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「ゆりかごから墓場まで」福祉国家イギリスの変容

日本の社会保障制度・医療制度改革を考える前に学ぶことがあった。

石垣千秋 山梨県立大学准教授

 「ゆりかごから墓場まで」――。福祉国家のイギリスを象徴したこの言葉を、子どものころに学校で習った覚えはありませんか。国民や居住する外国人に原則無償で医療を提供する「国民保健サービス(NHS)」がスタートしてから70年が過ぎました。日本も様々な部分でイギリスの医療を参考にしてきました。そのイギリスでも、時代とともに構造変化が起きています。高齢社会の日本も、イギリスのいいとこ取りはできません。日本の医療制度改革を考えるうえで、まずイギリスの「ゆりかごから墓場まで」の理想と現実について、医療政策に詳しい政治学者、石垣千秋さんにリポートしてもらいます。(「論座」編集部)
筆者からおことわり

今回のシリーズの目的は、福祉国家と言われたイギリスの変遷を論じることにあり、政治や社会のどのような出来事が契機となって変動が起きたかを年代順に書いています。そのため、記事に出てくるその時々の制度と現在の制度は異なっている部分もあります。また、記事中の「GP」はイギリスで「Home doctor」として親しまれており、日本語で「家庭医」などと訳すことがありますが、今回のシリーズでは従来の訳に従い「一般医」としています。筆者として、なるべく中立的に制度を伝えるためです。

変わらない大原則「無償で医療を提供する」

 今年7月24日、イギリスに新しい首相が誕生した。かつてロンドン市長を務めたこともある、保守党のボリス・ジョンソン首相である。イギリスの欧州連合(EU)離脱(Brexit)を巡って下院を解散した上、選挙に敗れたて辞任に追い込まれたテレーザ・メイ首相の後任になった。ブレグジットを巡っては、イギリスが欧州連合と合意なき離脱の道を歩むのか、欧州連合からとの間に何らかの妥協策を模索するのかはまだ不透明な部分が多い。

揺りかごから墓場まで①イングランド北東部のボストンにあるピルグリム病院を訪問したジョンソン首相=2019年8月5日、AP

 そもそも欧州連合は、第二次世界大戦後にドイツとフランスが経済協力を行うことにより、欧州大陸諸国の安定と平和を目指す理念にもとづいて形成され、イギリスが後に加盟し、さらに冷戦終結後には旧東欧諸国も加盟することにより拡大した。イギリスが離脱することになれば、戦後欧州の在り方が一つの大きな変化を迎えるということができる。

 ところで、第二次世界大戦後の(旧西側)ヨーロッパ諸国は、戦争国家から福祉国家へ変化をとげ、発展してきたと理解されている。福祉国家の中でも、英国は「ゆりかごから墓場まで」という言葉によって広く知られている。ナチスドイツとの激戦からイギリスを勝利へと導いたウィンストン・チャーチル首相が残した言葉である。

 中でも特徴的なのは財源をほぼ租税(財源の80%以上、財源の約16%が国民保険料)で賄い、国民及び居住する外国人に原則無償(ただし、眼鏡と入れ歯は対象外であり、処方薬には一定額までの自己負担がある)で医療を提供する「国民保健サービス(National Health Service:NHS)」である。ある政治学者は、NHSを「(英国福祉国家の)王冠の中の宝石」とも表しているほどである。

 この数年、欧州連合離脱が政治的争点となり、日本でもその報道が多くなっているが、昨年NHSは施行から70年を迎え、イギリス内で記念イベントも開催された。当然のことながら、他の先進国と同様、NHSの改革も続けられており、特に保守党サッチャー政権、労働党ブレア政権のもとでは大きな改革が行われた。しかし、普遍的に英国民と一定の条件を満たした居住者に「無償で医療を提供する」という大原則には変更はなく、宝石の輝きは今なお失われていない。今回からNHSを中心としたイギリスの医療保障について若干紹介していきたい。

揺りかごから墓場まで①NHSの病院を訪れるメイ首相と閣僚ら=2019年1月7日、AP

5大巨悪は「窮乏、病気、無知、不潔、怠惰」

 日本ではまれにしか意識されていないが、イギリスはイングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドからなる連合王国である。連合王国の総人口は約6,600万人(2018年)であり、イングランドとウェールズにその約84%にあたる約5,900万人が居住している。NHSはこの両国の制度であり、スコットランドはほぼ同様の制度を有するが若干異なる。したがって、ここでイギリスの医療制度、NHSについて説明する場合には、イングランドとウェールズの制度と読み替えてほしい。

