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パッテン総督が警告した「香港の力量不足」

民主派が抱える出口のないジレンマ

富柏村 ブロガー

拡大返還直前。整列した皇家香港警察訓練学校の卒業生を、一人一人祝福して歩くパッテン総督= 1997年6月21日、香港島・黄竹坑で

 私の不安は、この(香港)社会の自治権は北京に奪われるのではなく、香港の一部の人々によって少しずつ除される可能性があるということだ。

My anxiety is this: not that this community's autonomy would be usurped by Peking, but that it could be given away bit by bit by some people in Hong Kong.

 これは1996年の秋、香港で立法年度の期初にクリス・パッテン総督が行った施政方針表明の一節。1997年7月1日の香港返還を控え英国領香港で最後の香港総督による最後の施政方針で、1992年に着任し香港の政治民主化に着手し、それが中英合意に反すると中国政府から強烈な批判を浴びていたパッテン総督が〈香港〉に投げかけた警告である。

最悪の状況はなぜやってきたのか

 中国で改革開放政策を推進する鄧小平が一国二制度と50年不変という2つの大原則で英国の渋々ながらの合意を取り付けた香港返還。1984年の中英合意と1990年に制定された香港基本法が返還後の香港に与えられた「安定のための保険」だった。この二国間合意と基本法制定の間には1989年の天安門事件がある。香港では中国民主化に対する大規模な支援と中国政府批判、天安門で犠牲となった学生らの追悼があり、香港返還にも大きな影を落とした。一国二制度も50年不変も、やはり中国(以下、中央政府)によって覆されるのではないか?という不安。香港の立法局(返還後は立法会)選挙では中央政府に批判的な民主党が躍進していた。

 そのような当時の香港で、返還を9カ月後に控えたカウントダウンの中、パッテン総督は「香港の自治権は北京に奪われるのでなく、香港の一部の人々が、それを壊す」と警告したのだ。

 それから23年、香港は今、逃亡犯条例をきっかけに香港返還から22年で最大の政治的危機となっている。この条例改正に反対する大規模な市民デモ、抗議運動は過激化し、警察もその抑圧に暴力化。中央政府の香港出先機関での狼藉、国旗侮辱に中央政府は強い警告を与え、人民解放軍の出動すらまことしやかかに懸念される。

 なぜ、このような最悪の状況になったのか。その批判の矛先を中央政府に向けることは難しくない。香港の一国二制度と50年不変を中央政府は、やはり毀すのだ、と。

 だが、この22年の香港特別行政区での状況を見続けていると、このパッテンの警告が頭をよぎり、一概に「中央政府が悪い」と言い切ってしまっていいのだろうか、とも思う。植民地を去ろうとする宗主国の「見下ろすような目線」という見方もあるだろうが、現実にパッテンの憂慮した通りになっているのだ。もちろん、一党独裁で頑な中央政府に問題があるわけだが、それでもその現実の中での解決策を見いださなければならない。


 社会主義国が資本主義の香港を統治するという世紀の実験は、鄧小平路線での中国の経済発展と(一党独裁の社会主義制度ながら)政治的改革で50年後には香港との統合を期待するものだった。行政と司法は返還前の制度を維持し、行政長官選出や立法機関の改革は一先ず先送りされたが(英国統治でも総督任命も立法局選挙も民主的ではなかった)、香港基本法には10年後をメドに普選実施等が盛られていた。

 「たられば」だが1997年からの香港経営が上手くいけば、中央政府が描いた青写真とスケジュールが実現するはずだった。それを困難にしたのは中央政府なのか、香港自身なのか。そのスコアをつければ香港にクリス・パッテンが危惧した(表現は変えるが)「香港の力量不足」が散見されるのだ。

 それを、①行政長官、②親中央政府派と③民主派というカテゴリーで見直してみよう。


筆者

富柏村

富柏村(ふ・はくそん) ブロガー

茨城県水戸市生まれ。1990年より香港在住。香港中文大学大学院修士課程(文化人類学)中退。フリーランスでライターもしていたがネット普及後は2000年からブログで1日もかかさず「 富柏村香港日剩」なる日記を掲載している。香港での日常生活や政治、文化、飲食など取り上げ、関心をもつエリアは中国、台湾やアジアに広く及んでいる。香港、中国に関する記事の翻訳もあり。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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