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護憲派は国民を信じていない

井上達夫インタビュー(下)立憲的改憲こそ安倍改憲への対抗策だ

石川智也 朝日新聞記者

 法哲学者の井上達夫・東大大学院教授に『ポピュリズムやパリテに抱く「リベラル」派の幻想』に続き日本のリベラル派・護憲派について聞いた。

立憲主義を蹂躙する「護憲派」

 ――憲法の話に戻りましょう。井上さんはかねて9条問題をもとに護憲派と改憲派の双方の欺瞞を指摘してきました。近著『立憲主義という企て』でも9条問題に多くの記述が割かれています。「立憲主義」とは安倍政権を反面教師に「憲法は権力を縛るもの」という説明が一般的にも広がりましたが、いま立憲主義をあらためて世に問うた狙いは何でしょう。

 日本の市民や政治家だけでなく、知識人の間でも、立憲主義の真っ当な理解は浸透していません。

 立憲主義の基礎には「法の支配」の理念があります。自由な論争を認めた民主社会では、何が「正しい法」なのかをめぐって熾烈な争いがある。自分が不当と考える政治的決定でも、新たな競争ラウンドで覆せるまでは、自分たちの社会の公共的決定として尊重するという態度をとらなければならない。反対者をも拘束するその規範の基礎となるのが、先ほど(参照『ポピュリズムやパリテに抱く「リベラル」派の幻想』)説明した、「正当性」とは区別される「正統性」です。

 対立競合する勢力に等しく課される公正な政治的競争のルールが「正統性」を保障します。それを要請するものが「法の支配」です。立憲主義とは、この「法の支配」の理念を成文憲法のなかに具現化して統治権力を統制するものです。

 前に、正義の諸構想と正義概念の区別に触れましたが、政治的諸勢力は異なった正義構想に依拠する政策を追求して対抗します。こうした諸勢力を等しく律する公正な政治的競争のルールの理念的指針となるのは、まさに、対立競合する正義の諸構想に貫通する共通の制約原理である正義概念です。法の支配を憲法に具現させる立憲主義は、この正義概念に照らして理解されなければなりません。

 ところが、右も左もそれをわかっていない。憲法を、自分たちの正義構想に合致した政策や法律を政敵に押しつけるための道具としか考えていない。護憲派も改憲派も、自らの政治的立場を合理化する装置として憲法を歪曲濫用し、立憲主義を蹂躙しています。それが顕著にあらわれているのが、9条問題です。

 ――井上さんは、立憲主義への裏切りという点では、護憲派の罪の方が重いと主張していますね。

 私自身の安全保障政策についての政治的立場は、専守防衛、個別的自衛権に限って自衛を認めるというものです。国連の集団安全保障体制には参加しても、米国の勝手な軍事行動に無制限に巻き込まれる危険性が高い集団的自衛権は認めない。つまり、護憲派の多くの立場と変わりません。

 私が護憲派を批判するのは、彼らが自己の政治的立場を実現する手段として憲法を改竄・骨抜きして、憲法を「政争の具」に変質させ、権力抗争を公正な政治的競争のルールに従って行うことを要求する立憲主義を蹂躙しているからです。

 護憲派の9条解釈には二つの立場がある。専守防衛・個別的自衛権の枠内、これを専守枠内と略称することにしますが、この枠内なら自衛隊を合憲と見なす立場で、私が「修正主義的護憲派」と呼ぶ人たち。それと、自衛隊・安保は9条が禁じた戦力に他ならず、存在自体が違憲だとする「原理主義的護憲派」です。

 歴代保守政権と内閣法制局は、自衛隊は「戦力」ではなく専守防衛のための「最低限度の実力」であり、他国からの武力攻撃に対する防衛行動は「交戦権の行使」ではないと解釈してきました。修正主義的護憲派はこれを追認している。しかし、これ自体が、朝鮮戦争を機に高まった日本の再軍備化への政治的圧力に駆られて行った、あからさまな解釈改憲です。