 そもそも医療や年金などの社会保障は、地域や職場を基盤に作られた互助会組織が起源となっている。それに国家が介入し、老齢年金と疾病保険(医療保険)によって社会保険制度を導入したのがプロイセンの宰相ビスマルク(1884年)である。日本では明治時代中期から企業で医療保険が導入されはじめ、大企業を中心に健康保険組合の組織化が進み、1922年には健康保険法が成立した。そのため、社会保障を論じる場合、社会保険式を基本とした制度を「ビスマルク式」と呼ぶことも多い。

 しかし、社会保険式の場合、ある制度の被保険者の場合にはその保険のメリットを享受できるが、そうでない場合には当然メリットを受けることはない。国民皆保険を実現している日本でも、大企業と中小企業、公務員がそれぞれ異なる被用者保険、また自営業や農業などを営む人が国民健康保険に加入し、さらに後期高齢者医療制度が独立していることにより、制度が複雑で負担や財源、手当等の面で制度間に相違がある。社会保険の中でも、老齢年金保険を考えてみれば国民年金のみの加入者と厚生年金の加入者では、老後の年金額に大きな違いが出ることはよく知られている。

 ドイツの制度を取り込み、イギリスでも1911年にロイド=ジョージ内閣のもとで医療保険制度が導入された。しかし、その後も加入者が大企業に勤務する本人などに限定され、国民の多くに拡大するまでには至らなかったという。第一次世界大戦直後には、医療保険の被保険者と無保険者の違いが顕著になったことから医師会や医学会、保健大臣などから国民皆保険を目指す様々な案が提案された。だが、国民皆保険が実現に至らないまま、第二次世界大戦が始まり、英国ではドイツのヒトラーと対峙する中で、1940年5月チャーチルを首相とする戦時内閣が成立した。

揺りかごから墓場まで①イギリスのチャーチル首相=1944年、AP

 政権交代前から経済学者の立場から戦争遂行のための生産体制や軍備の推計、また労働省の局長として徴用体制の整備などで政府に貢献していたのがウィリアム・ベヴァリッジである。ベヴァリッジは1941年6月に政府の求めに応じ、戦後復興の在り方について各省庁の代表からなる「社会保険及び関連サービスに関する各省委員会」を率いることになった。この委員会は当時の11ある省庁の代表を委員とし、社会保険及び関連サービスを調査したうえ政府への勧告を行うことを任務としていた。

 国営保健事業や普遍的な児童手当を含む報告書の内容が徐々に明らかになるにつれ、メディアを通じて国民の関心は高まっていったが、代表者を出していた各省庁と大臣はその内容の具体化に対する責任を問われることを恐れて、委員を顧問の位置付けに変更するという対応を取った。そのため、最終的に委員長であるベヴァリッジが唯一正式な委員であり、一人で報告書に署名をして1942年11月に公表した。その報告書がいわゆる「ベヴァリッジ報告」である。この中でベヴァリッジが5大巨悪としたのが「窮乏、病気、無知、不潔、怠惰」である。そして、それらを解決するために社会保険を普遍的に提供することを強調した。

 チャーチル首相をはじめ当時の政府は、この報告書にはあまり関心を示さなかったという。ところが、この報告書を積極的に活用したのが情報省の大臣だった。情報省とは、戦争プロパガンダを担当する省庁であり、ベヴァリッジ報告がプロパガンダに役立つと考えたのである。小冊子になって出版されたベヴァリッジ報告は、大変な反響を呼んだという。ドイツのビスマルク式の福祉国家と訣別し、新たな福祉国家を創設するという大義名分が、ナチスドイツとの戦いを遂行する前線の兵士たちを勇気づけた。やがて、ノルマンディー作戦に成功したイギリスなどの連合国側の勝利によって、第二次世界大戦は終戦を迎えた。

NHS導入に医師会は反発

 1945年5月の総選挙でベヴァリッジ報告を活用し、過半数の議席を獲得したのは労働党だった。イギリスを勝利に導いたチャーチル(保守党)の演説でさえ、かき消されるほどの熱狂をもって迎えられた労働党政権の首相にはクレメント・アトリーが就いた。政権に期待された役割は、戦後の財政難の解決と同時に福祉国家の建設だった。

