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山川健次郎と日米親善/『書簡集』が示す真実

初めて公開される書簡の現物・控え・草稿から読み解く

小宮京 青山学院大学文学部教授

mTaira/shutterstock.com

 山川健次郎という人をご存じでしょうか? 明治維新に際し“賊軍”とされた会津藩出身でありながら、日本初の理学博士となり、東京帝大総長を務め、昭和天皇の教育に携わるなど、近代日本の教育界に大きな足跡を残した人物です。山川氏に注目することで、近代日本を「敗者」の視点から読み直すことができるという小宮京・青山学院大学文学部准教授が、氏の遺族や関係者の協力を得つつ、一次資料に基づいて、その足跡を明らかにするシリーズ。3回目は彼が残した「書簡」を読み解きます。

東京帝国大学総長時代に着目

 会津出身で、東京帝国大学総長、九州帝国大学初代総長、京都帝国大学総長を歴任した山川健次郎について、会津の歴史観の形成に大きく寄与したことや(「会津の歴史認識と山川健次郎」) 、旧会津藩主の松平容保の孫にあたる松平節子と、昭和天皇の弟宮である秩父宮雍仁親王との結婚に際して裏面で活躍したことなど(「会津の雪冤と山川健次郎」)、その活動を紹介してきた。その際に用いたのは、ご遺族が所蔵されている世に知られていない資料だった。

 これまで2回は、会津出身者としての健次郎の活動に焦点を当ててきた。今回は、東京帝国大学総長時代の活動について見ていきたい。

 今回用いるのは、ご遺族の手元に残っていた『書簡集』と題された新出資料である。ご遺族の了解が得られたため、引用は必要最小限の範囲に留めつつ、紹介したい。

山川家による健次郎の遺稿編纂事業

山川健次郎さん)
 山川健次郎が1931(昭和6)年に没すると、遺族は健次郎の業績を後世に伝えるために、遺稿の収集・編纂作業を行った。その成果は形になっている。

 一般に公開されているものとして、花見朔巳編『男爵山川先生遺稿』(故男爵山川先生記念会、1937〔昭和12〕年)という書籍がある。現在は、国会図書館近代デジタルコレクションで広く公開されている。

 同書の「緒言」に記された刊行の経緯を確認すると、山川家が健次郎の遺稿出版を計画していたが、その事業を伝記編纂会が継承したと説明されている。ちなみに「伝記編纂会」の事業は、花見朔己編『男爵山川先生伝』(故男爵山川先生記念会、1939〔昭和14〕年)という書籍に結実した。

 一方で、山川家の編纂作業も継続していた。その一部は、ご遺族宅に所蔵されている「遺稿 一~七」(以下、「遺稿」原稿と呼ぶ)として結実した。この「遺稿」原稿を選別した上で、製本したのが『山川博士遺稿』上・下巻(私家版)である。さらに、この『山川博士遺稿』の一部を抜粋したものが、会津若松市立会津図書館が所蔵する、櫻井懋編『補遺(未定稿)山川健次郎博士遺稿』(私家版、1969〔昭和44年〕)である(小宮京・中澤俊輔「山川健次郎「遺稿」の基礎的考察」『青山史学』第35号、2017年)。

 これら未公刊の「遺稿」は、山川家やその関係者が、健次郎の原稿や談話、原稿類をまとめたものであった。

 それ以外にも山川家による編纂作業が実施されていた。健次郎による書簡を編集したのが、今回紹介する『書簡集』という位置づけになる。

『書簡集』とは何か

山川健次郎氏の『書簡集』の表紙=ご遺族提供
 『書簡集』は、書簡を写した用箋(ようせん)に、厚紙の表紙を表裏に付し、紐でとじた冊子体である。大きさはB5判くらいで、全体でおよそ400ページほどであろうか。かなり分厚い。

 収録されているのは、健次郎が出した書簡の現物や、その控え、あるいは草稿である。とりわけ多くを占めるのは、おそらく編纂時に現物が残っていたであろう、妻の鉚(りゅう)宛の書簡である。編者によると、旅行先から留守宅の妻に宛てたものだという。

 一方で、健次郎が就いていた公職関係、例えば東京帝国大学総長時代の書簡は「草稿」や「控え」と注記がなされている。当然とはいえ、書簡は他者に宛てたものであるから、差出人の手元に現物は残らない。残るのは、必然的に「草稿」や「控え」になる。

 こうした性格を持つがゆえに、『書簡集』には一定の限界が存在する。

 まず、健次郎の書簡や草稿の全てを網羅してはいない。例えば、ご遺族所蔵の新出資料として、前回記事で紹介したのは、1927(昭和2)年4月23日付の一木喜徳郎宮内大臣に宛てた書簡であった。だが、これは『書簡集』には収録されていない。

 これは、『書簡集』編纂の時点で、既に健次郎の関係資料が散逸していた可能性を示唆する。あるいは前述の書簡は皇室に関する内容を含むために、編者が掲載を見送った可能性もある。付け加えると、『書簡集』には一木宛の書簡は含まれていない。非常に残念である。

 さらに、健次郎が受け取った書簡も収録されていない。これも甚だ残念である。

 とはいえ、編纂当時存在していた健次郎発書簡や草稿を全て網羅していないという限界はあるにせよ、『書簡集』は健次郎の活動を明らかにする貴重な資料と評価できよう。

『書簡集』は本物なのか?

