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日本で進行する「静かな全体主義」への危惧

危険なレベルにまで低下した投票率と「政党の座標軸」の融解が示す危うい実情

宇野重規 東京大学社会科学研究所教授

民主的な社会にも存在する専制

 このような状況でふと思い出すのが、19世紀フランスの政治思想家トクヴィルである。

 トクヴィルは民主的な社会においてもなお、専制は存在すると主張した。その専制は力によって人々を支配することはないが、個人同士が相互に疎遠になり、人と人とをつなぐ共通の結びつきが存在しない状況を利用する。相互に議論したり協力したりしない個人は、無力になり、無気力となる。そのような人々は、柔らかいがそれでも確実に人を握り潰す力を持つ「権力」の手に、やすやすとして身を委ねる。トクヴィルはこれを民主的専制と呼んだのである。

 そのような権力を前にすると、人々はもはや抵抗の思いすら抱かない。自分自身で身の回りの状況をコントロールできない以上、そのような権力に従う以外にどのような道がありうるというのか、とあきらめる。

 もちろん、そのような柔らかい専制権力が、人々をどこに向かわせているかはわからない。とはいえ、日常生活ですら意のままにならない以上、長期的に自分がどこに押し流されようと、知ったことではない。人と人とのつながりを失った個人が無力感に圧倒され、結果として不透明な権力を生み出す危険性を、トクヴィルは警告したのである。

 トクヴィルの議論を継承するフランスの思想家ジャン=ピエール・ルゴフは、『ポスト全体主義時代の民主主義』(渡名喜庸哲・中村督訳、青灯社)で現代的な、新たな全体主義の特徴を次のようにまとめている。

 その全体主義は、かつての全体主義のように確固とした思想や理念を持つわけではないし、唯一絶対の党組織があるわけでもない。が、社会の既存の組織が力を失ってすべてが流動化するなかで、共通の意味が解体することで指針を失った個人は、メディアがたれ流す大量のパッチワーク的な情報の洪水に溺れてしまう。そこで個人は、政治参加を馬鹿にしながらも、相互に対立するイメージの断片に目を奪われ、踊らされる。

諦観に身を委ねる余裕はない

拡大Artur Szczybylo/shutterstock.com
 現代日本においてもまた、人々は流動化する社会の中で「共通の意味」を見失いつつある。「保守」も「革新」も意味がわからなくなり、人々をつなぐ価値も見いだせない。既存の政党や代議制民主主義を信じるわけではないが、それに代わる自らの意思表明の回路やスタイルがあるわけでもない。

 もし多くの人が、社会の動きは個人の力の及ぶところではなく、残されているのは、社会の大勢のおもむくままに流されていくことだけだと考えているとすれば、それはトクヴィルの「民主的専制」や、ルゴフの「新たな全体主義」に近いのではなかろうか。危険なレベルにまで低下した投票率と「政党の座標軸」の融解は、私にそのような危惧を抱かせる。

 換言すれば、「静かな全体主義」が日本で進行している。そして、それこそが特定の個人や組織の思惑を超えた、日本社会の趨勢(すうせい)である。

 とはいえ、そのような現状のただ追認するのであれば、それもまた「静かな全体主義」に対する従属に過ぎないだろう。諦観(ていかん)に身を委ねる余裕は、今の日本社会に残されていないように思われる。民主主義の立て直しのために、声を上げねばならない。「静か」になってはいけないのである。

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筆者

宇野重規

宇野重規(うの・しげき) 東京大学社会科学研究所教授

1967年生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。同大学社会科学研究所准教授を経て2011年から現職。専攻は政治思想史、政治学史。著書に『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社学術文庫)、『〈私〉時代のデモクラシー』(岩波新書)、『保守主義とは何か』(中公新書)など。

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