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なぜ安倍政権は対韓強硬措置に独走するのか/上

植民地支配をめぐる日韓「歴史戦」の最前線

武藤一羊 評論家


拡大「強制動員を謝罪し 賠償判決を理解しろ」などと書かれたプラカードを持ち、ソウルの日本大使館に向かってデモ行進する元徴用工の支援者ら=2019年8月15日

「歴史戦」の最前線

 元徴用工問題を引き金とする日韓の衝突の核心は、大日本帝国の朝鮮侵略、植民地化、日本帝国への併合が正当であったかどうかをめぐる衝突にほかならない。「産経新聞」の用語を借りれば、今回の対決は「歴史戦」の最前線を形作っている。

 元徴用工への補償問題の形で争われているのは、1965年日韓基本条約第2条の「1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国の間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効である」という玉虫色の表現を、「調印当時は有効、したがって韓国併合は合法」と読むか(日本)、「当時から無効」と読むか(韓国)をめぐる対決である。

 前者の解釈をとれば、日本国は、大日本帝国による韓国の併合と植民地化について謝罪や賠償の責任はないとなる。そしてこれが、安倍政権のみならず、戦後日本国家が一貫して譲らないできた立場でもある。この「併合は合法→当然」という日本国家・人民に深く埋め込まれた宗主国的価値が温存され、増殖し、表面に出るとき、隣国からの使者の発言を「極めて無礼でございます」などと言って遮る外務大臣も出てくるのだ。隣国の使者にたいしてこれこそ「無礼」な発言である。植民地はなくなっても植民地主義はカビのように広がる。「併合は合法」という前提が、今日でもこの隣国にたいしては宗主国意識を生き延びさせているのである。

 この「核心的価値」=歴史総括をめぐる対決は新しいものではない。だが1965年日韓基本条約の調印以後、この問題はいわば水面下に押し込まれ、経済制裁にまで至る政府間の公然たる政治的対決として表面化することはなかった。それがなぜここへ来てこれほど激しい対立として公然化したのか。

日本帝国の正当化―安倍政権の「核心的価値」

 戦後の日本外交を振り返ってみると、日本が自前で、すなわち単独でリスクをとる覚悟で、他国との対決に入ったケースを私は知らない。それは、戦後日本の外交が米国の軍事・外交政策の関数だったからである。多くの場合日本のアジア政策は対米政策の一部であった。

 例えば、60年代の日本・ベトナム関係は、日本とベトナムの関係というより、米国のベトナム(干渉・戦争)政策の一部であった。そして、何より、問題の1965年の日韓基本条約も、米国のベトナム戦争の後方を固め、韓国軍をベトナムに送り込む必要から、強引に米国によって朴正煕政権に押し付けられたもので、その結果あの玉虫色の第2条が生まれたのである。何より、日韓関係それ自身が、大幅に、米国の冷戦政策、そして冷戦後の東アジア戦略の構成部分として成立していたと言えるだろう。

 しかし今回はすこし違う。安倍政権は、アメリカにとって「関東軍」になったのであろうか、アメリカの戦略や意思とは無関係に、自己の責任で隣国への報復という重大な措置に踏み切ったのである。戦後、日本がこのような決断と選択を行うのは初めてのことではないだろうか。その結果生じる日韓の亀裂は、米国戦略の下での米日韓の軍事的結合の維持・強化を必要とするアメリカの東北アジア戦略の前提を崩すことになる。アメリカはこの独走にどのように反応するだろうか。米国戦略への一体化を前提としてきた日本国家にとって、それは統治の根本にかかわる問題であろう。

 ではなぜ安倍政権はあえてこのような危険な選択に踏み切ったのか。

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筆者

武藤一羊

武藤一羊(むとう・いちよう) 評論家

1931年東京生まれ。東京大学文学部中退。初期の原水禁運動の専従、ジャパン・プレス社勤務などを経て60年代べ平連運動に参加。69年、英文雑誌『AMPO』創刊。73年、アジア太平洋資料センター(PARC)を設立、96年まで代表、共同代表を務め、国際プログラム「ピープルズ・プラン21」を推進。98年「ピープルズ・プラン研究所」を設立、その共同代表を経て、現在運営委員。83年より2000年までニューヨーク州立大学(ビンガムトン)社会学部教員

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです