アメリカが持っていた多様性を体現しようとするLAフィルの取り組みが持つ普遍性
2019年09月08日
「コカコーラ国のオケが法律家の僕に教えてくれた事・上」で紹介したロサンゼルス・フィルハーモニック(LAフィル)のCEO・Simon Woods(サイモン・ウッズ)氏と演奏会のプログラミング担当COOであるChad Smith(チャド・スミス)氏へのインタビューで、筆者の心に最も残ったのは、「音楽の力という言葉は普遍的すぎて、もはや力を持たなくなっただろう」という言葉だった。
「音楽は偉大です」「音楽の力は人を動かす」といった、普遍的ではあるが漠然とした言葉では、都市や市民への「説明責任」を果たさないし、投資家の財布のヒモは緩められない。この“事実”は、そのまま我々の市民社会、とりわけ政治的文脈にも応用できると同時に、現代日本社会の抱える病、とりわけリベラルの病を言い当てている。
「まっとうな政治」「民主主義の力」「憲法を活かす社会」。これらはみな、耳にして「ごもっとも」なるワードであり、否定する人はおよそ存在しないだろう。しかし、こうした当たり前に“尊く”て“綺麗な”ワードは、それゆえ、もはや人々の目には見えない空気のようになってしまい、人々の心を震わせない。
このような力なき理念的言説に、文字通り隕石(いんせき)のように衝突し“ぶっ壊し”てきたのが、たとえば先般の参院選で議席を獲得したN国党(NHKから国民を守る党)の「NHKをぶっ壊す」という、あまりに分かりやすいフレーズである。
しかし、これではダメなのである。「まっとうな政治」への無関心と「NHKをぶっ壊す」への偏狭な支持は表裏の現象であり、どちらも真に政治の「外」にいる人々にはリーチしない。広がらない。
「まっとうな政治」を実現するためにはどのようにすればよいのか。より具体的に政策やビジョンを示し、民主主義や立憲主義のステークホルダーの食指を動かさせねばならない。その努力を、現代日本社会の政治に関わるプレーヤーは明らかに怠っている。
政治に関わるプレーヤーとは、本稿の趣旨によれば、もちろん政治家だけではない。オーケストラをはじめとしたすべての社会的公器から一個人までが、民主主義や立憲主義におけるプレーヤーである。
まず、絶対に押さえなければならないのは、言論・表現に対する脅迫などの実力行使は断じて許されるものではないということである。
国家権力は憲法尊重擁護義務を負って(憲法99条)おり、我々の表現の自由(憲法21条)を尊重擁護しなければならない。表現の内容に着目して助成のあり方を問う官房長官の発言や、税金で行われているから展示を中止せよなどという名古屋市長の発言は、「特定の表現」を思想の自由市場から退出させたり援助したりする行為で、許されるものではない(”government speech”「政府言論」)。「金を出してるから表現内容にも口を出す」という関係を断絶させるのが、表現の自由という権利である。
同様に、表現者の表現に対して敵対的(攻撃的)な聴衆が現れた場合、敵対的聴衆による害悪の告知の責任を取るのは表現者ではない。国家が警察権力などを駆使し、表現者の表現の自由を尊重擁護するのが筋である(敵対的聴衆の法理)。
そこで、なにより大切なのが当該展示を遂行した主催者及び表現者のふるまいである。
我々は、表現の自由という権利が、表現者たちがこれまで芸術的表現のために命をかけた「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であり、「過去幾多の試練を堪へ」たものであること(憲法97条)に思いをいたしつつ、先人が死守してきた自由と権利のラインを後退させないよう「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」(憲法12条)はずである。今回の展示会の開催の決する立場にあった人々は、展示会を物理的に開催するかどうかを越え、自分たちがこの国の表現の自由の譲れない一線を決する立場にあったということを、自覚していなければならなかった。
民主主義社会において表現の自由とは、権力や他者との先鋭的な対立を生む「力」や「攻撃性」を内在する “ヒリヒリした”権利である。判例を引くまでもなく、本件のような権力及び社会の反応は、表現の自由の行使の結果といて、予想されたはずである。その点で、出展していた表現者たちの主催者の中止決定への抗議は、むしろロジカルである。
脅迫のたぐいは確かに度をこしていたとはいえ、主催者は税金や助成を介した権力者の間接的な表現の自由への介入に毅然(きぜん)と抗議し、脅迫行為への警察権力の出動を強く要請すべきであった。これをしないまま、その何歩も手前で自主的に展示会を中止してしまったことは、「過去幾多の試練に堪へ」てきた自由と権利のラインを、自主的に後退させてしまったことを意味する。
はっきりいって、私は今回の慰安婦像などの芸術的価値を高いとは思っていない。しかし、そもそも芸術的表現の保障それ自体は、芸術的価値とは無関係に厚く保障されねばならないし、主催者はまさにこの展示会という社会的公器を媒介に、”Social Impact”を与えることを意図していたのではあるまいか。その意味で、表現自体を自主規制したこと、純粋な芸術表現を越えたSocial Impactを企図した企画を頓挫させたことは、二重の意味で我が国における芸術の新たな展開の萌芽(ほうが)を摘んでしまったのではないか。