 いまや自衛隊は、世界5指に入る5兆円超の年間予算と最新鋭のイージス艦やファントムジェットを備え、国際的評価機関によっても、非核保有国で韓国軍と並び最強とランク付けされる武装組織です。これを戦力でないと言い張るのは、詭弁以外の何物でもない。憲法解釈という点では、原理主義的護憲派が正しいのは明らかです。

 修正主義的護憲派は、専守枠内という自分たちの政治的立場に従った解釈改憲を是認している点ですでに、憲法9条だけでなく96条の憲法改正規定をも侵犯しており、立憲主義を蹂躙していますが、さらに、自分たちが解釈改憲に惑溺しながら、集団的自衛権行使を解禁した安倍政権の解釈改憲だけを違憲と批判している。

 これはあからさまなダブルスタンダードで、公正な政治的競争のルールに反し、二重の意味で立憲主義を蹂躙しています。

日本国憲法9条
1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

自爆的な護憲派の新たな理論武装

 ――9条を字義どおり解釈すれば非武装中立を求めているとしか読めませんが、この条文は実定法のような明瞭な指示内容を持っておらず、それを決めるのは安定性と継続性ある「有権解釈」なのだ、という論もあります。長谷部恭男・早大教授は「個別的自衛権は合憲だが集団的自衛権行使は違憲」というのが戦後一貫した有権解釈だったと指摘しています。

 政府権力を憲法によって統制するのが立憲主義の要請なのに、その憲法の意味を政府の「有権解釈」に委ねるのは、立憲主義の自殺ではないですか。

 そもそも、政府やその助言機関に過ぎない内閣法制局は憲法を「有権解釈」する権限なんて憲法によって与えられていません。有権解釈できる国家機関があるとしたら最高裁判所だけですが、最高裁の判例でさえ先例拘束性をもたず覆すことができます。しかも、最高裁はこれまで統治行為論などを使って自衛隊・安保の違憲判断を回避してきたのであって、集団的自衛権行使も合憲とはっきり判断しなかったのと同様、専守枠内なら自衛隊・安保は合憲という判断も示したわけでもありません。

 さらに、憲法学者や法律家のなかに9条解釈に関して専守枠内なら合憲というコンセンサスがあるのといえば、そんなものもありません。

 しかも、過去の有権解釈に従えという主張は、諸刃の剣です。解釈改憲の違憲状態だろうと、しばらく続いて安定すればOKだということになる。安保法制支持者たちが「従来の政府解釈も一定期間継承されただけであり、集団的自衛権行使容認も今後継承され安定性をもてば、確立した政府解釈となる」と主張したら、反論できない。

 ――合憲論の憲法学者からは、自衛隊はポジティヴリストで運用される準警察組織だから軍隊ではない、つまり戦力にあたらないという説明もあります。

 それも法律上はまったくの噓です。自衛隊は自衛隊法76条により防衛出動命令を受けると、自衛隊法88条によりネガティヴリストで武力行使することになっています。88条1項は「出動を命じられた自衛隊は、わが国を防衛するため、必要な武力を行使することができる」と定めて、防衛のための武力行使を自衛隊に一般的に授権し、そして同条2項には、その際は国際法を遵守する、と明記してある。これは通常の軍隊同様、ネガティヴリストで運用されるということです。

 警察同様のポジティヴリスト方式で自衛官の武器使用の条件を明示的に限定しているのは、治安出動の場合です。国内の治安維持のための出動は警察力の補完ですからこれは当然です。自衛隊はポジティブリストで規制されているから準警察組織だなどという主張は、防衛出動と治安出動を混同した、あるいは意図的にその区別を隠蔽した誤った説です。

 ついでに、ここで強く警告しておきたいのは、私が「13条代用論」と呼ぶ、憲法学者の木村草太氏のような修正主義的護憲派の新たな潮流の横暴性についてです。この立場は、自衛隊が専守枠内でも9条2項が禁じる戦力の保有・行使にあたることを認めながら、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」を定めた憲法13条が、その禁止を専守枠内で例外的に解除しているという。

