「どうしても」の反復から浮かぶ戦争の「反省」への強いこだわり
2019年08月21日
8月19日、占領期における昭和天皇の発言を記す「文書」の一部が、NHKから報道各社に公開され、話題になっている。
終戦後に初代宮内庁長官をつとめた故・田島道治氏(1985~1968)と昭和天皇との面会でのやりとりを記録したもので、それを入手したNHKが報道し、遺族から同意を得られた部分のみを抜粋して公開。一部は「拝謁記」と記されているという。
今回公開されたのはごく一部のようだが、それでも昭和天皇の当時の心情や考えが明確に示され、超一級の歴史資料である。
メディア、特に新聞報道で伺える限り、昭和天皇の発言には、納得できないこと、意外なことは、私には一つとしてなかった。「やっぱりそうだったか」と受け止めて、尊崇の念が高まった。
最近の日本には、“大見識”の人と呼ばれる人がいなくなったように思う。だが、少なくとも昭和30年代には、そういう人たちが少なからず存在していたと思う。当時、まだ学生だった私でさえ、田島氏の群を抜く学識、磨き抜かれた公正な人格を知っていた。
押しかけて住み込みの書生になった新渡戸稲造が田島氏の「生涯の師」になったのだろう。「拝謁記」には、師から学んだ温かさと厳しさが随所に垣間見える。
今回の「文書」には、昭和天皇の戦前史への思いと、戦後体制への願望の二つが表れていると見ることができよう。いずれも今まで推察されてきたことに近いものの、それが明白に確認された意味は大きい。
「お言葉」の草案づくりをめぐり、1月11日に昭和天皇は「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思う」と述べている。「どうしても」が反復されているところに、天皇の思いの強さがうかがわれよう。
しかし、「反省」の二文字は宮内庁の検討で削除されたという。しかし、天皇は2月にもこう述べた。
「……皆反省すればわるい事があるからそれらを皆反省して繰返(くりかえ)したくないものだ」
天皇はどうしても、戦争を悔恨して反省をする一節を入れようとした。だが、吉田茂首相から反対され、最終的にはその意見を受け入れた。
吉田がここで天皇の意向を受け入れるべきだったとは言わない。しかし、草案を天皇に示す段階で、自ら「反省」を書き込むべきであった。
なぜ、こうなったのか。それは、吉田茂の戦前史の総括が徹底性を欠いていたからだ。同じく戦後の“保守本流”の創始者であった石橋湛山の明快な思想に後れをとるゆえんである。吉田は華族制度の廃止にも賛成していなかった。
今年の8月15日、令和初となる戦没者追悼式に臨んだ新天皇は「深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願う」と、昭和、平成天皇の思いをはっきりと引き継いだ。
しかし、三代の天皇の思いは一貫しているものの、政治を担う政権は必ずしもそうではない。現首相の式辞からは近年、アジア諸国への加害責任と「深い反省」の言葉は聞かれない。
1993年の細川護熙政権で私は首相特別補佐をつとめていたが、「深い反省」という言葉に強くこだわる首相の姿勢に敬服したものだ。戦前における「国策の誤り」と、それに対する「深い反省」があれば、日韓関係はもちろん、対アジア外交ももっと円滑に展開するはずだ。前回の論考で私は韓国の文在寅政権を厳しく批判したが、こちらにもえりを正すことがあることを忘れてはならない。
たとえば、「今となっては他の改正ハ一切ふれずに軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやつたほうがいい様ニ思ふ」である。
昭和天皇のこうした考えは、宮沢喜一・元首相が私に話した意見、「占領が終わる前後の時期に、自衛隊をめぐる憲法問題を決着させておくべきだった」と軌を一にする。
同じ頃、昭和天皇はこうも述べている。
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