アメリカのオケが法律家の僕に教えてくれた事・上
社会的影響を与える存在を目指すLAフィルがロス市民に受け入れられているわけ
倉持麟太郎 弁護士(弁護士法人Next代表)
「芸術家が芸術だけをする時代は終わった」
先日、私はサイモン、チャド両氏から話を聞くことができた。テーマは、”The changing roles of (American)orchestras in Society(「社会における(アメリカの)オーケストラの役割の変化」)” と“Programming with purpose(「目的あるプログラミング」)”である。
印象に残ったのは、シーズン中のプログラミングへの彼らのこだわりだった。LAフィルが社会での役割をどう捉えているか表現できるのはプログラミング。裏を返せば、プログラミングやイベントを通じて、社会にLAフィルの考えを発信するという強い意志がひしひしと伝わってきた。
サイモン氏の根底にあるのは、「芸術家が芸術だけをする時代は終わった」という感覚であろう。彼はそれを、世界的チェリストのヨーヨー・マが今年3月にハーバード大学のビジネススクールで行った「社会的正義のための力(force)としての音楽」と題するディスカッションを引きながら、示唆した。
マはこのディスカッションのなかで、「芸術のための芸術は終わった」と言い切ったという。では、いったい何のために芸術をするのか。マは、「残りの人生は、食いぶちを稼ぐためではなく、”social impact(社会的影響)”のために使いたい」と言う。
有言実行。マは1カ月後の4月、メキシコとの国境の荒野で、ベースボールキャップをかぶったにラフないでたちでチェロを演奏した。
「音楽は“壁”ではなく、“橋”を架けるものです」
自国(自身の)利益を過度に強調し、隣国への敵対姿勢をあらわにして恥じない大統領への強烈な皮肉であり、カウンターパンチであった。
マが使った”Social Impact”という単語をサイモン氏も多用した。すなわち、LAフィルが重視するのは、社会的存在としてのオーケストラという側面だ。LAフィルの2019~2020プログラムのテーマに、”Social Justice”や ”Gender parity”といった極めて政治的な言葉が躍るのは、その証左である。
日本のNHK交響楽団や読売日本交響楽団が、年間プログラムのテーマに「社会正義」や「パリテ」を掲げることは考えられない。日本では、オーケストラが社会的・政治的メッセージを発するメディアだという意識は希薄である。
「バッハ・プロジェクト」で見た異様な光景

バッハプロジェクトの音楽祭内での広告=2019年8月、筆者撮影
ところで、マは今、バッハの無伴奏チェロ組曲全6組曲36曲を世界36カ所で2年かけて演奏する「バッハ・プロジェクト」に取り組んでいる。このプロジェクトは、“day of action”という、開催地の参加者がそれぞれの文化に基づき、「より善き未来」を構築するための議論をするプロジェクトと連動しているという。
実際、マはミシガン、ライプツィヒ、ムンバイといった開催地で、それぞれの地域や文化が抱える課題を踏まえ、「より包括的で根源的な何かを構築するために、誇りを尊厳をもって皆で集おう」と呼びかけた。
筆者もこのプロジェクトの一環だったアメリカ・タングルウッド音楽祭でのマの演奏に接した。巨大建築物のようなバッハの大曲を一心不乱に演奏し、曲の合間に楽曲のモチーフはhumanity(人間性)、dignity(尊厳)であること、皆がより善き世界のために集うことの大切さを繰り返し述べるマ。冷たい空気が漂う星空のもと、マサチューセッツ郊外の野外音楽堂で、1万数千人が、ある者は正装し、ある者は芝生に寝転がりながら、日常を抱える個人としてマとバッハからの問いに向き合う光景は異様ですらあった。
全曲を弾き終わったマは、興奮した口調で「忍耐(patience)と寛容(tolerance)をありがとう」と聴衆に語りかけた。最後まで付き合ってくれた観客へのジョークであるとともに、筆者はマ一流のメタファーを感じた。
異なる個人が生きる世界では、自身の価値観や慣れした親しんだ世界と衝突する瞬間、心地よくない瞬間がある。それでも、それぞれが互いを個人、他者として認めあい、集うには忍耐と寛容が必要なのだ。「忍耐」と「寛容」をもってチェロの音色に向き合う数千のバラバラの個人という「絵図」が、どんな言葉よりもそれを雄弁に語っていた。

タングルウッド音楽祭で演奏の合間にトークするヨーヨー・マ=2019年8月、筆者撮影