 戦力という最も危険な国家暴力に対する9条2項の明示的な禁止を、それについて何ら言及していない人権規定に勝手に読み込んで解除するなんて、法解釈の枠を越えた暴論であり、立憲主義の公然たる破壊行為です。言論暴力ともいうべきこんな暴論で、憲法9条が禁止している戦力を解禁するのは、憲法学者による「無血限定クーデタ」の試みと言ってもいい。13条の人権規定で9条が禁止する戦力が解禁されるというなら、専守枠内どころか安倍政権の集団的自衛権行使だって容認されてしまう。

 実際、安保法制の一環として改正された自衛隊法76条は、1項2号で「国民の生命、自由、及び幸福追求の権利」という憲法13条の文言をコピーして集団的自衛権行使を解禁している。木村氏は、13条で戦力を解禁するという暴論を振り回しながら、専守枠内に限ると主張し、同じ暴論で集団的自衛権行使も解禁する安倍政権を批判していますが、これは、下品な比喩ですが、「目糞、鼻屎を笑う」式の屁理屈です。堤防の一部を破壊して堤防決壊リスクを高めている輩が、破壊箇所を拡大している連中を「危ないじゃないか」と批判しているようなものです。

 しかし、さらなる問題は、護憲派にとって「13条代用論」は自爆的だということです。

 この論を用いれば、専守枠内なら9条が禁止した戦力の保有・行使が解禁されますから、従来の修正主義的護憲派が最後の一線としていた「自衛隊は戦力ではない、フルスペックの軍隊になることは絶対に認められない」という封印すらも破っていることになる。9条2項を温存して、自衛隊を明記する「安倍改憲」案について、安倍首相ですら、「これは自衛隊をフルスペックの軍隊にしない趣旨だ」と言っていますから、「13条代用論」は、安倍政権よりひどい解釈改憲をやっていることになる。本来なら「護憲派」こそが「行き過ぎだ」と批判すべきでしょうが、護憲派の大勢はこれを叩くどころか、これを黙認し、さらには新手の理論武装を提供してくれるものと歓迎している。

 護憲派にとっても自爆的なこんな暴説を、護憲派が厳しく叩くどころか、新入りのお仲間扱いしているのは、憲法9条を変えないでいいという結論さえ支持するなら、9条を完全に死文化させる理論でもお構いなしという護憲派の姿勢を示しています。護憲派が実は憲法破壊勢力にすぎないことが歴然と暴露されている。

立憲主義を守るには9条改正が必要

 ――憲法学界では自衛隊違憲論がかつては主流で、なお多数説と言えますね。

 護憲派の中でも原理主義的護憲派が多数派だと思いますが、こちらの欺瞞は修正主義的護憲派よりもなおひどい。彼らは憲法解釈においては原理主義的ですが、政治的にはご都合主義です。

 9条をまもれと言うなら、彼らの解釈は非武装中立なのだから自衛隊廃止や安保破棄を主張しなければならない。しかし、1960年安保闘争終焉後は、原理主義的護憲派も専守防衛・個別的自衛権の枠内で自衛隊を政治的には容認する立場に変質しました。いや、容認しているだけではなく、ちゃっかりその便益を享受している。違憲だけど政治的にはOKと言う自分たちの立場を「隠された本音」としてもつだけでなく、このことを明言している論客もいます。

 専守枠内の自衛隊・安保を受容しながら、憲法9条を固守して「違憲だ、違憲だ」と言い続けることが、自衛隊の肥大を止め専守枠内で維持するのに有効なのだという政治的戦略論が彼らの立場ですが、9条がもはや自衛隊・安保の肥大化抑止機能をもっていないことはすでに触れました。そもそも、南スーダンに自衛隊を派遣したのも、ジブチに自衛隊の常駐基地を設立したのも、護憲派が支持した民主党政権ですよ。

 原理主義的護憲派は、自分たちの欺瞞を糊塗するために、理想と現実の矛盾に問題はない、現実と反しているからこそ理想としての意味を持つのだ、などと主張しているが、これも欺瞞に欺瞞を上塗りするものです。

