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アメリカのオケが法律家の僕に教えてくれた事・上

社会的影響を与える存在を目指すLAフィルがロス市民に受け入れられているわけ

倉持麟太郎 弁護士(弁護士法人Next代表)

ロサンゼルス・フィルハーモニックの本拠地のウォルトディズニーコンサートホールの内観=2019年5月、筆者撮影

アメリカで特異な花を咲かせるオーケストラ芸術

 「カラヤンの音楽はコカ・コーラ」

 これはリハーサルの厳しさと、禅問答のような語りで有名だった指揮者セルジュ・チェリビダッケが、カラヤンの音楽は形だけ、商業主義的で音楽の本質を捉えられていないという趣旨の批判として、インタビューで言い放った言葉である。

 クラシック音楽の本質は「売れれば良い!」の大量生産大量消費の対極にある。商業主義の象徴としてコカ・コーラを比喩的に使い、カラヤンを批判したのである。

 しかし、本稿は、あえてそのコカ・コーラの国・アメリカ、商業主義的このうえないアメリカにおけるクラシック音楽、特にオーケストラ芸術の役割が、クラシックの本家ヨーロッパを離れ、特異な花を咲かせている現状を記したい。

 なぜなら、アメリカにしか咲かないオーケストラ芸術の花をめぐる様々が、オーケストラという枠組みを超え、現代の法や政治、ひいては現代社会の抱える様々な問題を解決するヒントをくれるからだ。

ロサンゼルス・フィルハーモニックの音楽監督を務めるグスターボ・ドゥダメル氏=2019年3月20日、東京都港区
 法律家の私にそうしたヒントをくれたのは、若きベネズエラ人指揮者(この人、若きベネズエラ指揮者グスタヴォ・ドゥダメルの自由の戦士としての権力との戦いを、私は以前、論座「ベネズエラ人指揮者は『自由の戦士』として闘う」に書いている)を音楽監督に据え、“未来のオーケストラ”を標榜するロサンゼルス・フィルハーモニック(以下「LAフィル」という)であった。それでは、LAフィルCEOのSimon Woods(サイモン・ウッズ)氏と演奏会のプログラミング担当COOであるChad Smith(チャド・スミス)氏の話から本稿を始めよう。

「芸術家が芸術だけをする時代は終わった」

 先日、私はサイモン、チャド両氏から話を聞くことができた。テーマは、”The changing roles of (American)orchestras in Society(「社会における(アメリカの)オーケストラの役割の変化」)” と“Programming with purpose(「目的あるプログラミング」)”である。

 印象に残ったのは、シーズン中のプログラミングへの彼らのこだわりだった。LAフィルが社会での役割をどう捉えているか表現できるのはプログラミング。裏を返せば、プログラミングやイベントを通じて、社会にLAフィルの考えを発信するという強い意志がひしひしと伝わってきた。

 サイモン氏の根底にあるのは、「芸術家が芸術だけをする時代は終わった」という感覚であろう。彼はそれを、世界的チェリストのヨーヨー・マが今年3月にハーバード大学のビジネススクールで行った「社会的正義のための力(force)としての音楽」と題するディスカッションを引きながら、示唆した。

 マはこのディスカッションのなかで、「芸術のための芸術は終わった」と言い切ったという。では、いったい何のために芸術をするのか。マは、「残りの人生は、食いぶちを稼ぐためではなく、”social impact(社会的影響)”のために使いたい」と言う。

 有言実行。マは1カ月後の4月、メキシコとの国境の荒野で、ベースボールキャップをかぶったにラフないでたちでチェロを演奏した。

 「音楽は“壁”ではなく、“橋”を架けるものです」

 自国(自身の)利益を過度に強調し、隣国への敵対姿勢をあらわにして恥じない大統領への強烈な皮肉であり、カウンターパンチであった。

 マが使った”Social Impact”という単語をサイモン氏も多用した。すなわち、LAフィルが重視するのは、社会的存在としてのオーケストラという側面だ。LAフィルの2019~2020プログラムのテーマに、”Social Justice”や ”Gender parity”といった極めて政治的な言葉が躍るのは、その証左である。

 日本のNHK交響楽団や読売日本交響楽団が、年間プログラムのテーマに「社会正義」や「パリテ」を掲げることは考えられない。日本では、オーケストラが社会的・政治的メッセージを発するメディアだという意識は希薄である。

