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「表現の不自由展」の中止が突きつけた重大な課題

「あいちトリエンナーレ2019」の目玉企画はなぜ中止されたのか。何を考えるべきか

米山隆一 衆議院議員・弁護士・医学博士

展示の中止が決まった後、報道機関に公開された「表現の不自由展・その後」=2019年8月3日、名古屋市東区

企画展の中止に議論が沸騰

 愛知県内で開催されている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が、展示内容に対する多数の抗議が来たと報じられたのち、河村たかし・名古屋市長が中止を求め、その翌日には芸術総監督である津田大介氏が、警備上の懸念を主な理由として中止を発表したことが、大きな議論を巻き起こしています。寄せられた抗議にはFAXで「ガソリン携行缶をもって行く」というテロの予告とすら思える内容のものもあったと言います。

 この件をめぐっては、SNS上では、表現の自由と政治・公金との関係等について様々な論点がみられました。そこで本稿では、それらを整理して論じたいと思います。

政治的表現は「表現の自由」の対象ではない?

 まず、「この展示会の展示物は芸術と言うより政治だから、表現の自由の対象ではない」という論点がありました。

 政治的表現も「表現」ですので、政治的だから「表現の自由」の対象ではないということは全くありません。また、逆に芸術が何らかの政治的主張を含んでいることは少なくなく(西欧中世期の宗教画は明らかな宗教的宣伝ですし、その後のルネサンス期の人物画は中世期の王権神授説的政治体制への反抗という意味もあったと思います)、政治的表現と芸術表現を分けることは意味がないと思います。

賛同できない人がいる展示に公金を使うべきか?

「表現の不自由展・その後」の展示中止を知らせる案内板=2019年8月4日、名古屋市東区
 次に、「国民の多くが賛同できない様な内容の展示に、公金を使うべきではない」という論点がありました。

 公金の使用対象は、確かに「公共の福祉」を向上させるためにふさわしいものであるべきだと思います。しかし公共の福祉の向上に資する支出とは、決して個別の費目が常に多くの人に向けられていることを要するものではありません。

 たとえば、れいわ新選組で話題になっている重度訪問介護の利用者数は1万人ほどで国民の0.01%ですが、そういう少数の人のニーズを一つ一つ満たすことで「公共の福祉」が向上することは少なくありません。むしろ、一つの支出が国民の大多数のニーズを満たすことの方が稀(まれ)であると思います。

 「表現」に関する実例を挙げれば、県などでしばしば行われている県民による「書道展」があります。生活の中で書道に親しんでいる人は恐らくは少数派ですが、そこへの公金の支出を問題視する人はほとんどいません。少数の人の表現のために公金を使うこと自体は普通に行われており、格別問題があることではありません。

 もちろん、公共の福祉の向上に反するような表現、明らかなヘイト表現や、多くの人に事実を誤認させ、公に害を及ぼすような表現に対する公金の支出は避けるべきだと思います。ただしここで、難しいのは、何が公共の福祉の向上に資し、何が反するのかの線引きです。そこは、ある程度主観によるしかないのは否めないなのですが、そのうえで民主的なプロセスで選ばれたその自治体の首長(若しくは首長の指揮下にある担当者)が決し、その判断について次の選挙で評価されるのが、民主主義の原則であると思います。

 従って今回の件においては、「あいちトリエンナーレ」の主催者である愛知県知事、もしくはその指揮監督下にある担当者が、展示されている「表現」が国民の一定割合の人が望む物でないとしても、他方でその「表現」を希望する人も相当数いて、「幅広い表現の自由を認めることが、公共の福祉の向上に資する」と判断したのなら、そこに公金を支出することは何の問題もないと思います。

 話は少々わき道にそれますが、上述のように行政の長としての政治家は、国民の生活に直結する様々な部分を決しうるのであり、この点は選挙においてきちんと考えておく必要があります。換言すれば、選挙における選択は極めて重要であるということになります。

日本人・皇室へのヘイトだから展示はダメか?

「表現の不自由展・その後」の展示室は来場者が増えて入場制限がかかり、展示室前では行列ができていた=2019年8月3日、名古屋市東区の愛知芸術文化センター
 第三の論点は、「この美術展で展示されていた表現は、日本人に対するヘイトだから展示してはいけない/公金を支出してはいけない」というものです。

 そう感じる人がいるのは事実でしょうが、同時に8月1日に開幕してから3日間、「表現の不自由展」は行列ができる盛況だったと報じられており、そのように感じない人も多数いるのも、また事実です。私自身は、報道されている展示が日本人へのヘイトだとは全く感じません。

 日本は自由主義の国として表現の自由が幅広く認められており、「表現の自由」の例外として表現それ自体が規制されるのは、名誉棄損、業務妨害、差別禁止条例違反等、法令に反するものに限定されています。展示を不快に感じる人がいるということは、展示してはいけない理由にはなりません。