共産党の志位和夫委員長
 原理主義的護憲派の立場に今は立つ共産党の志位和夫委員長は、「国民の圧倒的多数が、自衛隊がなくても大丈夫と思う日が来るまで自衛隊を保持する」と明言している。日本人に多少とも現実感覚があるなら、一握りの人たちを別として圧倒的多数が「自衛隊はなくても大丈夫」と思う日は、少なくとも、予想しうる将来にはこないでしょう。来るかどうか分からない、来るとしてもいつ来るかわからない日が来るまで、締切なしに、すなわち無期限に自衛隊を容認するということは、いつまでも自衛隊を容認するというのと変わらない。彼らは「護憲派」を称しているけれど、実際には自衛隊に永遠に違憲の烙印を押し続けることで、違憲状態を固定化しようとしている。これは憲法の規範性に対する最大の侮辱で、立憲主義を堀り崩すものです。

 自衛隊・安保を廃止して非武装中立を求める「一握りの人たち」はいるでしょうが、彼らの姿勢も欺瞞的です。非武装中立というのは、絶対平和主義ですが、これは不正な侵略を容認する立場ではありません。侵略されたら逃げよう、白旗振って降参しようというのは、侵略のインセンティヴを高めるもので絶対平和主義にとって自壊的です。絶対平和主義は、武力侵略に対しては非暴力抵抗で断固闘う立場です。

 「一握りの人たち」が、殺されても殺し返さない、そういう峻厳な非暴力抵抗の自己犠牲を背負う覚悟を、本当にもっているかは疑問です。彼らの多くは口先では非暴力抵抗を主張しても、本音では「理想に反した現実」たる自衛隊・安保に寄生している。

 もちろん、本当に誠実な非暴力抵抗論者もいるでしょう。しかし、この立場の原理的な問題は、それが求める「殺されても殺し返さない」という峻厳な自己犠牲が、通常人を超えた聖人の道徳で、倫理学では「義務以上の奉仕(supererogation)」と呼ばれるものだということです。

 これは、自ら自発的に引き受けるなら称賛されるが、引き受けなくても不正と非難されない奉仕です。非暴力抵抗論者は、自らこの自己犠牲を引き受けるのはよいとしても、武力侵略に対しては武力をもって闘い自分の家族と同胞を守るという人たちに対して、それを禁じることはできないということです。

 一切の戦力の保有・行使を明示的に禁じる憲法9条は、首尾一貫した形で理解しようとするなら、絶対平和主義の思想に依拠していると言うしかありません。しかし、これは「義務以上の奉仕」を義務付けるものであって、倫理的には正当化できません。

 だからといって一般の護憲派のように、9条を解釈改憲や違憲事態固定化論で空文化させるのは立憲主義に反します。

自衛隊を統制する国内法の欠如は無責任

 ――「自衛隊は戦力でも軍隊でもない」という9条が求める噓が、既成事実の進行のスピードを多少なりとも抑えてきた面はありませんか。

 「噓でも噓なりに効用があり、自衛隊の拡大を抑えてきた」というのは、ごまかしにすぎません。しかもこの抑制力はもはや機能していない。先ほど言ったように、現実の問題として、自衛隊はいまや予算的にも実力的にも世界有数の武装組織です。

 実は、いまの日米安保体制の下では、日本が個別的自衛権に止まるとしても、米国が勝手に始めた戦争に日本は幇助犯として加担させられるのです。ベトナム戦争やイラク戦争などの米軍の侵略・武力干渉に、日本は後方支援や兵站提供というかたちで協力しましたが、これにより国際法上は、日本は米軍と一体化しているとみなされ、交戦法規により中立国に認められている保護を剥奪されます。

 後方支援・兵站提供は「非軍事的協力」だとか、「戦力と一体化してない」とかという政府の理屈は国内向けの嘘で、国際法上は通用しません。ベトナム戦争のとき、仮に、ホー・チ・ミンがいまの北朝鮮のように、日本に届くミサイルをもっていたとしたら、これで在日米軍基地を攻撃したとしても、国際法上は北ベトナムの正当な自衛権行使です。

 「9条が戦力を縛ってきた」なんて噓です。それだけではない。法理論的にはもっと重要な問題があります。

 戦力は、国家権力のなかで最も危険な暴力装置です。でも9条があるがゆえに、日本に戦力は存在していないという建前になっている。だから、たとえば戦力行使に対する文民統制や国会の事前承認、軍事司法システムといった最小限の「戦力統制規範」、つまり武装組織の編成や行使の手続きと方法を限定し戦力の濫用を抑えるための規定ですが、これすら憲法に定めることができない。法の支配、立憲主義の統制に最も服せしめなければならない危険な戦力が野放しになっているのです。