さて、ここまでの議論をまとめると以下のとおりになる。
・芸術のためだけに芸術をする時代は終わった。Social Impactが大事
・Social Impactを与えるためには社会を的確に理解することが必要
・社会を理解するためには、「業界内」や自分の居心地の良い価値観のみの中にいてはしく理解できない。More uncomfortable!!(より不快な「外の」環境に身をおこう)
・普遍的な言葉が力を持たない時代に、それでも普遍的価値を伝えるためには、キャッチフレーズではなく、より具体的なステークホルダーへの訴求力をもった企画の提案が必要であり、「忍耐」と「寛容」さが必要である。
本稿であえてLAフィルやヨーヨー・マを例にとったのは、以下の理由である。
クラシック音楽の本丸はヨーロッパであり、アメリカンクラシックは、本場のヨーロピアンクラシックを愛する人々からはすこぶる評判が悪い。しかし、現在、アメリカのクラシック音楽界は、ヨーロッパを中心とした「クラシックはこうあるべきもの」という概念に挑戦している。純美学的に美しい演奏ができるかどうかという観点だけでなく、都市を媒介として社会的公器としてのオーケストラはどのような「価値」を発信できるのかを模索している。この挑戦は、既存の「業界」の当たり前に一石を投じる存在として、現代社会の病理現象を打開するヒントになるはずだと直感した。
2回の世界大戦やその後の政治的動乱の時代に、芸術家たちが祖国を離れ、“自由の国”アメリカを目指した時代がかつてあった。そんなアメリカの2019年現在のトップは、アメリカの包容力を、自身の利益のために次々と脱ぎ去って恥じないどころか、むしろしたり顔である。
そんな時代にあって、アメリカが持っていたであろう多様性を体現しようと努力するLAフィルやマの取り組みは、「オーケストラ」や「都市」を媒介とした新たな芸術的表現の自由及び権利の実践として、またオーケストラや芸術の役割を越えて自由や権利の防波堤を死守する取り組みとして、場所や主義主張を越えて応用可能な普遍性があると考えた。
チャド氏との対話の最後に私は、「”Social Justice” ”Gender parity”といったシーズンプログラムのテーマはとても政治的だが、対トランプを意識したものか?」と質問を投げかけた。
チャド氏は即答した。
「特定の人間や意見に対して何か発信したり攻撃したりする(against)意図はないよ。それより、トランプも共有する、より普遍的な自由や権利にコミットすることが目的さ」
この言葉に、私はヴォルテールの言葉とされてきた次の寸言を思い出した。
「君とは意見は違う、しかし、君の表現の自由は死ぬ気で守る」
自分の立場に敵対的な言説も、それ自体は否定しない「忍耐」と「寛容」。自分に対する敵対的な言説を発する自由をこそ自分も死守する。LAフィルやヨーヨー・マというアメリカンクラシックの担い手は、あらゆる手段で失われそうな価値のための戦いの方法を示してくれている。
あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」の顚末(てんまつ)から「NHKをぶっ壊す」まで、現在の日本が直面する問題は根が深い。これに対峙(たいじ)するとき、必ず直面するのが、先ほどの普遍的価値や権利・自由についての言説を「難しすぎる」「わかりにくい」といって一蹴しようとする意見だ。
「君の意見は正しい、でも、難しいしわかりにくいよ」という意見の持ち主は、もっと簡単にしたら理解してくれるのか。答えは、否。どこまで「わかりやすさ」を追求しても、残るわかりにくさをエクスキューズに、普遍的価値を拒否するだろう。
そう、「難しすぎる」「わかりにくい」と言う意見は、実はニヒリズムの巧妙な言い換えなのである。こういう意見の持ち主は「NHKをぶっ壊す」という極めて「わかりやすい」訴えは退ける傾向にある。しかし、わかりやすくすれば理解するものと、わかりやすくしても退けたいものがあるのは、「わかりやすさ」を欲するダブルスタンダードである。繰り返しになるが、「NHKをぶっ壊す」という極めて「わかりやすい」訴えの台頭は、我々の「わかりやすさ」を求めすぎる怠惰とニヒリズムの帰結である。
マのバッハ・プロジェクトは、我々の普遍的価値への闘争のための「忍耐」と「寛容」のプロジェクトだったのである。
「カラヤンの音楽」を揶揄するときに芸術の対極を意味するレトリックとして引っ張り出された「コカ・コーラ」の国、アメリカ。しかし、コカ・コーラの国のクラシック芸術は、本場ヨーロッパの種に異質な水がまかれた結果、新たな芸術的表現及び自由や権利の挑戦的実践例を提示している。
翻って、我が国の自由や権利のための闘争も、踏ん張りどころである。
NHKをぶっ壊すという分かりやすさを拒否する人々は、いくらわかりやすくしても受け入れられない一線がある、これ以上わかりやすくすれば本質を損なうということを、直感的に理解している。そんなあなたは、コカ・コーラを飲みながら、バッハの無伴奏チェロ全曲を聞いてみてはどうだろう。ひょっとすると、その「わかりにくさ」に途中でCDを止めて、多少難しくても自由や権利の価値の方を少し背伸びして理解しようとするかもしれない。
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