世間を騒がせた重要で有名な裁判の記録が次々と消えていくこの国で今するべきことは
2019年08月26日
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶという。
しかし、この国の裁判所は、学ぶための歴史を廃棄することにためらいがないようだ。報道によれば、重要な民事憲法裁判の記録137(有斐閣「憲法判例百選」に掲載されているもの)のうち118が廃棄されたという(東京新聞:令和元年8月5日朝刊)。
「憲法判例百選」とそれに出てくる事件は、私を含め、およそ法曹を目指してきた者であれば、誰しもがいやになるほどページをめくり、実務家になれば実際の事件の糸口を探るために立ち返る基本中の基本である。その大切な記録の86%が廃棄されたということに、私は強い衝撃をうけた。
あわせて、憲法審査会に身を置く国会議員として、憲法改正をめぐる議論がクローズアップされている現状で、これまで憲法が果たしてきた役割や課題を深く掘り下げるための重要な資料が失われたことも、深刻に受け止めた。
これはなんとかせねばならないと私は今、この問題を調べているが、まず冒頭で取りあえず訴えたいことがある。それは、
最高裁はすみやかに、全国の裁判所に対し記録廃棄の一時停止をよびかけよ、
ということである。
日本の裁判記録「保存」のルールは、裁判記録「廃棄」のルールである。すなわち、「廃棄」が原則で、「保存」は例外。そして、例外としての「保存運用」が完全に麻痺(まひ)して、機能不全を起こしている。
結論を言えば、制度が抱えるこうした病の原因を見つけ、治癒し、新たな制度構築と運用がなされるまで、廃棄を保留するべきである。最高裁はこれが社会問題化してなお、その判断を第一審裁判所に任せきりにしているが、速やかに、全国の高裁・地裁・家裁に対し、判断は保留せよ、廃棄してはならない、と呼びかけてほしいのだ。
裁判記録にしか映し出されない、訴訟当事者の血のにじむような闘い、心に響く言論、判決書の背景に存在する膨大なファクトと知見を、漫然とシュレッダーにかけてはならない。現状のまま廃棄を続けるなら、それは過失ではなくて故意となる。裁判官の判決書さえ残ればいい、事件に人生をかけ命をかけた当事者や代理人、関係者たちの言葉による戦いの記録は廃棄していいという、裁判所の傲慢(ごうまん)かつ積極的判断だと社会に評価されても致し方ない。
以下、具体的に検討していきたい。
まず、「廃棄」は適法か違法かを、現状の法制度に照らしてみてみよう。
民事裁判記録の保管や廃棄のルールについては、二つの文書がある。最高裁判所の「事件記録等保存規程」と、最高裁事務総長が下級裁判所にあてて出した「事件記録等保存規程の運用について」という通達だ。
これによれば、民事裁判の記録は、原則として第一審裁判所が5年保存した後、廃棄することとなっている(規程3・4・8条)。例外は二つ。事件処理の必要性から期間経過後も保存しなければならないもの(規程9条1項・1項特別保存)と、期間経過後も史料等として保存しなければならないもの(規程9条2項・2項特別保存)である。
問題はこの9条2項の「特別保存」の制度がちゃんと機能しているのか、であろう。9条2項の書きぶりはこうだ。
規程9条2項
記録又は事件書類で史料又は参考資料となるべきものは、保存期間満了の後も保存しなければならない
ここでいう「史料又は参考資料となるべきもの」という抽象的な要件は、通達で具体化されている。
通達第6-2⑴
次に掲げる事件の記録又は事件書類その他史料又は参考資料となるべき記録又は事件書類の全部又は一部について、保存期間満了後も保存する必要があるときは、これを規程第9条第2項に規定する特別保存に付するものとする。
ア 重要な憲法判断が示された事件
イ 重要な判例となった裁判がされた事件など法令の解釈運用上特に参考になる判断が示された事件
ウ 訴訟運営上特に参考になる審理方法により処理された事件
エ 世相を反映した事件で史料的価値が高いもの
オ 全国的に社会の耳目を集めた事件又は当該地方における特殊な意義を有する事件で特に重要なもの
