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民有地で起きた米軍規制 沖縄の記者が抱える屈辱

日本人で立ち入りを許されたのは、封鎖する憲兵の食事を届ける宅配ピザ店員だった。

松元剛 琉球新報社執行役員・編集局長

 2004年8月13日午後、沖縄県宜野湾市にある米軍普天間飛行場のヘリが、隣接する沖縄国際大学に墜落しました。あれから15年。沖縄の記者たちにとって、在沖米軍機の墜落などの重大事故が起きるたびに、屈辱を帯びた記憶が脳裏によみがえります。琉球新報の松元剛執行役員・編集局長によるシリーズ「基地の島・OKINAWAの今と未来への展望」。第2部は、具体的な基地問題の取材現場で起きた出来事を通じて感じている「『不都合な真実』を隠す日米地位協定」について、3回に分けて報告します。(論座編集部)

「日米地位協定」に起因するひずみが市民生活を脅かす

 「日米地位協定」は在日米軍の組織、軍人、軍属の法的地位や権限を定めている。公務外の犯罪でさえ、日本の裁判所で刑事責任を問うことがないままうやむやにされたり、早朝、深夜になっても激しい爆音を振りまき、航空基地周辺住民が命の危険を訴えても訓練を止めることができなかったりする。

沖縄の記者が抱える屈辱①大学本館に激突した後、黒煙を上げて激しく炎上する米海兵隊のCH53D型ヘリコプター=2004年8月13日午後、宜野湾市宜野湾の沖縄国際大学、琉球新報提供

 基地外の民間地で発生した墜落事故に関しても、墜落原因を探る最大の物証である米軍機の機体に日本側の警察や消防は指一本触れることができず、基地内外で米軍に起因する環境汚染が発生しても「国土」の内にある基地への立ち入りを拒まれ、対処することができない。

 いずれも、日本が「主権国家」として機能しているのかという強い疑念を抱かせる。そんな駐留を追認する日本政府による財政支援(いわゆる「思いやり予算」)は、世界ダントツの水準で増え続けている。

 在日米軍専用基地の70%以上が集中する沖縄県では、「日米地位協定」に起因するひずみが市民生活を脅かす実害となって息づく。だが、私たちの政府は、地位協定の弊害を改めるどころか、米軍が駐留する他国と比べても優位であるというフェイク(偽情報)を振りまき続けている。日米地位協定は、住民の生活を侵害する「日米安保体制」の裏面を照らし、「不都合な真実」を覆い隠すあしき触媒として機能していると言うしかない。

 基地の島・OKINAWAで基地問題を長く追ってきた記者の一人として、数々の現場取材で起きたことを通し、基地による重圧の根幹に横たわる日米地位協定の問題点を照らし出してみたい。

見知らぬ人に子ども預け墜落現場へ

 在沖米軍機の墜落などの重大事故が起きるたび、沖縄の記者たちの脳裏に屈辱を帯びた記憶がよみがえる。

 それは、2004年8月13日午後、宜野湾市の米軍普天間飛行場のヘリCH53Dが隣接する沖縄国際大学に墜落した日だ。

 日米地位協定の裏解釈マニュアルとして用いられ、対米従属を積み重ねた外務省の機密文書「日米地位協定の考え方」を1月1日付で特報したのを機に、前泊博盛キャップ(当時、編集委員、現沖縄国際大学・大学院教授)と共に取り組んだ地位協定改定キャンペーンが一区切りついたばかりのころだった。

 入社してから初めて10日間以上取ることになっていた夏休みの初日、小学3年生同士の娘と姪っ子を連れ、約3キロ離れた宜野湾市内の劇場で上演されていた夏休みの児童向けミュージカルの入り口の列に並んでいた。劇場の逆方向を見渡すと、普天間飛行場がある高台方面から真っ黒な煙が立ち上っているのが見えた。嫌な予感が的中した。私が携帯電話を手にしたのと、社会部デスクからの着信はほぼ同時だった。「沖国大に米軍のヘリが落ちた。すぐ現場に行ってくれ」と指示を受けた。見ず知らずの隣席の女性に、娘と姪っ子の世話をお願いし、タクシーで現場に向かった。

 沖国大に向かう道路は500メートル手前から渋滞がひどく、タクシーを降りて徒歩で向かった。あと5分はかかろうかという地点に差し掛かった時、燃料が燃えた時のすえた刺激臭が鼻を突いてきた。これほど離れた所までにおうということは相当な重大事故に違いない―と考えながら、現場に近づいた。沖国大の周辺道路や大学構内には、10センチほどの太さの黄色いテープが規制線として張り巡らされていた。道路を挟んで少し小高い場所に行くと、校舎に激突して炎上したヘリの黒ずんだ機体全体が見下ろせた。息をのんだ。「これで死傷者が出ていないわけがない」と。

沖縄の記者が抱える筒辱①炎上した米軍ヘリの墜落現場を封鎖され、立ち入りを拒まれ、座り込む沖縄県警の捜査員=2004年8月13日午後、沖縄県宜野湾市の沖縄国際大学、琉球新報提供

立ちふさがって叫んだ。「ノー・カメラ」

 現場前の道路に戻り、カメラを構えようとすると迷彩服を着た米兵が立ちふさがって叫んだ。「ノー・カメラ」。基地外の道路で、米兵の規制を受ける理由はない。墜落した機体の財産権は米軍に属するという記述はあっても、日米地位協定にも民間の土地を米軍が制御する権利は書かれていない。しかし、殺気だった米兵たちは撮影妨害を続け、こちらが怒鳴っても、腰の辺りに回した手を放さず、道路の反対側に押し出されることが続いた。

 同僚や他社の記者の多くが、道路の反対側の民家側に回って撮影場所を確保していた。その民家の2階には若い母親と生後2カ月の赤ちゃんがいたが、その上を網の入ったアルミサッシを突き破って飛び込んだ部品が室内の壁にめり込んでいた。取材した記者の誰もが「よくけがをしなかったものだ」と思った。

 基地問題を長く追ってきたこともあり、私は墜落現場周辺の取材は同僚たちに任せ、墜落事故の原因をたどれる現場はないかを探った。知り合いの県警の捜査員に電話を入れ、墜落現場から約300メートル離れた志真志公民館のわきの土手に、大きな部品が落ちているとの情報を得た。

沖縄の記者が抱える屈辱①ヘリ墜落現場を撮影しようとするテレビ局のカメラマンの撮影を妨害し、力ずくで排除しようとする米海兵隊員=2004年8月13日、宜野湾市宜野湾の沖縄国際大学近く、琉球新報提供

撮影妨害に怒りが爆発した

 大学への米軍ヘリ墜落という異常事態に強い怒りを覚えたが、「冷静になれ」と自分に言い聞かせ、急いで公民館裏に向かった。急斜面の下の草地に3、4メートルはありそうな大きな部品が落ちていて、青いシートが覆っていた。市道沿いに黄色の規制線テープが張られ、そこも立ち入りが規制されていた。

 私がカメラを構えると、4、5人の若い米兵が人垣を作って妨害した。ラグビーのステップを踏むように右に左に動いても彼らは追ってきて瞬時に人垣をこしらえ、撮影を邪魔した。いたちごっこが続いた。

 「邪魔だ、どけ」と叫び、私は跳び上がったり、じだんだを踏んだりしながら抗議の意思を示したが、撮影妨害は続き、らちがあかない。怒りが爆発した。思わず、荒っぽいウチナーグチが口を突いて出た。「いったー(お前ら)、たっくるさりんどー(ぶっ殺すぞ)」。

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