「バッハ・プロジェクト」で見た異様な光景

バッハプロジェクトの音楽祭内での広告=2019年8月、筆者撮影
 ところで、マは今、バッハの無伴奏チェロ組曲全6組曲36曲を世界36カ所で2年かけて演奏する「バッハ・プロジェクト」に取り組んでいる。このプロジェクトは、“day of action”という、開催地の参加者がそれぞれの文化に基づき、「より善き未来」を構築するための議論をするプロジェクトと連動しているという。

 実際、マはミシガン、ライプツィヒ、ムンバイといった開催地で、それぞれの地域や文化が抱える課題を踏まえ、「より包括的で根源的な何かを構築するために、誇りを尊厳をもって皆で集おう」と呼びかけた。

 筆者もこのプロジェクトの一環だったアメリカ・タングルウッド音楽祭でのマの演奏に接した。巨大建築物のようなバッハの大曲を一心不乱に演奏し、曲の合間に楽曲のモチーフはhumanity(人間性)、dignity(尊厳)であること、皆がより善き世界のために集うことの大切さを繰り返し述べるマ。冷たい空気が漂う星空のもと、マサチューセッツ郊外の野外音楽堂で、1万数千人が、ある者は正装し、ある者は芝生に寝転がりながら、日常を抱える個人としてマとバッハからの問いに向き合う光景は異様ですらあった。

 全曲を弾き終わったマは、興奮した口調で「忍耐(patience)と寛容(tolerance)をありがとう」と聴衆に語りかけた。最後まで付き合ってくれた観客へのジョークであるとともに、筆者はマ一流のメタファーを感じた。

 異なる個人が生きる世界では、自身の価値観や慣れした親しんだ世界と衝突する瞬間、心地よくない瞬間がある。それでも、それぞれが互いを個人、他者として認めあい、集うには忍耐と寛容が必要なのだ。「忍耐」と「寛容」をもってチェロの音色に向き合う数千のバラバラの個人という「絵図」が、どんな言葉よりもそれを雄弁に語っていた。

タングルウッド音楽祭で演奏の合間にトークするヨーヨー・マ=2019年8月、筆者撮影

社会の公器となるために「不快な鏡」を立てる

 話をLAフィルに戻す。

 では、オーケストラはどのように”Social Impact”を与えるのか。サイモン氏やチャド氏の発想は示唆に富む。

 すなわち、社会の実態を敏感に感じ理解していなければ、オケは社会的公器としての存在意義を発揮できない。そのためには、音楽家は自己完結できる音楽という世界から、外に出なければならない。音楽の外側(=生身の社会)との相互交流によって、社会的存在としてのオケの源泉を調達する。それがなければ、音楽と社会は水と油のように分離し、社会の分断を治癒する存在にはなれない――。

 チャド氏は「音楽だけに閉じこもっていた方が快適だ。しかし、あえて不快なこと、つまりクラシック音楽業界の外に出ていった」と強調した。具体的には、プログラムやイベントを企画するキュレーターチームに、音楽関係者だけではなく、他分野の専門家なども入れたという。

 餅は餅屋。業界の仲間内で企画を立てれば、快適だしやりやすいだろう。しかし、「外の」社会を理解するために、あえて “uncomfortable mirror(自分を写す不快な鏡)”を自身の前に立てる。これによって、閉じようとする自己を律することができる。ここでも通奏低音として流れるのは、「忍耐」と「寛容」である。

 話を聞きながら、日本の憲法をめぐる状況に思いをはせた。

 政治家や憲法学者は今、多様で雑多な「外の」社会に身をさらすより、耳障り良く適度に守られた快適な「業界」で自己保存のために呼吸することを優先していないか。

 「忍耐」と「寛容」を携え、未知の存在や不快な価値観に触れなければ、この世界を的確に把握し、真に社会を理解することはできないと私は思う。だが、現代社会は「自己と同じ価値観でなければ敵」といった様相を呈している。「リベラル」と称する集団でさえ、自分たちの信じる方法論や結論が唯一の正解であり、それ以外の価値観は排除して純化しようとする圧力が強い。

 「NHKをぶっ壊す」と叫ぶ政党の進出を非難する声が、特にリベラル・野党支持者に多い。だが、その政党は、既存のリベラル・野党支持者が小さなパイの取り合いをし続けた結果が生んだモンスターである。「NHKをぶっ壊す」というワンイシューとインターネット戦術を駆使した人たちが、既存の政党政治に没頭する人たちの小さなコップをよそに、外の世界との接続に成功し現代日本の民主主義を「攻略」してしまっただけのことだ。