カ 民事及び家事の紛争、少年非行等に関する調査研究の重要な参考資料になる事件
しかし、現実はちがう。
冒頭で触れたとおり、複数の報道によれば、以下のような有名重要裁判記録が軒並み廃棄されているという(朝日新聞2019年2月5日朝刊・日本経済新聞2019年2月13日夕刊・2019年8月5日東京新聞朝刊など)
例をあげれば、長沼ナイキ訴訟、沖縄代理署名訴訟、「宴のあと」訴訟、国籍法違反訴訟、麹町中内申書訴訟、寺西判事補分限裁判、広島薬局距離制限違反、朝日訴訟、レペタ訴訟……。
最高裁によると、特別保存されている裁判記録は全国で440にとどまり、あとは「事実上保存」されているものをのぞいて、廃棄されているとのことだ。ただし、記録の保存・事実上の保存・廃棄の別については、一審裁判所が個別に把握しているのみであり、現時点で最高裁は把握していない。
「判例百選」に掲載されている重要事件であれ、戦後違憲判決が出たレアものであれ、その記録が残っているかどうか、最高裁は知らない。つまり、「報道によれば長沼ナイキ訴訟の記録は廃棄されたようだが、最高裁はそれが事実かどうか知らない」という答えになる。だが、残念ながら、廃棄はおそらく事実である可能性が高いだろう(私は今、最高裁に事実を把握すべく要請しているが、本稿では報道をベースに検討する)。
ここで私は素朴な疑問を抱かずにはいられない。
自衛隊の存在がはじめて憲法9条2項違反とされた憲法裁判は、「重要な憲法裁判」ではないのだろうか(長沼ナイキ訴訟)。
三島由紀夫という当代きっての作家が、「時の人」をモデルにして書いた小説をめぐってプライバシー権の価値が初めて認められた裁判は、「重要な判例となった裁判」ではないのか(「宴のあと」事件)。
これらの疑問に応えられない限り、裁判所による廃棄処分は規定違反と言わざるを得ない。
さらに、廃棄されてしまった憲法関連裁判記録には、現代の憲法的課題を解決するカギとなる重要な言論が蓄積されていたはずだ。
父母のパートナーシップのあり方によって子を差別してはならないと示された規範は、同性パートナーシップをめぐる今日的課題と地続きである(国籍法違反訴訟)。
教師の教育評価権と生徒の思想・信条の自由との緊張関係が問われた事件は、教科化された「道徳」評価のあり方をめぐる今後の議論において、極めて示唆に富む参考資料になる(麹町中学内申書事件「公立中学校においても、生徒の思想、信条の自由は最大限に保障されるべきであって、生徒の思想、信条のいかんによって生徒を分類評定することは違法」東京地裁判決)。
政治的市民集会に参加・発言した寺西裁判官が分限裁判にかけられた事案は、約20年前のものだが、岡口基一というユニークな裁判官が社会に登場した現在こそ、裁判官の市民的自由の範囲を再検討し、最高裁を中心としたピラミッド型官僚的統制に服さない「本当に独立した」裁判官が活躍できる制度を構築するために、あらためてその詳細を振り返ってみるべきものだ(寺西判事補分限裁判)。
薬局開設の距離制限事件が提起した、既存業者の既得権と新規開業者の利益のせめぎあいは、現在医師会が猛プッシュしている新規開業医に対する規制の問題へと形を変え、今日もなお解決をみていない(広島薬局距離制限事件)。
ただ、報道によると、家永教科書裁判は「事実上の保存」となっているようである。つまり、特別保存とは認定されていないものの、保存期間が経過してもなお廃棄されていないということだ。
では、社会の耳目を集めた「表現の不自由展・その後」の展示中止が提起した問題を考える際、検討が必須とも思える天皇コラージュ事件の記録は残っているのか。
首相の衆院解散権の制約に関する議論が高まるいま、抜き打ち解散事件や衆参同日選挙事件の記録は検証できるのか。
外国人雇用が今後大幅に増加していくなか、その政治活動や年金などの社会保障をどこまでカバーしていくべきか、マクリーン事件や塩見訴訟の記録を分析して考察を深めることは可能なのか。
今やらなければならないことは、「事実上」であれ保存されている記録を廃棄させないことである。
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