 「自衛隊は使えない軍隊」とよく言われてきましたが、この意味は世間で誤解されています。

 日本には、他国との武力衝突が生じた際に民間人を誤って殺傷した場合などを想定した国際交戦法規に従い自衛隊の武力行使を統制する国内法が欠損しています。海外に自衛隊を送り多国籍軍や国連PKOの一員に組み込まれて現地政府により治外法権を付与されながら、あるいは日米地位協定で日本が受忍している米軍の治外法権以上に広範な治外法権を自衛隊に与える地位協定をジブチ政府と結んでおきながら、万が一軍事過失を犯した際にそれを裁く法システムを持っていない。9条により、「交戦」しない建前になっているがゆえに、交戦行動を律する軍事刑法と軍事司法システムを整備することができないからです。

 それにもかかわらず、前に言ったように、自衛隊法は防衛出動した自衛隊が防衛のため武力行使することを認めている。自衛隊が「使えない」のは、法的統制でがんじがらめに縛られているからではなく、逆に、武力行使できるにもかかわらず、交戦法規にしたがって自衛隊の武力行使を統制する国内法システムがないから、危なっかしくて使うことができないという意味です。

 でも、「危ないから使わないことにしている軍隊」も使わざるをえない危機的状況は発生しえます。昨年末の韓国駆逐艦による自衛隊哨戒機へのレーダー照射事件や、先日の竹島へのロシア機の「領空侵犯」騒ぎのように、昨今の日本近海の国際軍事情勢を見ても、武力衝突が偶発的事故によって起きる可能性はいつでもある。世界有数の軍事力を持ちながら、それを国際法にしたがって統制する国内法システムがないというのは、国際社会に対して無責任以外の何物でもありません。これはいますぐに解消しなければならない問題です。

立憲的改憲案こそ現実的

 ――国際法で戦力あるいは交戦団体と扱われる武装組織を海外に送っておきながら、「戦力ではない」と説明し続けている。しかし、9条2項で「保持しない」と宣言している「陸海空軍」の英訳はland,sea,and air forcesで、「自衛隊」はSelf-defense forces。対外的には軍、戦力を持っていると認めているわけで、すでに矛盾しています。

 9条があることが日本の国際的信用を保っているというのは、護憲派の願望思考です。実際は逆です。9条2項を掲げながらそれと矛盾する自衛隊・安保を保持して平気な日本人は信用できないというのが、国際社会の真っ当な反応です。この対外的英訳は日本政府も使っている訳語ですから、これを見れば、日本人はおよそ憲法などどうでもよいと考えている国民としか思われない。

 一昨年の夏にポルトガルであった法哲学の国際学会で、中国の女性研究者に言われました。「立派な憲法を持っているのに誰も守らないなんて、日本は中国と同じですね」

 9条問題は、国内問題だけではないんです。それなのに「軍隊ではなく警察だ」「戦力ではなく実力だ」「戦闘ではなく武力衝突だ」などと、国内だけでしか通用しない「言霊」を飛び交わせ事実を歪曲している。現実を見ようとせず、言葉の噓で実態を取り繕えると本気で思っている。

 ――井上さんの持論は「9条削除」ですが、次善策としては「立憲的改憲」あるいは「護憲的改憲」でもよいと主張しています。つまり、9条2項を改正して専守防衛に限った戦力をきちんと認知したうえで、それを統制する規定も盛りこむというものですね。

 9条削除論は色々と誤解されて評判が悪いですが、私の考えは、安全保障政策と戦力統制規範を峻別し、安全保障政策は憲法で固定化するのではなく民主的討議の場で争われるべきで、憲法が定めるべきものは戦力統制規範だ、というものです。