 この現実から目を背けてはならない。外の世界をもっと積極的に把握するために、非政治的・非業界的視点をどんどん取り入れ、「選挙こそが民主主義の根幹」「政治をやりたければ政治家になれ」といった、政治業界で公然かつ暗黙の共通言語とされている言説を打ち砕かなければならないのだ。我々はあえて叫ばなくてはならない。”More uncomfortable!!(「もっと不快な環境に身をおこうぜ!!」)”と。

ホールに来ない人の思いも反映するプログラム

LAフィル100周年の記念ビール=2019年5月、筆者撮影
 話がまた脱線した。オーケストラに戻らなくてはいけない。

 サイモン、チャド氏からは、日本のオーケストラの現状を知っている私にとってさらに衝撃的な発言が続いた。

 2人が共に言及したのが、「オーケストラの役割は、癒やしを提供すること、人種やジェンダーへの公平性を与えること、そしてなにより政治的イシューを論じる場を提供することだ」という視点である。

 オーケストラが政治的イシューを論じる場を提供する??

 日本では芸能人が政治的発言をするのは御法度だし、オーケストラが政治的な問題についてのプラットフォームを提供するなどということも考えられない。

 LAフィルは、ロサンゼルスという「都市」におけるプレーヤーとして、深刻な格差やホームレスなどの社会問題を解決するための視点を提供する存在になることを常に意識した発信、プログラミング、企画立案を心がけているという。

 オーケストラがコンサートホールに来る人だけでなく、「そのコミュニティーすべての人とともにいるのだ」ということを実感できるコンテンツを提供する。LAフィルはそのために、観客が重視する価値は何か、それがLAフィルのもつ価値が合致するか、鋭敏に観察する必要がある。

 きめ細かなリサーチや多様な「外」の人間との議論を通して社会を把握することで、多様なお客さん(観衆)に響くメッセージとプログラムを実現し、コンサート会場にいなくても、自分たちが包摂されている感覚を市民が持てるようになったとサイモン氏。市民から信頼を勝ち得たLAフィルは今や全米で最もチケットの売り上げが好調なオーケストラのひとつである。

都市とオーケストラ~“LA PHIL is LA”

 チャド氏によれば、「LAフィルは世界で、アメリカで、一体なにができるのか。“自分たちにしかできない仕事”を常に考えないといけない」という。特に意識しているのが、「自分たちは都市を体現しなければならない」という点である。

 印象的だったのは、「LAフィルとはLAである(“LA PHIL is LA”)」という言葉。つまり、LAという都市の思想や人口・性別構成など、この都市が抱える「多様性」をそのままプログラムや人事に反映させるという。
幾つか例を挙げよう。

・ゲストコンダクターの40%が女性
・楽団が委嘱している作曲家の50%が女性か有色人種の作曲家。
・ゲストアーティスト(ソリストも含む)の50%が女性か有色人種の音楽家。
・YOLAプログラム(貧困層の若者向け)として、週に18時間48週間の無料音楽教育プログラム
・本拠地であるウォルトディズニーコンサートホールで行われるコンサートのうち年間100公演、ハリウッドボウルで行われるコンサートのうち2万枚のチケットは低所得者に無料配布。
・演奏曲目はクラシックだけではなく、ジャズ、ポップス、ワールドミュージック、世界の伝統的な民族音楽などを取り上げることを重視。

 クラシック音楽の世界で、演奏家や演目をここまで多様化させることは並大抵ではない。背景にあるのは、LAという都市の多様性を反映させるというモチベーションだ。LAを構成する様々な人々、特に白人以外、LGBTQ、貧困層といった人々にフォーカスし、積極的にその活力をオケに注入する。

 サイモン氏もチャド氏も、LAという都市の持つ多様性という価値にコミットする具体的な体現こそが、「オーケストラが負う説明責任の一つ」と言い、さらに続けた。「都市としての独自性を見極め、オーケストラという器を利用した社会的再分配を通じて、私たちがここに存在しているのだ、他とは違うのだという“旗”を掲げる、ということをやろうとしたのです」

 これに対し、日本はどうだろうか。多くのオーケストラがある東京。2020年五輪・パラリンピックに向け、上っ面な狂騒はあっても、都市の本質を見極め、オーケストラだけでなく、企業や公的機関といった社会的存在が都市の価値を高めているかというと、なんとも心もとない。政権が掲げる「地方創生」も同様である。LAフィルが体現したような、その都市が持つ価値についての本質論がない形式的な「地方創生」は、むしろ、その地方の価値を根本から毀損(きそん)するだろう。

 都市の価値をベースにした社会的・政治的メッセージを発信することで市民の信頼を勝ち得て、経済的にも成功したLAフィルの例は、無視すべきではない。(続く)

イメージ映像 Stokkete/shutterstock.com