の支援、協力を得て、ウガンダから12人の少年少女野球チームを3週間日本に招くことに成功した。「ウガンダ・パールズ」と名付けられたチームは、10歳から15歳までの野球少年たちが中心で、6歳の少年と17歳のソフトボール女子1名。そして、チームの最年長者であり、みんなのまとめ役が、20歳になったジョパ選手だった。

ジョパ選手が発した意外な一言

来日したウガンダ少年少女野球チーム(ウガンダパールズ)のメンバー。後列左端がシエラ会長。
 この時の来日がきっかけで、帰国後も主にメールやSNS で連絡を取り合い、長い付き合いとなった彼女は、今回の私のウガンダ訪問をとても喜んでくれた。カンパラ市内の自分の職場である感染症研究所の仕事が終わり次第、私の宿泊先に駆け付けてきてくれたのだ。

 「ミスター・トモナリ。当時のパールズの他のメンバーにも声をかけたんですけど、カンパラに住んでいる人は少なくて、来れる人が私しかいなくて、ごめんなさい」と言いながらちょこんと頭を下げる。素直な性格は昔から変わらない。

群馬県甘楽町で、元西武ライオンズの石毛宏典さんに特別コーチをしてもらったパールズのメンバーの様子。
 「いや、いや、声をかけてくれてありがとう」と言いながら、よく考えたら、あれから15年がたつ。10歳だった少年でさえ、25歳になっている。もう立派な社会人だ。

 ジョパも今や二児の母。離婚して、両親と一緒に子供を育てながら、生活をしている。
来日当時の話やメンバーの近況などにひとしきり話が弾んだところで、「そういえば」とジョパが尋ねる。

来日中は野球だけではなく、日本文化体験プログラムも盛り込んだ。浴衣を着て書道に挑戦するジョパ選手。
 「南スーダンでも野球を教えているんですね。フェイスブックでいつも拝見しています。ミスタートモナリはどこに行っても野球に対してパワフルですね」と言われ、「Like you!(君みたいにね)」と、冗談をいいながら、「でもウガンダのレベルに比べたら、足元にも及ばないよ。なんせ南スーダン野球は、まったくのゼロから始まったばかりだからね」と本音を返す。

 すると、ジョパは意外な一言を発した。

 「そういえば、ウガンダの野球チームの中に、南スーダン人が混じってましたよ。今はもう南スーダンに帰ったのかもしれません」

 南スーダン人がウガンダで野球をやっていた?
 今はもう帰国している?
 難民だったのか?

 突如、ひらめくものがあった。

難民に会ってみたい

 今や野球がすっかり盛んになったウガンダは、東アフリカ地域の野球の盟主ともいえる野球先進国だ。大量の南スーダン難民がウガンダに押し寄せている中で、野球に接する機会があったとしてもおかしくはない。

 かつてガーナの若者たちがキューバの職業訓練プログラムに招聘され、滞在中に野球を覚え、帰国後野球チームを作ったのが、ナショナルチームのもとになった。

 ウガンダで野球を学んだ南スーダン人が、一人なのか、複数なのか。そもそも難民としてウガンダにわたった人たちが、野球をやるなんてことが起こりうるのだろうか。

 難民のいる場所にいってみたい。
 難民に会ってみたい。

 南スーダンに赴任する前からの思いが、ジョパのひと言でさらに強くなった。そして、それがいよいよ実現することになった。(続く)