 ベヴァリッジ報告に基づいた国営保健事業を実現する法律として、1946年には「国民保健サービス(NHS)法」が成立した。しかし、NHSの実現にはここからが困難な途だった。なぜなら、それまでは加入者が限られた社会保険制度での診療、あるいは自由診療を行っていた開業医に対して、国営事業のなかでは「公務員」として政府が給与を支払うことになるからである。

 アトリー政権で保健大臣になったアナイリン・ベヴァンに対して、従来のように自由に報酬を得られない給与所得者になると察した開業医たちは医師会を通じて政府の方針に反対し、メディアを巻き込んでベヴァン保健相を悪魔に見立てたキャンペーンを展開した。医師会とは対照的に、病院は国営化に大きな抵抗は見せなかった。英国の病院には、修道院や寄付で成り立つチャリティー団体、つまり民間が設立主体となっているものも数多くあったが、第二次世界大戦の総力戦の中でほぼ国営に近い形で運営されていたからである。

揺りかごから墓場までグレートオーモンドストリート病院を訪れるキャサリン妃=2018年1月17日、AP

 ベヴァン保健相は、NHSの実現に向けて何度も医師会と交渉を重ねた。その結果、双方の妥協案となったのは、その後の3年間に開業医に高額な固定給を約束した上で、その後も自由診療を認めることだった。すなわち、勤務時間内にはNHSの診療医(公務員)として診療を行うが、勤務時間外には(いわば公務員の立場を離れて)自由診療を行う時間外労働を可能としたのである。病院に対しては、日本でいう差額ベッドにあたる「アメニティベッド」が認められ、他の病床よりも快適な療養環境を提供して利益を得ることも認められているほか、多くはないがNHSの対象とはなっていない民間病院も存在する。妥協策によって、ベヴァリッジ報告に盛り込まれた国営保健事業が実現し、ベヴァン保健相は「NHSの父」と呼ばれている。

自由主義国に生まれた社会主義的な制度

 ケン・ローチ監督の『1945年の精神』の中には、労働党の大勝利に対する人々の熱狂と共に、「今日から無料」になった医療に対する人々の興奮が記録されている。NHSは、世界が東西に分かれた戦後、英国内のみならず、諸外国からも注目を浴びた。自由主義国に生まれた社会主義的な制度として受け止められたのである。日本でも大蔵省理財局の『調査月報』(1948年、第37巻特別第2号)でもが詳細な報告書を刊行するなど高い関心を集めた。

 このように、ほとんどの財源を租税とし、国民などの居住者に普遍的に医療を無償で提供するイギリスの医療制度NHSだが、その成立時の政治的妥協によって、制度の表向きには無償の医療を全ての人に提供し、制度の裏側では高額な自由診療を、それを選択する人に提供するという二重性が存在することになった。日本人の感覚からすると、無償で医療が提供されるのであれば、自由診療は不要だという思いも持つかもしれない。しかし、フリーアクセスを原則とし、近隣の開業医や大病院のいずれにしても比較的短い時間で受診できる日本とイギリスの事情は異なっている。

揺りかごから墓場まで「NHS England」のHP

 イギリスの場合、救急搬送を除き、まずは登録のあるごく初期のプライマリー医療を担う一般医(General Practitioner)を受診しなければならない。一般医の判断に応じて病院の各診療科の医師に紹介状が送られ、病院から受診日の連絡が来る仕組みとなっている。もし紹介状がないまま病院を直接受診すると、具合の悪いまま数時間放置されるという、事実上のペナルティを科せられることになる。さらに、一般医の受診までもある程度の時間を要とする場合が多く、成立から70年間の間に様々な改革が試みられた現在でも、受診を希望してから48時間以内に受診できない状況を克服することが政府の目標となっている。一般医から病院の受診に至っては、さらに数週間から数か月を要する場合もあり、「待機者リスト」をいかに短くするかが歴代政権の課題だ。

 だからこそ、民間保険に加入して自由診療を選択する、ある程度経済力のある国民も少なくない。大企業では、福利厚生一つとして自由診療の医療負担をあげているところもある。イギリス人が高く評価し、世界に誇る医療制度ではあるが、自由診療という別の抜け道を有する医療制度でもある。

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