 公金の支出については、第二の論点で述べた通りになります。これらの展示を見て不快に思う人がいるとしても、そのこと自体は、展示に公金を支出してはいけない理由にはなりません。民主的に選ばれた代表が、「幅広い表現の自由を認めることが、公共の福祉の向上に資する」と考えて公金の支出を認めているなら、何ら問題のあることではありません。

 第四の論点は、「この美術展で展示されていた表現は、天皇・皇室に対する侮辱だから展示してはいけない/公金を支出してはいけない」というものです。

 議論はほとんど第三の論点と重なります。そのように感じる人がいるのは事実ですが、そのように感じない人もいます。私自身はそのようには感じませんし、個別の事情はさておくとして、戦前の大日本帝国憲法において「元首」と定められている以上、戦争の悲惨さやその責任を問う文脈の中で、一つのアイコンとしてネガティブな表現の対象となることは、表現の自由の一環としてありうると思います。

 いずれにせよ、この美術展での展示内容は、現日本国憲法が認める「表現の自由」の文脈において、問題のあるものではないと考えます。公金の支出についても、民主的に選ばれた代表が、この様な表現を含む「幅広い表現の自由を認めることが、公共の福祉の向上に資する」と考えて公金の支出を認めているなら、何ら問題はありません。

運営側の対応に瑕疵はあったか?

記者会見で「表現の不自由展・その後」の中止を表明する愛知県の大村秀章知事=2019年8月3日、名古屋市東区の愛知芸術文化センター
 第五の論点は、「この様な抗議や批判、妨害が起こりうることは当然予想できるはずだったのに、それに備えていなかった運営側の責任である」です。

 まず「抗議」については、この指摘はある程度当てはまると思います。是非や好悪は別にして、SNSが発展した現在、議論を呼ぶような催しは何かのきっかけがあれば、すぐに「抗議」が殺到し「炎上」します。ことに今回の展示は、時節柄、一定数の抗議が来ることは相当程度に高い確率で予想されるものでした。

 一方、これらの展示会で運営に当たるイベント会社スタッフや、抗議の電話を受ける県庁職員は、決してクレーム対応の専門家ではありません。中止の会見に際して津田氏が述べた「抗議が殺到して現場が混乱しスタッフが疲弊した」は、ある意味必然であったと言えます。こういった抗議は、最初から「Q&A」を作り、専門の部署を設けて、あらゆる抗議はその部署に回して「Q&A」に沿って対応するよう決めておくことで、ずっとスムーズに対処できるものです。この点については、運営の反省点は一定程度あると思います。

 ですが、「妨害」については、明らかに悪いのは妨害を行った人です。ことに「ガソリンの携行缶を持っていく」などというFAXを送った人は、明白に脅迫、業務妨害であり、テロの予告とすら言えるものですので、愛知県警は全力で捜査に当たるべきです。この点について運営側の不備を責めるのは、まったくお門違いであろうと思います。

 ただし、運営側に県・県警も含めるのであれば、事前にそこまでの妨害がありうることを予想するのは難しく、妨害が明らかになった以上安全を守るためにいったん中止することは止むを得ないとしても、一定期間の後に警備を整えて対応することはできないのかという問題は残ります。

名古屋市長・大阪市長の中止申し入れは問題か?

会見する名古屋市の河村たかし市長=2019年8月5日、名古屋市役所
 第六の論点は、「名古屋市長や大阪市長が中止を申し入れたのは問題だ」というものです。

 まずもって、政治家として「意見」を表明するのは自由だと思います。とはいえ、河村名古屋市長の様に、いきなり「中止」を要請し、中止後も関係者の「謝罪」を求めることは、明らかに行きすぎだと思います。上述した通り、公金の支出としてふさわしいか否かを判断する権限は基本的にトリエンナーレ実行委員会会長の大村秀章・愛知県知事にあり、大村知事がこれを認めた以上、それを尊重するのが、地方分権であり、民主主義です。

 以上、SNS上で頻見した六つの論点を整理しました。まとめると、
①今回の展示は「表現の自由」の文脈で問題となるようなものではなく、当然保護されるべきものである。
②今回の展示に対する評価は分かれるにせよ、民主的自治体である愛知県において民主的に選ばれた大村知事が認めている以上、公金の支出も問題ないということになると私は思います。

「困難」をどこまで引き受けるか?

 そのうえで、実のところ①②の議論の整理は事前についていたからこそ、「表現の不自由展・その後」は開催されたと考えられるのですが、本件ではさらに「想定以上のクレームの発生」、「妨害の予告」という現実の困難が発生したことが中止の直接の原因となりました。

 ここはあまり議論されていないところですが、上記の①②の整理と同時に、「現実の困難」と「表現の自由」の相克、裏から言うと、「表現の自由」を守るためにどこまで「現実の困難」を引き受け、コストとリスクを負担するかという問題もまた、本件によって突きつけられていると私は思います。

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