 武装中立か非武装中立か、個別的自衛権か集団的自衛権か、国連の集団安全保障への参加は認めるのか……こうした問題に対する国の基本方針が安全保障政策であり、これは民主的立法プロセスの中で、国際情勢を踏まえた実質的な政策論議をしなければならない。対抗する政治的諸勢力にとって、それぞれの主張が通ることも通らないこともある。でも、民主的ルールによる政治的競争で議論して決めた結果なら、負けても受け入れ、また再挑戦するというのがフェアなやり方です。

 それなのに、現状では、安全保障政策についての議論が、憲法解釈をめぐる神学論争にすり替わってしまっている。自分が正しいと考える政策を容易に変えられない憲法に紛れ込ませたり、好都合な解釈で固定化したりするのは、アンフェアです。

 それはそれとして、どのような安全保障政策を採るにしても、先ほど説明したような戦力統制規範は、絶対に憲法に明確に書き込まなければならない。文民統制や国会事前承認、軍事司法制度といった最小限のものだけでなく、外国基地を設置する際の住民投票や、良心的兵役拒否権を含んだ完全に公平な徴兵制も、民主的な戦力統制原理として盛り込むべきだと私は提唱しています。

 でもこのラディカルな案がすぐに国民に受け入れられるとは思わない。それならば、多くの国民が受け入れてきた専守防衛の自衛隊のあり方にも合致し、最低限の戦力統制を明記した護憲的改憲案こそが、立憲主義を回復する現実的で筋の通った案として真剣に検討するに値します。

立憲民主党の山尾志桜里衆院議員
 最近では、政界でも護憲的改憲案が、立憲民主党の山尾志桜里衆院議員によって「立憲的改憲」案の名で提唱されている。その文案は、9条の後に、9条の2というような枝番条文を付加して、現行9条2項の規範的意味を改正するという形式をとっているため、表面的には9条2項を温存する安倍改憲案と似ていると思われるかもしれませんが、それは誤解です。

 立憲的改憲案は枝番条文で、はっきり、専守枠内で戦力の保有・行使を認めると定めているので、自衛隊が戦力であることを明示しない安倍改憲案と異なり、これは9条2項明文改正案です。

 専守枠を明示して戦力の保有行使を認める護憲的・立憲的改憲案は、護憲派の政治的立場に沿うはずにもかかわらず、護憲派は、これに対し、安倍改憲案に対する以上の敵意をもって攻撃しています。

 護憲派の中には憲法9条を「猛獣を閉じ込める檻」と呼ぶ者もいるが、先ほど言ったように、9条があるために、戦力統制規範という戦力を閉じ込める「檻」が憲法にはない。他方で、修正主義的護憲派は、自衛隊は戦力ではない、つまり「我々が飼っているのはライオンではなく、人を嚙まない優しい猫なんですよ」という噓を言い続け、憲法に「檻」を設置する必要はないと言いふらしている。

 彼らは、戦力という危険な猛獣が野放しになっている日本の現実を隠蔽する言霊を飛びめぐらせているばかりか、この現実を指摘して猛獣をしっかりと「檻」に入れることを主張する立憲的改憲案を潰そうとしている。

護憲派は国民を信じていない

 ――言霊といえば、先般の参院選でも「改憲勢力」という言葉が飛び交いました。何条をどう変えるのかの前提もなく改憲に前向きか後ろ向きかなど認定できるはずもなく、まったく無意味なレッテル貼りだと思います。これまでもリベラル系メディアは選挙前に幽霊のような改憲の危機を煽り、選挙後には一転して「改憲の条件は整っていない」などと「冷静な」報道をするということを繰り返してきました。護憲的改憲案に対しても、護憲勢力に分断をもたらし安倍改憲を後押しするものだ、という根強い批判がありますね。

 護憲派は、まるで9条をいじったら魑魅魍魎(ちみもうりょう)が飛び出し戦前の軍国主義に戻るかのようなイメージを流布している。いくら死文化しようとも9条を残すことで我々が悪魔化することを抑えられるのだ、と。つまり、国民を信じていないんです。

 あるいは、自分たちエリートは大丈夫でも、多くの国民はポピュリストの政治家に扇動されてしまう、だから国民投票も危険なんだ、という愚民観を抱いているとしか思えない。

 でも、彼ら自身も国民の一部です。

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