 ここまでお読みになった読者の中には「書簡の現物が残っていないのに、本物かどうか確認できないのではないか?」と思われる方もおられるかもしれない。たしかに、ご遺族の手元に残っていたとしても、それだけで資料の真正性を担保するものではない。

 そこで、従来知られている資料と比較してみたい。

 前述した花見編『男爵山川先生伝』には、健次郎の書簡が引用されている。その中に、1919(大正8)年6月9日付の、中橋徳五郎文部大臣宛の書簡が引用されている。その内容を簡単に紹介すると、貴族院の勅撰(ちょくせん)議員に、学術経験者、とりわけ理学方面の議員が少ないことを嘆き、理学博士の櫻井錠二を推薦するという内容である(『男爵山川先生伝』416-417頁)。

 『書簡集』に目を転じたい。こちらにも1919(大正8)年6月9日付の中橋徳五郎文部大臣宛の「書簡草案」が収録されている(下線は引用者による。以下も同様)。書簡草案の冒頭を引用すると、

「貴族院令第一条に貴族院議員の組織中第四号に 国家に勲労あり 又は学識ある者より特に勅任せられたる者と有之候が 近来学識と云ふ立場より勅選せられたる者甚だ少く就中理学方面より勅選せられたるは初期以来男爵菊池大麓外一人に御座候」

とある。引用に際して、適宜新字に置き換えた。

 この部分を『男爵山川先生伝』の引用と比較すると、伝記には句読点が付いており、また「貴族院令第一號」となっている。伝記の方が引用間違いで、『書簡集』の方の「貴族院令第一条」が正しい。

 ともあれ、冒頭を比較すると、戦前の伝記編纂時に使用された書簡(草稿)であることは間違いなく、健次郎の遺稿に含まれていたのは確実であろう。この書簡(草稿)以外にも、伝記中に部分的に引用されている書簡が複数存在する。ゆえに『書簡集』収録の書簡や草稿は、一定程度信頼に足るべきものと評価できるだろう。

 書簡の内容について補足すると、菊池大麓を含む二人しか理学者の勅撰議員がいないと書いている。この「外一人」とは健次郎自身のことを指すと推定される。健次郎は1904(明治37)年に貴族院令第1条4項により、貴族院議員に勅選されていた。

 ちなみに、菊池は健次郎と一緒に日本で最初に理学博士号を授与された人物で、東京帝国大学総長や文部大臣を務めた。そのうえで健次郎は櫻井を勅撰議員に推挙している。結果的に、櫻井は1921(大正10)年に貴族院議員に勅選された(若林文高「日本の近代化学の礎を築いた櫻井錠二に関する資料」『化学と工業』Vol.67-7、2014年)。

 なお、中橋徳五郎の関係資料については知られていないため、その点でもこの書簡(草稿)は貴重である。

日米親善に積極的だった健次郎

 次に、『男爵山川先生伝』に引用されていない書簡を一つ紹介したい。

 1919(大正8)年8月14日付で「大観社」という出版社に宛てた書簡の草稿が『書簡集』に収録されている。中身は、「米国シアトル新聞ポスト、インテルーゼンシア社に於て日本号を発行する為め社員を特派せる由、又同社より貴社に対し米国号発行を勧誘相成候由」について聞き、国際紛争は相互理解がないことから発生するのだから、「日米国際間の親善友誼に対し貢献すること少なからざるべくと存ぜられ大に賛成」と書いている。

 これを、かつて編纂した『山川健次郎日記』(芙蓉書房出版、2014年) と突き合わせると、1919年8月14日の日記に「大隈氏の紹介にて大観社の主幹相馬由也(略)米国シアトルのポースス、インテリゼンシア社より社員を特派し日本号を発行するにつき、大観社に米国号を発行することに决したるにより如し賛成ならば単簡其の旨を認め呉れ度由なり。依て同社に宛賛成の旨を書きて遣す」との記述が存在する(147頁)。

 この書簡草案と日記の記述には若干の字句の違いはあるものの、同一内容といっても差し支えないことが分かる。また、『書簡集』の真正性を裏付けるものと評価できよう。

Alec Issigonis/shutterstock.com
 ところで、この書簡と日記の内容は興味深い。アメリカに留学した経験を有する健次郎らしく、日米親善を推奨しているからだ。後年刊行された花見編『男爵山川先生遺稿』では、日中戦争前後という時勢を反映してか、健次郎の米国との親善を主張する意見はほぼ収録されていない。1912(明治45)年1月1日付の「日米戦争に就いて」という文章の中で「日米戦争は双方に損があって益の少ない不祥事」と触れられる程度である(669頁)。他方、『男爵山川先生伝』では東大法学部のヘボン講座開設時の関わりが記されている(236-237頁)。

 この書簡草稿から、健次郎は日米親善に関して積極的な意見を有していたと評価できよう。

 共同研究者である秋田大学の中澤俊輔先生の調査によれば、書簡や日記に登場する「大観社」は、大隈重信が主宰する雑誌『大観』を1918年から発行していた。残念ながら、資料中で言及されている「米国号」の発行は確認できなかった。雑誌の企画が頓挫したのだろうか。書簡や日記に登場する「相馬由也」は大観社の社員であり、1919年6月に大隈重信述、相馬由也著『世界大戦以来 大隈侯論文集』を大観社から出版している。

          ◇

 本稿では、山川健次郎の新出資料『書簡集』について、その概要や内容を紹介し、健次郎の活動の一端を明らかにした。今後、『書簡集』の検討を深めることで、いまだ知られていない健次郎の考えや様々な活動が明らかにされるであろう。

 末筆ながら、使用の許可を頂いたご遺族に深く感謝したい。(文中敬称略)